散歩をする  143 分水

念願の関屋分水再訪を果たした後、すぐにでも大河津分水も見に行きたいという気持ちが強くなりました。

ただ、新幹線を使えば日帰りで行けるのですが、老後のために節約も必要だし、次の小旅行は秋ごろまで我慢しなければと躊躇していました。

 

6月に入って雨の日が多くなり、こういう雨の後は日本海側の河川はどんな感じなのか気になりました。

今まで紀伊半島や東北の河川や海を見てまわった時は晴天に恵まれたので、美しく穏やかな風景でした。なぜ分水路や放水路が必要なるのか、やはりさまざまな状況を経験しないと実感できないのかもしれません。

 

もちろん悪天候の時に河川や海岸に近づくのは人様に迷惑なことですから、通常の雨の日に行ってみようと思いつきました。

6月初旬、雨が続き、関東甲信越地方の天気予報はどこも「曇り、時々雨」の日を選んで出発しました。

 

朝、出かける時には都内は冷たい雨が降っていました。

ところが「上越新幹線がトンネルを抜けるとそこは晴天」でした。いやはや、計画通りにはいかないものです。それでも昨晩までの雨のせいか、信濃川は濁流でした。

 

*大河津分水*

 

1990年代半ばに関屋分水と新潟大堰を見に行った時には、まだネットで簡単に情報を得られる時代ではなかったので、関谷分水より前に造られた大河津分水のことは知りませんでした。

ブログを書き始めて、いろいろと信濃川水系の治水について思い出すことが増え、地図を眺めているうちにもうひとつ分水路があることに気づいたのでした。

 

信濃川がぐっと新潟市内へと流れを変えるあたりで、海へと放水路があります。

その放水路の方がむしろ本流より大きく、この辺りから信濃川は細い河川として描かれています。

ここを見てみたい。どんな地形でここが分水路に選ばれたのだろう、どんな歴史があったのだろう。

そこにも国土交通省の資料館があるようです。

 

どこから行けるのだろうと地図を眺めると、その名も「分水」という駅があったのでした。

 

*長岡から柏崎、そして分水へ*

 

長岡まで新幹線を使い、信越本線直江津行きでまず柏崎まで行きました。

初めて信越本線に乗りましたが、途中まで信濃川支流に広がる田園風景を眺め、そして山あいを縫うように列車が進んでいき、やはりどこの風景も落ち着いて美しいものでした。

 

柏崎で越後線に乗り換えると、けっこう乗客が乗っていた信越本線とうって変わって、2両編成の列車に数人だけになりました。

柏崎からは両側が山に挟まれた場所を通過します。

地図で見ると刈羽駅から200mほどのところまで原子力発電所の敷地が描かれているので、すぐそばを通るのかと思っていたら、小高い丘が続いている場所で全く見えませんでした。

一見、海に近いところを走っている路線ですが、日本海との間にはずっとこの小高い丘が続いていました。

 

小島谷駅を過ぎたあたりから水田地帯が広がり始め、遠くに大きな山が見え始めました。

その手前に大河津分水路があるのだろうと、見当がつきました。

弥彦丘陵のようで、最も高いところは650m以上あるようです。

弥彦丘陵の手前を開削して分水路をつくったのかもしれないと推測した通り、分水路を超えて分水駅に到着しました。

 

資料館を見学した後、水流の多さに足がすくみながらも分水路にかかる橋を渡り、寺泊駅まで歩いてそこから長岡行きの路線バスに乗りました。

信濃川の堤防近くを走り、田園風景を眺めて長岡に到着。

帰りの新幹線まで時間があったので、長岡市内を流れる信濃川の河川敷近くまで歩いてみました。

 

今日は淡々と経路だけを書きとどめたのですが、広大な信濃川流域の何百年にも渡る治水の歴史に圧倒された散歩でした。

 

 

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ケアとは何か  29 介護施設と植物

1ヶ月ほど前、母の日のカーネーションについて介護士さんの意見が偶然、目に入りました。

家族が花を贈ると、それの世話をしたり片付けをするのは介護士さんたちで大変だということに加えて、「花を贈るのは家族の自己満足」と書かれていたと記憶しています。

 

