水のあれこれ 108 水が癒してくれる

古賀淳也選手の「皆様へ」がnoteに公開されていました。

 

昨年4月に私の尿検体から禁止物質が検出されたと連絡を受け取ってから、1年以上の時間をかけて自身の身の潔白を訴えてきました。そしてこの度、CAS(スポーツ仲裁裁判所)での手続きにおいて、FINA国際水泳連盟)より意図的な摂取ではないと認められたことで、資格停止期間が4年から2年に短縮されました。

 

当初は4年という長い資格停止期間と直面した問題の重大さから、このまま引退する他はないと考えることもありました。しかし、自分のことを信じて応援してくださる方々を裏切りたくないという思いから、意図的に摂取したものではないということだけは必ず証明をするのだと強い気持ちを持ってこの問題に向き合ってきました。

手続きを重ねていく過程で、「このまま選手生活を終わりにしたくない、意図的な不正でないことが認められるのであれば選手として復帰をしたい」と考えるようになりました。そして今、資格停止期間が2年になったことで選手として復帰をする決断を致しました。

希望が全く見えない中で気持ちの浮き沈みや自暴自棄になりそうな時もありましたが、その度に私の周囲の方々の応援や温かいお言葉が私の支えとなり、幾度となく前を向き直して問題の解決に取り組むことができました。本当に、心から感謝をしています。

 

資格停止期間が短縮されたからといって目前に控えた東京オリンピックに出場することは叶いませんが、2021年には福岡で開催される世界水泳があり、2022年には昨年出場することが出来なかったアジア大会があります。それらの国際大会に出場をしてメダルを獲得することを目標に、選手としてもう一度戦いの舞台に戻りたいと考えています。

これまでの資格停止期間中もルールに従って一定の条件のもとで練習をする事も出来ましたが、自身の潔白が証明されるまでプールで泳ぐことはありませんでした。今年で32歳という年齢に加えて1年以上のブランクがあるということは自身にとっても大きな挑戦となりますが、今まで応援してくださった方々と水泳選手としての私自身の為にも、もう一度選手として第一線で活躍したいと思います。

 

また今後はより一層積極的にアンチドーピングのための様々な活動に参加し、違反者となってしまった視点から自身が体験したことや改めて選手が行う必要のあること、知るべきことを発信して私のような選手を少しでも減らしたいと考えています。

 

長くなりましたが、この度は世間をお騒がせしてしまったこと、期待をしていただいていた方々にたくさんのご迷惑をおかけしてしまったことを心からお詫びいたします。

そしてこれからも水泳選手古賀淳也をよろしくお願いいたします。

(2019年8月5日)

 

ああやっぱりプールに入っていらっしゃらなかったのですね。

それがどんな気持ちを表していることでしょうか。

 

1年ぶりの水の中の感覚、あのふわりと浮き上がる感覚、水の中を歩くかのように進むあの感覚。

すべてが今度こそ、古賀選手を癒してくれることでしょう。

そして、今までの練習の成果がすべて発揮されるような泳ぎになることでしょう。

 

それにしても、意図的摂取でない場合にもイエローカードではなく、いきなり長期間資格停止のレッドカードを出すこうしたアンチドーピング運動が、どれだけの選手の夢や人生を狂わしていることでしょうか。

選手の皆さんの健康を守るはずだった運動が、どうしてこういう方向になっているのか、目を離さずに考え続けていきたいと思いました。

 

 

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数字のあれこれ 52 「頑張って作っても50回」

昨年の倉敷の水害から1年が過ぎました。

西日本豪雨のその後の様子がドキュメンタリー番組になっていると、録画するようにしています。ただ、東日本大震災の番組もそうですが、観ようと思っても再生するまでに一大決心が必要になり、そのまま削除してしまうことがあります。あるいは途中まで観ると、やはりつらくなってやめてしまうこともあります。

 

6月下旬にNHKが放送した「みかんの花が咲く谷で 豪雨から1年 農家たちの自叙伝」も録画したまま、しばらく観るのをためらっていました。

 

あちこちを散歩するようになって、急峻な山々に建てられた家や畑、あるいは森を見る機会が増え、また それぞれの地域の災害の記録を知るようになったことで、訪ねたことがない地域でもまるで行ったことがあるような気持ちになっています。

 