私自身は母の日だからといって花や贈り物をすることはないのですが、たしかに、この時期に一斉に花が施設へ送られてきたら通常業務外のことが増えるのかと、現場の声としてなるほどと思う反面、「介護施設に入所している人に植物を贈るのは非常識」ぐらいまで話がヒートアップしそうな様相に少し驚きました。

 

介護施設は生活の場*

 

なかに「病院では感染対策から植物のお見舞いは禁止」という意見もありました。

病室への植物の持ち込みをどうするかと初めて問題視されたのが、1990年代に始まった院内感染標準予防対策でした。

ただし、現在でも「免疫不全がなければ花瓶の水や鉢植え植物は感染源にならない」(2003年CDC)というあたりではないかと思います。

 

以前は、花束を花瓶に移し替えて水を取り替えることが主流でしたので、患者さん自身が水換えをできない状況など、個別に制限することも必要な場合もあったことでしょう。

ところが現在は、消毒効果のある水のおかげで2週間ぐらい水やりをしなくても綺麗なままのアレンジメントフラワーがあります。

 

分娩施設でも、時々こうしたお祝いのお花があります。

「新生児がいるから感染源はだめ」なんて根拠のない規制はしていませんし、アレンジメントフラワーであれば産後の体のきついお母さんたちでも世話をしなくて済みますから、特に問題に感じることもありません。

私も、「きれいですね!」と一緒になって眺めています。

 

まして介護施設というのはより生活の場ですから、感染対策で規制するのは筋が違うのではないかと思います。

 

*植物に励まされる*

 

9年ほど前に想定外の半身麻痺になった母は、急性期病院からリハビリ病院への転院、そして在宅か施設かの選択と、目まぐるしく生活の場が変化し重い判断を迫られた4ヶ月の後、介護付き有料老人ホームへと移りました。

 

次の面会の時に持っていったものが、小さな鉢植えの観葉植物でした。

その施設がある駅前の花屋さんで、ふと思い立って購入したときのことをはっきりと覚えています。

まだ若い夫婦がやっているお店で、お店の中にバギーに乗せられた赤ちゃんがいました。

 

母はその小さな鉢植えを、ことのほか喜んでくれました。

病院なら鉢植えは「寝づく」と忌み嫌われるものですが、そこは生活の場ですから、母は半身麻痺のリハビリ中でも水やりをかかさず、昨年、特別養護老人ホームへ移るまで大事に育ててくれました。

母が植物を育てることが好きなことを知ったスタッフの方々は、庭の植物の手入れなども勧めてくれました。

母の部屋の中は、少しずつ花や鉢植えが増えて、出入りするスタッフの皆さんもとても楽しみにしてくれていたようです。

 そして、母も車椅子から杖歩行まで回復したのでした。

 

昨年、転倒して寝たきりになると思った母ですが、いまはまた車椅子に乗りながら特別養護老人ホームでも室内の植物に水やりをしています。

「部屋に緑が欲しい」というので、小さな観葉植物を持っていったのでした。

そして母の気持ちが落ちそうになると、豪華なアレンジメントフラワーを贈っています。

私自身のなんとも言えない自己満足や罪悪感を少し意識しながら。 

 

 

そんな家族側の気持ちも受け止めてくれているのでしょう、スタッフの方々も花を喜んでくれて、写真を撮ってくれたり、花が枯れたあとの花かごにドライフラワーを入れて飾ってくれたりしてくださっています。

 

 

「ケアとは何か」まとめはこちら。 

 

 

散歩をする 142 水郷田名

相模川周辺を歩いていたら、2013年の競泳ジャパンオープンの会場に行くのに「水郷田名行き」のバスに乗ったことを思い出しました。

と聞くだけで引き寄せられていく私ですから、当時も「水郷」を見てみたいと思ったのですが、そのままになっていました。

 

ということで、また相模川周辺に出没!です。

 

地図でバス路線を確認していたら、水郷田名の近くに相模原市立ふれあい科学館と相模原田名民家資料館があり、川沿いには相模原市立史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館もあります。これは充実した散歩になりそうです。

 