録画してから1ヶ月ほどして、ふと思い立って観ることにしました。

 

*「頑張って作っても50回」*

 

番組では数人の方を中心に、災害直後からの様子を追っていました。

どの方の言葉も心にずしんとくるものばかりで、この集落の小さな社会に入り、ここまで言葉を引き出した側にも、ドキュメンタリーの真髄を感じさせるものでした。

 

その中で、一旦はみかんづくりをやめようと思った若い方の言葉にハッとしました。

生きもの相手にするのって難しいですね。年に1回しかならないんで、みかんで頑張って作っても50回。 

 

今年は豊作か、値段はどうか、ぐらいしか考えたことがなかったと恥じ入りました。

 

収穫できるようになってから、人生の中で50回ぐらいしか収穫の時期を経験できないのですね。

ましてや、1970年代ぐらいまでの人生50年の時代なら、半分の回数だったことでしょう。

当たり前といえばそうなのに、なぜかこういう大事なことをあまり考えずに生きているのかもしれません。

 

そして作物を育てるのにも初心者から達人までの段階があることでしょうし、自然という不確実で無慈悲な条件を相手に、会心の出来というのは何度あることなのでしょうか。

 

他の方が「農業というのは先祖の資産を活用して子どもを成長させていく」とおっしゃっていたのですが、30才ぐらいで「頑張って作っても50回」と諦観を持てるのも、先祖の資産の一つなのかもしれないと思えたのでした。

 

 

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理不尽に共に耐える

ちょっと偉そうなタイトルですが、待ちに待ったニュースがありました。

 

8月2日付の日本経済新聞の「競泳・古賀、資格停止2年に短縮 五輪選考会は出場できず」です。

スポーツ仲裁裁判所(CAS)は2日、競泳男子で2018年リオデジャネイロ五輪代表の古賀淳也がドーピング違反で国際水連から受けた資格停止処分を4年間から2年間に短縮すると発表した。資格停止期間は20年5月14日までで、東京五輪代表選考会を兼ねた来年4月の日本選手権は出場できない。

 

古賀は18年3月の抜き打ち検査で尿検査から筋肉増強効果のある禁止物質が検出された。しかし、服用したサプリメントに禁止物質が混入していた可能性が高く、重大な過失はないと主張。国際水連が訴えを認めて処分軽減に合意したという。

 

古賀は9年世界選手権の100メートル背泳ぎで金メダルを獲得。リオ五輪では400メートルリレーのメンバーだった。

 

どういう基準と判断で4年から2年に「短縮」なのかよくわからず、これでも長いと感じますが、それでも古賀選手の訴えが認められたことは本当に待ちに待った朗報でした。

 

そして翌8月3日には「競泳 薬物陽性の古賀 現役続行へ 資格停止解除後から」(NHK)と伝えられました。

ドーピング検査で禁止薬物に陽性反応を示し、2年間の資格停止処分が決まった競泳の古賀淳也選手がコメントを発表し、現役を続行する考えを明らかにしました。

 

リオデジャネイロオリンピックで競泳の日本代表だった古賀選手は去年3月、WADA=世界アンチドーピング機構のドーピング検査で、筋力増強効果のある禁止薬物反応を示し、国際水泳連盟から4年間の資格停止処分を通達されました。

 

その後、スポーツ仲裁裁判所の手続きで、サプリメントに意図せず禁止物質が混入していたことが認められたため、今月2日、処分が2年間に短縮されることが決まりました。

 

一方で、資格停止処分が解けるのは来年5月中旬で、東京オリンピックの代表選考を兼ねる予定の来年4月の日本選手権には間に合わず、去就が注目されていました。

 

古賀選手は3日、代理人の弁護士を通じてコメントを発表し、「自分の不注意が招いた問題で世間を騒がせ、応援と期待を寄せて頂いた皆様にご迷惑をおかけしたことを改めてお詫びします」と陳謝しました。

 

その上で「来年に迫った東京オリンピックに出場することはできませんが、もう一度世界の舞台で活躍ができたらと思います」などとして、再来年、福岡で開かれる世界選手権や、2022年のアジア大会に向けて現役を続行する考えを明らかにしました。

 

古賀選手は埼玉県出身の32歳。

 

リオデジャネイロオリンピック、男子400mリレーのメンバーとして日本の48年ぶりの決勝進出に貢献し、去年の日本選手権では男子50m背泳ぎで9連覇を果たしています。

 

ほんとうにこのニュースを心待ちにしていました。

昨年の理不尽なできごとから1年、きっと古賀選手の人柄を信じてこの日を待っていたたくさんの人がいたことでしょう。

 

 

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記録のあれこれ 41 ビデオ判定システム

世界水泳2019の熱戦のあと数日を置いただけで8月2日から3日間、FINAスイミングワールドカップ東京大会が辰巳国際プールで行われています。

東京大会のあと8月中に中国、シンガポールで、そして10月、11月と7カ国で開催予定のようです。

 

いつもならワールドカップ短水路(25m)で、東京大会は 秋の開催なのですが、急に日程が変更になり、しかも長水路(50m)の大会になったことを6月頃に知りました。

 

2017年の大会の時に、「その大会で活躍することが目標というよりは、その先にあるメインの大会に向けて強化の一環でもあり、短水路でスピード感を身体に覚えさせながら技術を磨き、さらには賞金を狙っていける」という松田丈志氏の記事を紹介しましたが、今回は長水路での試合なので、スピード感よりはタフさと集中力が目標でしょうか。

 

初日にもカテインカ・ホッスー選手が200mバタフライで優勝しましたが、あの鉄の女でさえ、疲れのためか泳ぎがとても重く見えましたし、泳ぎ終わってプールから上がる時も疲労困憊している様子に見えました。

それでも、初日には3人ほどの海外選手が大会新記録を出していましたから、皆さん疲労が溜まった中でも、ちょっとした気持ちの変化と集中力で泳ぎを再現し、越えていく

それが、競泳の醍醐味かもしれません。

 

さて、そんな大会の中でちょっとショックだったのは、あの百戦錬磨のローランド・スクーマン選手が50m自由形の予選で失格になっていたことです。

 

*ビデオ判定システムが取り入れられた*

 

先日の世界水泳の200m個人メドレーでの大橋悠依選手の失格は、「まさかあの選手が」と驚きました。気持ちを切り替えて、最終日の400m個人メドレーは見事だったと思いました。

 

今シーズンはなんだかこの失格の判定が気になって検索していたら、ちょうど松田丈志氏の「露わになった日本競泳陣の課題。女子強化と若手の発掘が急務だ」(Sportiva、2019年7月30日)の記事の中で、判定システムが変わったことが書かれていました。

 

今回のトピックスでは、ビデオ判定システムの導入もあった。これまで競泳はプールの上から各レーンのスタートサイド、ターンサイドそしてプールサイドから審判員が目視で選手の動作に違反がないかチェックしていた。これまでは違反を取るのは審判員の目視で、その場の判断でしか取れなかった。しかし、今回からは目視で疑わしい動作があった場合、レース中に水中から録画し続けている映像をレース中またはレース後に確認して審判員が判定するようになった。大きな違いは、全てのレースで映像が残っているため、審判員は自分の目視だけで判断する必要がなく、疑わしい動作が見られた場合、すぐにビデオ判定を活用できるようになったことだ。

 

バレーボールでも数年前から「チャレンジ」が取り入れられた記憶があるのですが、2013年のようです。

審判員や監督・選手が見たことと、ビデオの記録では違うことが明確にわかるようになりました。

 

人は見ているはずなのに見ていなかったり、思い込みや認知バイアスに陥りやすいので、客観的なデーターで正確な判定をするシステムは、むしろ選手を守るリスクマネージメントともいえそうです。

ただ、ターンの時のフォームの正確性も厳密に求められるようになるので、私なら泳ぎがぎこちなくなりそうですが。

 

これまでは「疑わしきは罰せず」という気持ちで見ていた審判員が、「疑わしきはすぐにビデオ判定でチェック」というふうになったことが大きな違いだ。そのため今大会は、今まで以上に失格を取られた選手が多かったし、競技進行中、ビデオ判定の審議のために時間が使われるシーンも多く見られた。

 

なるほどそういうことだったのかと、松田丈志氏の解説もまた、時代の変化を正確に記録した記事だと思いながら読みました。

 

 

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行間をよむ 80 温故知新

こちらの記事で「私にとってよりどころになる」と書いた「周産期医学必修知識」(東京医学社)ですが、最新のものは2016年に出版された第8版で、私が30年ぐらい前に初めて見た本の2倍ぐらいの厚さになりました。