相模原駅から水郷田名*

2013年にグリーンプールに行った時は、相模原駅からプールがある横山公園までは平坦だと感じていましたが、地形に目が向くようになった今回は、公園の少し手前の横山団地あたりから緩やかな下り坂になっていることがわかりました。そして公園のあたりで一回急な下り坂になり、しばらくして鳩川住宅前あたりからまた一段下がって田名工業団地へと入り、その後、田名バスターミナルから急な下り坂になって一段下がったところに水郷田名がありました。

 

これがWikiepdiaの田名の「地理」に書かれていることだと、実際に通ってみて理解できました。

相模川左岸に大きく分けて3段の河岸段丘からなる相模原台地のうち「中段」(田名原面)と「下段」(陽原(みなはら)面) にまたがり、これに相模川の現河床に沿った氾濫原を加えた3段の平坦面からなる。

(中略)

久所(ぐぞ、水郷田名)から下流で氾濫原を形成するがその幅は狭く、最も広いところでも現に水の流れている川岸から段丘崖まで700mに満たない。

 

勝手にイメージしていた美しい水田が広がる風景とは違い、かつては崖下に広がった氾濫原で、その後水田になり、そして現在は住宅地が広がる地域のようです。

 

*ふれあい科学館と大堀*

 

バスが急な坂道を降りると、すぐにふれあい科学館の停留所がありました。

事前に地図を見た限りでは水田が広がる場所に科学館がポツンとあるように想像したのですが、実際には、崖下と言えそうな坂のすぐ下の谷戸に科学館がありました。

そして周囲はほとんど住宅街です。

 

相模川流域の生息する淡水魚などの説明が充実していて、見応えがありました。

それにしてもこんなに淡水魚がいて、きちんと観察され、分類されているのがすごいですね。私には、まだまだ見分けがつかないのですけれど。

 

ふれあい科学館のすぐそばに用水路があり、小さな公園がありました。

「相模原幹線用水路(大堀)」とあって、こんな説明がありました。

相模原の米づくりは、相模川ぞいの大島、田名、当麻、磯部新戸の水田が中心です。昔の人々は、「一粒でも多くのお米を作りたい」との願いから江戸時代より相模川沿いの土地を大規模に開墾し、堤防を築き、開田して水を引き、お米を作ってきました。

しかし、大雨のたびに増水し堤防が決壊したり、川の流れが変わってしまうため「お米作りのための水」を確保するのは大変難しいことでした。

この用水路は、相模川の河床の低下などにより水田への取水が困難となったため堰の統合と合わせて昭和22年から昭和31年にかけて作られ、清水(きよみず)下首頭工を取水口とし、久所(区ぞ)、望地(もうち)、当麻(たいま)までの水田を潤しています。この用水路の完成によって農家の皆さんが安心してお米づくりができるようになりました。

Wikipediaの「田名」の「歴史」に書かれている、1858年の烏山用水と1860年久兵衛堤防あたりのことでしょうか。

 

*水郷田名から北里大学病院、相模大野へ*

 

地図でみると、ふれあい科学館と民家資料館は直線距離で500mほどなのですが、実際はそこは見上げるような崖の坂道で、歩道が一部無いような道を登らなければならない場所でした。

とても民家資料館と遺跡までは回れないので、バスで田名バスターミナルに戻り、そこから北里大学病院までバスで行くことにしました。

 

バスでこの3段の河岸段丘を少しずつ降りたり登ったりしながら、あの道保川公園の先にある県立公園、そして大きな貯水池の間を登ると、相模原台地の上に北里大学病院があることがわかりました。

 

そこから相模大野駅までバスで行き、帰路につきました。

 

幻の水郷だったけれど、相模川相模原台地の歴史がまた少し理解できて充実した散歩になりました。

 

 

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記録のあれこれ 35 津久井湖記念館

宮ヶ瀬ダムと城山ダムを見てみようと思ったきっかけの一つが、地図を眺めていたら津久井湖畔に津久井湖記念館があったことでした。

 