 

ガイドラインや標準化された内容が紹介されていることもありますが、まだまだ対応方法が統一されているわけではないものの方が大半という印象で、大学や病院によってはこういう考え方や方法もあるのかと参考になります。

「この方法が一番」というものはなかなかなくて、「それをした場合としなかった場合」「この方法と別の方法」の根拠を示していくには、とてつもなく時間がかかるのが医療なのかもしれません。

 

この「周産期医学必修知識」には「周産期医学」という月刊誌があります。時々書店で見て、関心を持った内容であればバックナンバーを購入しています。

7月号が、「特集 知っていますか? 産科主要疾患 最新の定義/海外の定義との違い」でした。

 

私が助産師になって30年ほどの間に、新しく疾患名や定義、概念などができたものや、あるいは、その名称や治療方法が変化した背景など、その歴史の一端が書かれていたので迷わず購入しました。

 

*HELLP症候群の歴史*

 

私が2年目の時に、33週の妊婦さんが突然の血圧上昇と胃痛で来院され、搬送先の大学病院で亡くなられたことをこちらの記事で書きました。

今ならすぐに「HELLP症候群」と閃くのですが、助産婦学校の教科書にも産科医学のテキストにもまだ書かれていないものでした。

 

曖昧な記憶ですが、それからじきに1990年代半ばには、この「周産期医学必修知識」にHELLP症候群のことが必ず書かれるようになったと記憶しています。

 

残念ながらバックナンバーを処分してしまったので、現在手元にあるのは、第6版(2006年)と第7版(2011年)、そして第8版です。

第6版と第7版は同じ方が書かれていますが、改めて読み直すと第7版には少し、歴史のようなものが書かれています。

私自身が読み飛ばしていたのでした。

 

この本を購入し続けていたのは、臨床で遭遇した時にどう対処するかという知識が喉から手が出るほど欲しかったからであって、それぞれの疾患の歴史にはあまり関心がなかったのだと思います。

 

*「HELLP症候群の提唱」*

 

第7版では、「疾患の概念」が以下のように書かれています。

「HELLP症候群の由来は1982年のWeinstein報告に始まる。Weinsteinは過去25年間に経験した溶血、肝機能異常、血小板減少症の3者を合併した29症例をHELLP症候群として報告した。

第8版にも、ほぼ同じ記載があります。

1982年にWeinsteinが、「溶血、肝機能障害、血小板数減少の三徴候」を伴う29例を「HELLP症候群」として報告したことに始まる。

 

「周産期医学」7月号の「HELLP症候群 歴史的変遷を含めた最新の定義」という題名に惹かれて購入したのですが、その記事の「HELLP症候群の提唱」に以下のように書かれていました。

その始まりは1980年にDr.Weinsteinのもとに母体搬送された臨床診断困難な妊婦の死がきっかけだった。症状は子癇前症に加え、出血を伴わない溶血、意識清明低血糖、血小板の減少、肝機能やビリルビンの異常高値であった。確定診断がつかないが急性脂肪肝が一番疑わしく、分娩後に治療を進める予定としたが、治療したにもかかわらず症状は改善せず昏睡状態となり心肺停止状態となった。彼にとっては初めての母体死亡経験であり、死後解剖でもその死について十分に説明することができなかったことから、その死因を究明するために、同様像の妊婦を産科領域まで文献検索して、子癇前症の異型像を見いだした。そして、さらに2年間に29人の妊婦のデーターを集めてまとめ、1982年に溶血(hemolysis)、肝酵素上昇(elevated liver enzyme)、血小板減少(low platelet)の3主徴をもつことから「HELLP症候群」として提唱した。

 

1980年にDr.Weinsteinが遭遇し、2年後の1982年にその概念が提唱され、1990年ごろはまだ教科書的には明確には記載されていなかったのかもしれませんが、搬送先の大学病院ではHELLP症候群の診断名で治療がすすめられました。

この報告が、日本の産科医の先生方の中にも伝わっていたということですね。

 

ああそうなのだ。

私が初めてHELLP症候群のお母さんに対応したその10年前は、まだ世界中で概念もなかったのだと歴史がつながったのでした。

 

医療現場では治療にしてもケアにしても、どうしても「今目の前の人にどう対応するか」が最優先になるのですが、たまには立ち止まってその診断名や概念がいつ頃、どうやって出てきて、どのように変化してきたのか歴史を知ることが必要だと思うこの頃です。

 

そういう意味でも、この特集号は周産期でなじみ深い疾患名のここ30から40年の流れを知るのに参考になりました。

 

 

 

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行間を読む 79 飯田線の歴史

数分歩いただけで汗が吹き出すような気温の中、飯田線のあちこちで保線工事が行われていました。

単線で片側は山や崖の斜面だったり、あちこちから湧き水や川が天竜川へと向けて流れ落ちるような状況で、厳しい天候でも安全のために働く方々に、心の中で頭を下げていました。

 

驚くのは、道路がないような渓谷の途中でも、保線工事をしていました。

あとで地図で確認しても、道路は描かれていません。作業用道路で途中まで車で来て、あとは徒歩で山中に入るのでしょうか。

 

日本のあちこちで、こうして毎日、全ての線路が整備されていることを実際に見る機会が増えました。

そして日本だけでなく、「人命を預かる鉄道路線」の仕事を誇りに思い、その仕事を最も忠実に果たすことを「出世」と思う人たちで、世界中の鉄道が維持されているのですね。

 

飯田線とは*

 

Wikipedaiの飯田線によれば、飯田線の開業は1897年(明治30年)に開通し、全線開通はちょうど40年後の1937年(昭和12年)とあります。

開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河天竜・中南信の都市農山村を結ぶ線路。起点の豊橋から終点の辰野駅を経て長野県の上諏訪市まで各駅停車で直通する列車もあり、豊橋駅から辰野駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。  (「概要」) 

 

帰宅してから改めて天竜川の歴史を読むと、あの険しく水害が多い地域にダムや鉄道を建設するまでの長い歴史や、その後のあらたな治水事業の問題や時代の変化に圧倒されています。

 

三河川合駅天竜峡駅間*

 

Wikipediaの「飯田線」のなかで、特に印象的だったのが「三河川合駅天竜峡駅間」の箇所でした。

三河川合駅天竜峡駅間は三信鉄道によって開通した。鉄道会社が設立されたのは、鉄道が投機の対象となっていた1927年(昭和2年)であり、路線測量はその翌年4月から開始された。測量には、アイヌ民族測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子トらが高級で招聘されて従事した。ところが、1929年(昭和4年)には昭和恐慌が起こり、経済情勢が急変。だが、筆頭株主が東邦電力と天竜電力という電力会社で、濃くなる戦雲の中、天竜川に国内エネルギー資源開発をもくろんでいた両社は、電源開発発電所建設など)の資材や労働力運搬のため鉄道を利用しようとして、1929年(昭和4年)8月の天竜峡駅門島駅間の着工後も工事は放棄されることなく、1930年(昭和5年)には南から三河川合駅出馬駅間も着工した。

 

しかし、中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。1931年(昭和6年)からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎の工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年(昭和12年)である。 

 

最初、「川村カ子ト」を「カト子」に読み間違えたので、当時アイヌの女性測量士がいたのかと驚きました。

川村カ子ト(かねと)氏だそうです。

1893年明治26年)のお生まれですから、「鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格」した頃は、ちょうど物理測地学の発展と写真測量術の開発の時代に入る頃で、時代の大きなうねりの中で測量を学んだのかもしれません。

 

 

飯田線の工事にも、多数の朝鮮の方々が過酷な状況で従事されたのだと知りました。

上記の「川村カ子ト氏」のWikipediaの記事の「文献・資料」に、「三信鉄道工事と朝鮮人労働者ー『葉山嘉樹日記』を中心に」という論文がリンクされています。

同じ頃、日本人もまたフィリピンのベンゲット道建設のために出稼ぎに出ていました。

 

飯田線の一区間について書かれたわずか10行ほどの記事ですが、その行間には知り尽くせない多くの事実があることに、歴史を知るということはどういうことなのかますます戸惑うようになりました。

 

 

 

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散歩をする 149 天竜川とダム

梅雨明けの晴天の日でしたから、内陸部は暑いことは想像できました。事前に見た岡谷あたりの天気予報でも33℃ぐらいありましたが、さすがに川のそばは涼しいだろうとたかをくくっていました。