記念館のサイトにはこんな設営がありました。

津久井湖記念館の歴史は、神奈川県が昭和28年に発表した城山ダム築造計画に始まります。城山ダム築造計画は、神奈川県と横浜、川崎、横須賀の3市による共同事業で、神奈川県はじまって以来の一大事業でありました。

 

私達水没地域住民は、県の計画に対し、自らを守るための水没者組織を作って、事業の撤回を要請し、8年半に渡ってダム建設反対を叫び続けてきました。しかし、昭和36年8月、私たちは神奈川県民の水需要に応えるため、先祖伝来の墳墓の地を離れる決心をしたのであります。

それは、多年にわたる補償交渉の最後に、水没者の将来における生活の安定、向上を図るため「城山ダム建設に伴う総合施策要綱」が県から示されたことにほかなりません。

このことにより、昭和36年11月城山ダム築造は工事が開始され、昭和40年3月に完成を見るに至りました。

そして1年を経た昭和41年3月、県によって当記念館が建設されたものであります。

 

当館の運営については、県と種々協議を重ねた結果、水没者の共済事業も合わせて「財団法人神奈川県津久井湖協会」を設立して行うことになり、この協会の設立準備が県庁企業庁と城山ダム移住者振興協議会とにおいて進められました。 

 

県や国土交通省の施設かと思ったら、「水没地域住民」が主体の記念館でした。

私が生まれる前に計画ができて、私が生まれる頃に建設が始まった。

ダムを見て回っていた90年代頃は、まだ国が一方的にこうした事業を進め、話し合いの過程の記録は残されていないようなイメージが長いこと私にはあったのです。

 

一方、宮ヶ瀬ダムのそばには愛川町郷土資料館と水とエネルギー館があり、おそらく経緯についての展示があるのではないかと思うのですが、今回は時間がなくて行けませんでした。

宮ヶ瀬ダムも1969年には計画が発表され、補償交渉に十数年ほどかけたのちに「計画発表から29年後の2000年(平成12年)に完成」(Wikipedia、「宮ヶ瀬ダム」)とあります。

それが、現在は「みうらの水道」として45kmも離れた三浦半島まで送水されているようです。

 

ひとつひとつのダムにはそれぞれの経過があり、その時の記録を残した施設が半世紀前にはすでに造られていたことはすごいことだと思いました。

 

 

 

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小金がまわる 16 「金融リテラシーの向上」?

老後に2000万円をめぐって、報告書を認める認めないであさっての方向へ向いている印象ですね。

 

「2000万も必要なのか」に驚いた人もいるかもしれないけれど、2009年に「ねんきん定期便」が始まる以前から「月に数万円ぐらいは貯金を切り崩していくことになりそう」という予測はありましたから、どちらかというと「何を今さら」「夫婦二人で月五万円じゃあ足りないよ」というあたりですね。

 

両親を見ていると、夫婦二人で自宅で暮らしている間は「二人で数万円」でも何とかなるかもしれませんが、どちらかが施設に入ると自宅分と施設分で住居費などの生活費が2倍になり、さらに二人が施設に入り自宅も残っていると誰も住んでいない自宅の維持費もかかります。

 

「夫婦二人」を基準にした年金制度のあり方が、すでに現実問題とは違うなあという、報告書とのズレに驚いています。

年金や老後の問題は、あくまでも「個人」を単位に考える必要があるのに、それを認めたくないあたりかと。

 

そして改めて「金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書 『高齢社会における資産形成・管理』」を読んでみると、やっぱり20年前ぐらい前からすでに言われていた内容なのではないかと驚くのですが、その中でも「金融リテラシーの向上」という言葉が使われていることがとてもひっかかりました。

 

*母の「金融リテラシー」*

 

私が小学生だった1960年代から70年代ごろ、母は年に1回ぐらい私を連れて東京駅の近くにある某信託会社へ行っていました。

小学生だったので銀行と何が違うのかよくわからなかったのですが、銀行の窓口とは違って個別の部屋に通されて、母がなんだかとてもお金持ちに見えたのでした。

 