結果、天竜峡のそばを木陰を選んで20分ほど歩いただけで着替えたくなるような汗の量でした。

 

旅半ばで熱中症で倒れることは避けたいと、駅前のお店に入って涼むことにしました。

天竜川を見たくて諏訪湖から豊橋まで行くことを話すと、お店の方が「ここからはトンネルの合間に少しだけ川が見えるぐらいだけど、風景がどんどんと変化しますよ」と教えてくれました。

 

私よりひと世代ぐらい上の方でしょうか。

この天竜川とともに暮らしてこられたお話を伺いたかったのですが、初対面でいきなり災害の記憶を呼び起こすことになってもと躊躇して、お店を出たのでした。

 

 

*人が近づくのを許さないような渓谷*

 

特急「伊那路」が入ってきました。夏休みなので混んでいるかと思い、川が見える側の指定席を予約しておいたのですが、乗客は十数人ぐらいでした。

 

出発すると、ほんとうに少しだけ天竜川が見えては、またトンネルです。

 

飯田線の「三遠南信地区(本長篠駅天竜峡駅間)」に「宇連川天竜川沿いの小町村・小集落を縫って走る急峻な山岳路線である」とあります。

南紀秋田から新潟沿岸部を列車で通った時にも、海岸沿いや大きな川、山の中と「こんな場所に鉄道を敷いた」ことにあらためて驚くことが多かったのですが、天竜峡からの風景はまた少し違いました。

 

時々、車窓から集落が見え、そしてまた人が全くいそうにないような山々が続く風景は似ています。

何が違うのだろうと思って見ているうちに、線路に沿った道路がほとんどないことではないかと思えました。

天竜川ぎりぎりの山肌に線路が敷かれています。

こちら側にも道路がなく、そして対岸にも道路がない場所がけっこうありました。

 

人を寄せ付けないような渓谷に、列車だけが走っているのでした。

 

*流れがゆっくりだった*

 

渓谷の川というのは大きな岩に水がぶつかって激流のイメージですが、天竜峡付近は水面が穏やかでした。

ただ、水量は多く流れは速いことが、表面にできる水紋から想像できました。

これだけの流れが、これからさらに狭い渓谷を流れ下るのですから、白い水しぶきをあげて流れる川をイメージしていました。

 

ところがトンネルの合間に見える天竜川は、まるで流れていないかのような水面を湛えています。

行けども行けども、ほとんどがまるで湖のような水面です。

 

天竜峡を出て3つほど駅をすぎた頃だったでしょうか、「泰阜(やすおか)ダム」という看板がありました。

小学生か中学生の頃に耳にしたダムです。

湖のような流れはダム湖の上流だったからだとわかりました。

 

佐久間ダム飯田線

 

門島のあたりで見えた天竜川は、川の流れがわかりましたが、しばらくするとまた湖のようです。

次の平岡ダム付近まではまだ4駅もあります。

そしてまた少し川の流れが見えた後、また湖のような風景になり、いよいよ佐久間ダムの上流に入り、そこからは大きく線路が静岡側へと曲がります。

 

Wikipediaの「飯田線」を読んで、なぜ線路が曲がっているかがわかりました。「佐久間ダム建設に伴う路線変更」の箇所に理由が書かれています。

佐久間ダムにより水没する部分は佐久間駅・大嵐(おおぞれ)駅間の約18kmであり、この区間には豊根口駅、天龍山窪駅、白神駅の3つがあったが、これらは線路共々廃止となった。

 

一方、「水窪線」は、佐久間からトンネルで水窪川水系に出た後、秋葉街道沿いに水窪町まで北上、そこからトンネルで再び天竜川水系に戻り大嵐に至るという現在のルートである。

 

大嵐駅からじきに長いトンネルに入りました。

長い長いトンネルを抜けると水窪駅ですが、冷房が効いた列車がトンネルを出た直後に、車窓の外側の結露でしばらくはモヤがかかったような風景になりました。

 

結露が落ち着いて再び車窓の風景が見えるようになりましたが、ここからは水窪川に沿って列車は走ります。

天竜川の支流なのですが、私がイメージしていた水量と水しぶきをあげて流れる渓谷の川です。

 

この流れで「支流」なのですから、本流の天竜川はダムができるまではどんな川だったのでしょうか。

 