公務員だった父の給料で、どうやって信託銀行に投資していたのかというと、おそらく当時の銀行利子だったのではないかと思います。

私が新卒として働き出した頃の1980年代初頭は、普通預金の利子も2%ぐらい、定期預金だと数%もあったと記憶しています。まだ貯金額は少なかったけれど、「もし100万円を定期預金に預ければ5万円の利子」と想像してはウキウキしていました。

 

その後、あの信託投資をどうしたいるのが尋ねることもなかったのですが、両親がとうとう自力で金銭管理できない状態になってから、「母なりに工夫して貯金や保険を管理していた、いくつもの通帳」の中にはありませんでした。

 

その代わり、「お父さんの年金に頼ってはいけないと思って国民年金基金に入っていたから、今少額でもお金が入ることがありがたい」と言っています。

 

金利の時代になり、リスクのある投資はやめて母なりにその時代に応じた対応を探していたのだと思います。

そして、地方では郵便局やJAバンクの方々とのつながりが強いですから、相談しながらやりくりしていたようです。父の死後の手続きでそれらの支所に行った時、どれだけ母が貯金や生命保険のことでお世話になっていたのか、よくわかりました。

そういえば、そういう地元に密着した郵便局を「ぶっ壊す」政治家もいましたね。

そんな時代の変化に合わせて、今の高齢者も生きてきたのだと思います。

 

 

「金融リテラシー」ってなんだろう。

 

まあ、私は患者さんに向かって「健康リテラシーの向上」なんて使わないし、その人個人の生活に合わせて一緒に考えていくしかないと思うのですが。

 

 

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散歩をする  141 宮ヶ瀬ダムから城山ダムへ

相模川中流を歩いたあと、帰宅してから上流の地図を眺めました。

相模川の上流には城山ダムと津久井湖があり、さらに上流は中央本線に沿って相模湖があります。いつかそこも訪ねてみようとは思っていました。

 

津久井湖周辺を眺めているうちに、かなり近い場所にもう一つ大きなダムがあることに気づきました。 宮ヶ瀬ダムです。名前は聞いたことがあったのですが、どこにあるのかよくわかっていませんでした。

どの川を堰き止めたのだろうと川をたどっていくと中津川で、中流域で相模川に合流していました。

相模川にはいくつもの大きなダムがあるのだと、初めて知りました。

 

宮ヶ瀬ダムに行くには、小田急本厚木駅からバスで半原行きに乗れば近くまで行けるようです。

その半原のバス停を何気なくクリックしたら、津久井湖の近くの三ケ木行きのバスがありました。

三ケ木からは、頻繁に橋本駅行き行きのバスが出ていて、城山ダムの天端の上を通過するようです。

ダム天端を国道413号が通過しており、城山大橋とも呼ばれている。国道16号およびJR横浜線等の相模原市中心部へ通じる主要幹線道路となっている。ダムが幹線道路に使われる例は全国でも珍しい。(Wikipedia、「城山ダム」より)

 

あっさり、二つのダムを見て回るコースが決まりました。

 

*本厚木から半原へ*

 

小田急線の本厚木駅で降りるのは初めてでした。予想以上に大きな街で、バス停もたくさんあり、どの方面へ行くバスもすぐにいっぱいの乗客を乗せて発車していました。

市街地の人も交通量も多い地域をすぎると、10分ほどで相模川河岸段丘と思われる緩やかな上り坂で、少しずつ山の方へ入って行きます。

バス停では次々に人が降り、また乗って、「地方のバス路線は廃れて行く一方」というイメージが覆るようでした。

 

20分程で両側に山が迫るようになり、麦畑が広がり始めました。この辺りで私と一緒に本厚木駅から乗っていたもう一人の方が降りました。バス停のそばに認知症病院があり、もしかしたらご家族の面会かも知れません。ずっと車窓の風景を瞬きもしないで見続けていたのですが、ふと父のことを思い出して、しばらくは上の空になりました。

 

左手に中津川の支流の川があるようですが、急な斜面を降りていくのか、その川の姿を見ることはありませんでした。

 

平井山坂上という地名の通り、ここからは今度は下り坂になります。

つづら折りの道路の脇には古い寺社がいくつもあって、集落もまた結構大きな住宅がありました。どうやって生計を立てているのだろう。散歩をするととても気になります。

中津川の河原では、平日でしたが家族連れで、釣りやバーベキューなどで賑わっていました。

地図をながめていただけではわからない、日常の風景ですね。

 

*半原から津久井湖へ*

1時間ほどのバスの旅が終わり、半原に到着しました。

すぐに三ケ木行きのバスが来たので、残念ながら宮ヶ瀬ダム本体を見ることはできませんでした。

しばらくまたつづら折りの上り坂をバスが走ります。

相模原市に入った標識があるあたりから下り坂になり、津久井湖に向けて河岸段丘を緩やかに降りて、30分ほどで三ケ木に到着。

 

三ケ木から橋本行きのバスは、高校生で賑やかでした。

 

行く前に航空写真で見てはいたのですが、「ダムは人里離れた場所」というイメージを覆すほど、宮ヶ瀬ダムや城山ダム周辺は住宅街として開発された場所で、さらに三ケ木から橋本駅までは途切れることなく住宅街が広がっていていたことに驚きました。

 

山とダム湖周辺をちょっとしたハイキングのイメージで出発したのですが、湖の周辺に広がる都市を歩いた、そんな印象になりました。

 

 

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10年ひとむかし 52 「人口」についての半世紀

年金についても、いつも「将来はこんなに不安」な気持ちになりながら納めてきたけれど、反面、「(なんだ、あんなに不安を煽られなくてもなんとかなっているではないか)」という気持ちにもなります。

30年ぐらい前の将来の不安では想像もしていなかったことが、いろいろと実現しています。

 

30年前というと、60歳定年の時代で、「還暦」を迎えた人はずいぶんな高齢者に見えました。一部の仕事をのぞいては、とても働くだけの体力や気力もなさそうな年代に見えていました。

ところが、両親世代がその時期になって間近で見ていると、年齢相応の病気は増えても、まだまだ人生を謳歌し元気なものでした。

 

また、高齢化社会で大変になると脅かされましたが、こちらの記事の「現実的な社会実験とも言えるものもあった」に書いたように、80年台にはまだ介護という言葉さえほとんど聞かれなかったものが、その後、デイケアショートステイグループホーム、あるいはプライバシーの守られたユニット式の特別養護老人ホームまで、30年ほど前の不安が嘘のような社会が実現しています。

 

でも、現実的に良くなった面はなかなか顧みられることなく、社会というのはいつも不安な物言いの方が受け入れられやすいのかなと思っています。

 

*人口についての不安の移り変わり*

「かかとをつかんで生まれれる」でこんなことを書きました。

この一節を読むたびに、戦前の「産めよ増やせよ」の時代から戦後の「産児制限」へと日本の助産婦の仕事が変化したこと、あるいは1990年代頃の中国の一人っ子政策で女児が中絶させられていたことなどを思い起こします。

そして「少子化」も。

その時代の政治の風潮や権力の影響から、出産に関わる者はどうあるべきなのかを突き詰められる箇所でもあります。 

 

「人口問題」として、仕事上では「産んだ方がいい」「産まない方がいい」という価値観を押し付けることしたくないし、実際にしなくて済んでいる現代をありがたく思っています。

 

ただ最近の、どこを切っても「少子化で大変」という風潮が強まっていき、その反対の考え方を探してもほとんど見つからない社会の雰囲気はちょっと怖いなと感じています。

 

半世紀前、ちょうど日本の人口が1億を超えました。

当時はまだ世界の人口が50億になる前で、人口1億以上の国は日本を含むわずか7〜8カ国しかなかったと記憶しています。

「資源がない日本」「国土面積も小さい日本」と言われて、国内だけでなく海外へも出稼ぎや移民になっているというのに、世界の50分の1もの人口を日本が占めていることに漠然とした不安がありました。

 

日本の人口統計にこんなことが書かれていて、私の漠然とした不安は、当時の社会の雰囲気がそうだったのだとつながりました。

1973年(昭和48年)には人口問題研究会が主催し、厚生省(現:厚生労働省)と外務省が後援して世界人口会議に先駆けた第1回日本人口会議では、人口爆発により発生する問題への懸念から「子どもは2人まで」という趣旨の大会宣言を採択するなど人口抑制政策を進めた