佐久間駅を抜けるとすぐに、佐久間発電所が見えました。

佐久間ダムからの天竜川の流れは、残念ながらまたすぐにトンネルに入ってしまい見ることができませんでした。

 

ここからは天竜川の別の支流沿いを走り、分水嶺を超えて、今度は豊川の源流である宇連川沿いに豊橋まで、車窓の風景が変化していきました。

 

 

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散歩をする 148 天竜川と天竜峡

諏訪湖から流れ始める天竜川の姿がなんとも不思議でしたが、これが中流域の天浜線や、下流東海道新幹線の車窓から見た天竜川の始まりだと思うと感無量でした。

川幅いっぱいにゆったりと流れるこの川が、その後どんな変化をしていくのか想像がつかないまま飯田線に乗りました。

 

*伊那地区(辰野〜天竜峡)*

 

飯田線が大きく3つに分けられる中で、伊那地区はまだ天竜川に沿った河岸段丘が広がる地域でした。

天竜川に沿って車窓からの風景を楽しみにしていたのですが、川よりもかなり高い位置を走っているので、時々川面が見えるぐらいでした。

ただ、山側のいたるところから沢や川の勢いのある流れがあり、天竜川へと流れ込んでいるのが見えました。

 

緩やかな傾斜に沿って、数十センチ以上に伸びた緑の濃くなった稲が風に揺れる風景がはるか遠くまで広がっていました。

よく見ると、線路沿いの山の中にも勢いよく水が流れる水路がところどころにあります。

山肌を流れる水を集め、川へと流しているのでしょうか。

どんな治水と治山の歴史があったのでしょうか。

 

お昼頃に乗った列車は、夏休みの部活帰りなのか地元の学生さんたちでいっぱいでした。飯田駅までは、地元の人たちや登山客などで常に満員状態でした。

 

飯田駅を過ぎると、車内は数人ぐらいになりました。

残されたのは、飯田線天竜川に興味がある人の印象でした。

 

天竜峡

 

天竜峡といえば観光地というイメージだったのですが、平日の午後、それほど人が多くありませんでした。

駅前にある天竜川を一望できる公園に立つと、ここまでの水量が多いけれど比較的ゆったりと川幅もある流れから一変した風景になります。

川幅が急に狭くなり、両岸は岩に囲まれた流れでした。天竜川の治水開発に以下のように書かれています。

赤石山脈木曽山脈という日本の屋根に挟まれながら流れる天竜川水系は、その急峻な地形ゆえに古来より水害に悩まされた、古くは701年に天竜川最古の水害記録が残される。特に伊那谷の出口に当たる天竜峡付近は川幅が急激に狭隘(きょうあい)となることから、伊那谷は特に洪水の被害が顕著であった。天竜川最大の洪水は1715年の「未(ひつじ)満水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまだったと記録に残されている。 

 

釜口水門にも「諏訪湖を取り巻く流域面積は湖面積の40倍近くにもなり、大雨が降るとたちまち氾濫を招いていた」と書かれています。

大雨による増水が諏訪湖周辺に留まり、あるいは伊那谷に降った大雨が、この美しい天竜峡で止められてしまうことを想像するだけで恐ろしい風景です。

明治時代に入り、天竜川の治水は1885年(明治17年)に従来の囲堤を連結堤防に構築することから始まった。1927(昭和2年)には引堤や川幅の拡幅は行われたが水害の根本的解決には至らなかった、この後、諏訪湖の洪水調節を図り諏訪盆地を水害から守るため釜口水門が天竜川の流出部に1937年(昭和12年)に建設された。(「天竜川」)

さらに、旧水門処理能力の3倍に当たる現在の水門が建設されたのが1988年(昭和63年)ですから、わずか30年ほど前のこと。

 

私が子どもの頃からは水害の記憶が少ないのは、単に私がこの上流部の治水の長い歴史を知らなかったからでもあるのだと改めて思ったのでした。

 

 

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散歩をする 147 天竜川の始まりを見に行く

 春に遠州から駿河へと歩いた時に、天浜線天竜川の鉄橋を渡りました。

その時に、水源を辿っていくと諏訪湖だったことに驚きました。多摩川とか荒川、利根川のように奥深い山々のどこかに湧いた小さな流れをイメージしていたのです。

 