 

「人口が多すぎる」というのが当時の捉え方でした。

それは、人口が多すぎるから飢餓がおこると、80年代から90年代の開発途上国の問題でも理由にされていました。

 

現在の日本は1億2千万人以上ですから、1970年代の2.5割増の人口です。

これだけの人が、この日本で生活をしていることに、ちょっとめまいのような感覚になります。

 

私自身は人口というとこの「人口爆発」への不安の印象が強く残り続けているので、最近の少子化への不安は反動のようにも見えるのです。

半世紀ほどで人口に対する考え方が反転し、今度はどこへ向かうのでしょうか。

 

 

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イメージのあれこれ 26 東北

東北というと気候も厳しく、生活するのに大変そうというイメージがありました。

半世紀ほど前、私が小学生の頃のイメージは、東北というと出稼ぎ、貧困といったニュアンスで伝えられることが多かったことが一因かもしれません。

実際に出稼ぎはありましたし、その後もニュースなどで伝えられるのは過疎化とか豪雪地帯の大変さとかが多く、「こんなに風景が良い場所がありますよ」「こんなに落ち着いた暮らしです」という情報を目にすることが少なかったのでした。

 

どうやって東北では生きていくのだろう。

ほんとうに失礼ながら、私のイメージはその程度でした。

 

今回、列車の車窓から見る景色や実際に歩いてみた街は、想像を超えるものでした。

 

鉄道が走る街の中心部だけでなく、沿線に見える家々もまた、しっかりとした造りの家が並んでいました。

新しい家も古い家も程よい感じで混ざり合って、何より街それぞれの統一感が感じられることも、「落ち着いた街」と感じる理由のひとつでした。

 

特に印象的だったのが、秋田市内から村上あたりまでの風景の変化でした。

秋田市内に近づくと、意外だったのが北欧を思わせるような鮮やかで明るい色の外壁の家が多かったことです。

それでいて、昔からの日本家屋と混ざり合っているのに不思議とうまく溶け込んでいるのは、もしかしたら窓枠が似ているところがあるかもしれません。

秋田市を離れると、トンネルを抜けるたびに海沿いに小さな集落がいくつも現れます。

そこは半世紀以上前にタイムスリップしたかのように、昔ながらの日本家屋なのですが、古いけれど古臭さを感じさせず、街全体が保存されているかのように存在していました。

通り過ぎていく集落はどこも一見同じように見えるのですが、よくよく見ると瓦の色あるいは建物のデザインが集落ごとで統一されていて、他の集落とも少しずつ違うようです。

 

そうした家並みが周囲の山や海や川、水田や畑、寺社などと調和している。

「落ち着いた街」という印象をあちこちで感じたのは、その風景が大きな理由かもしれません。

 

そして、東北に限らず両親が住んでいた地域もそうですし、昨年から見て回っている岡山や房総や南紀など、どこでも「地方」のほうが家も大きくりっぱで落ち着いた街並みです。

経済に疎い私は、みな、どうやって生計を立てているのだろうと不思議に思うのです。

そして半世紀前には、「地方は次男や三男は仕事がない」と出て行かざるを得なかった時代があり、じきに今度は過疎化を問題にされる時代になったけれど本当のところはどうなのだろう、と。

 

こうした時代の波に翻弄されながらもどっしりと存在し続けていることが、「落ち着いた街」という印象のもうひとつの理由でしょうか。

 

風雪に耐えた歴史を感じさせる、そんな言葉がイメージとして浮かびました。

 

 

「イメージのあれこれ」まとめはこちら

 

 

 

小金がまわる 15 保険や年金は希望を持たせることが信用

日本のあちこちを散歩すると、さまざまな地形や気候なのに 隅々までインフラが行き届いて発展してきたことを感じるようになりました。

そういう点で、自分の国に対する信頼というのが増してきた一方、なんで年金になるとこうなっちゃうのだろうというニュースが定期的にありますね。

たぶん20年おきぐらいかな。

 

人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書 

日本経済新聞 2019/06/03

 

金融庁は3日、人生100年時代を見据えた資産形成を促す報告書をまとめた。長寿化によって会社を定年退職した後の人生が伸びるため、95歳まで生きるには夫婦で約2000万円の金融資産の取り崩しが必要になるとの資産を示した。公的年金制度に頼った生活設計だけでは資金不足に陥る可能性に触れ、長期・分散型の資産運用の重要性を強調した。

 

金融審議会で報告書をまとめ、高齢社会の資産形成や管理、それに対応した金融サービスのあり方などを盛り込んだ。

 

平均的な収入・支出の状況から年代ごとの金融資産の変化を推計。男性が65歳以上、女性が60歳以上の夫婦では、年金収入に頼った生活設計だと毎月約5万円の赤字が出るとはじいた。これから20年生きると1300万円、30年だと2千万円が不足するとした。

 

長寿化が進む日本では現在50歳の人の25%は95歳まで生きるとの推計もある。報告書では現役時代から長期積立型で国内外の商品に分散投資することを推奨。定年を迎えたら退職金も有効活用して老後の人生に備えるよう求めた。

 

20年ほど前の個人年金保険の話かと思ってしまいました。

あの頃、盛んに言われていましたが、10年ぐらいしてから入ってみようかなと関心を持った時にはそういう商品(保険)が軒並みなくなっていました。

あれはいったいどうしたのでしょうか。

 

そして20年ぐらい前は転職ブームで「終身雇用制は古い」といった雰囲気になり、また非正規雇用で自由に働く方が人生を有意義に過ごせるかのような雰囲気になって、同じ職場に長く働き続けるという働き方が変化し始めた時代でした。

 

退職金どころか、社会保険でさえ放棄するような生き方がもてはやされて、今に至っているのかも知れません。

 

2009年からねんきん定期便が個人に送られるようになり、大雑把に計算していた額の3分の2に満たない支給額であることがわかったときは、ほんと、焦りました。

さらに年金支給開始が65歳になり、人生設計も変更を余儀なくされました。

朝令暮改のような政策で、いつまでたっても「これでなんとかなる」という目処がたちません。

 

 さらに消費税が追い打ちをかけました。

最近では年間20万円ほどです。少しまとめて衣服や家具などを購入すれば、下手をすると年間所得税と同じ額になります。

つまり、消費税増税後は実質、従来の所得税の2倍近くを納税している割りに、その分の住民税も減りません。

それでも切り詰めて、将来の持ち出しに備えて貯金もしてきました。

 

なぜか。

こちらの記事で紹介した基本的な考え方に賛同していたからです。

公的年金制度があるおかげで、現役世代は年金の保険料を支払えば、親の老後を個別に心配することなく安心して生活を遅れる仕組み。

 

政府が掲げ続けてきた理念を簡単に放棄しないで、希望の見える話をして欲しいものですね。

 

 

 

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散歩をする 140 道保川公園

上溝から歩き始めて十数分ぐらいでしょうか、丸崎という交差点あたりから相模川河岸段丘にある雑木林のすぐそばに歩道が近づくようになります。

この先に道保川(どうほがわ)公園があります。

地図では園内に水色の部分があったので、きっと湧き水があるに違いないと見当をつけて楽しみにしていました。

 

公園が近づきましたが、まだそれらしき場所はありません。

半ば人工的に園内に川や池を作っただけなのかなとがっかりし始めたところで、じわりと水が湧き出ている小さな湿地を発見しました。

 

そこから先は驚くほど別世界になりました。

あちこちから湧水が湧き出ているようで、雑木林の中からじわりじわりと流れていた水が集まり、最後は大きな池になっています。

 

ゴールデンウイークの真っ最中というのに公園を訪れる人は少なく、こんなに美しい水辺と水音をほぼ独り占めしたのでした。

 

Wikipediaによれば7.7haもあるようです。

マムシに注意」とあったので、広い雑木林の方は歩きませんでしたが、水のそばを散歩するだけでも結構な距離になりました。

 

公園の公式サイトにには何年にどのような経緯で開園したのか歴史が書かれていないのですが、湧水とその周辺の森はいつまでも大事に保存されて欲しいと思いながら後にしました。

 

 

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