ということは、あの大きな諏訪湖は平らではなくて天竜川が始まっている方向へ向かって少しずつ傾斜があって流れ出し、あの急峻な山々の間を流れていくのでしょうか。

この目で見て見たいと心が踊ったのですが、諏訪湖まではそれほど遠くはなくても、天竜川に沿って通っている飯田線豊橋まで94駅もあり、日帰りでは無理そうと思いながら散歩の計画ノートに書いておきました。

 

地図を何度も眺めているうちに、天竜峡で一旦降りて周辺をみて、そのあと特急に乗れば夜には豊橋に到着できそうなことがわかりました。

 

*中央線で岡谷まで*

岡谷までは中央線の各駅停車に乗ってみました。

早朝、6時台というのに高尾までは上り下りともに通勤客でいっぱいです。

いつもなら私も、この朝の民族大移動の中のひとりです。

 

高尾からは山の中を通り、特急ではあっという間に通過してしまう小さな支流の流れもよく見えました。そして懐かしいあの信玄堤のある竜王を過ぎ、富士川の源流である釜無川に沿って列車は長野へ向かうのですが、地図では釜無川のすぐそばを走っているように見える韮崎や穴山あたりでも、線路の方が川よりかなり高い位置を走っているので川は見えませんでした。

 

小渕沢を過ぎ、県境を越えてしばらくは富士川の支流と思われる流れでしたが、富士見駅を越えたあたりで川のない地域が続き、そしてすずらんの里駅の手前あたりから再び水量の豊富な川が現れ始めましたが、流れが諏訪湖へと向かっていました。

このあたりが分水嶺のようです。

 

山肌のあちこちから白いしぶきをあげて水が流れてくるのが見えます。

これが「暴れ川」と呼ばれた天竜川になっていくのかと、今まで諏訪湖へ流れる川のことを何も知らなかったのでした。

 

茅野駅のあたりから平地が見え始め、遠くに鏡のように諏訪湖の湖面が輝いて見え始めました。

諏訪湖に沿って弧を描きながら上諏訪、下諏訪と通過し、岡谷駅に到着。

 

駅から2〜3分も歩くと、天竜川が見えます。

川の始まりというイメージとはほど遠い、ゆったりとしたまるで下流の川のようです。

その先に、釜口水門が見えました。

諏訪湖には31の河川が流入するが、流出河川は天竜川のみである。

 

行く前にWikipediaを読んでも頭に入らなかったこの一文が、実際に訪ねて見て理解できました。

 

そしてやはり、天竜川に沿って少しずつ緩やかに下り坂になって、伊那の谷の方へと流れているようです。

 

 

 

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ユリ

子どもの頃に引っ越した地域には、ヤマユリがあちこちに咲いていました。

ユリは庭で育ているというよりも、道端や野山のどこにでも自生している花でした。

ちょうど夏休みに入る頃に咲き始めてここかしこに良い香りが漂うので、いまでもユリの香りは大好きで、子どもだった時代の思いも一緒に蘇るような花です。

 

70年代終わり頃に看護学校に入学するために都内に戻った頃に、都心でのおしゃれな花屋さんで見かけたユリは、真っ白のものばかりでした。

ヤマユリのように花びらに斑点がありません。

当時も1本数百円から千円以上もする高価な花でしたから、都会はユリも違うのかと、それまで私にとってユリといえばヤマユリだったのに、ちょっと格下げされたような気持ちになったのでした。

 

その頃から耳にするようになったカサブランカですが、「1970年代にオランダの育種会社で育成され、世界的なブームを呼んだ」とありますから、真っ白なユリは都会のユリだったわけではなくて、ちょうどその頃に広がりだした新種だったようです。

ヤマユリが「百合の王様」で、カサブランカは「ユリの女王」だそうです。

 

いつ頃だったか、ユリは日本が原産で、ヨーロッパに広がって品種改良が行われたということを知りました。

今年に入っても、なんの番組だったか忘れましたが、「シーボルトがヨーロッパへ持って帰った」という話が紹介されていました。

 

Wikipedia「種としてのユリ」を読むと、日本特産の種が7種もあるようです。

 

Wikipediaヤマユリの説明でも「花の香りは日本自生の花の中では例外的と言えるほど、甘く濃厚でとても強い」とあるように、ユリというとその姿や香りの華やかさから、ヨーロッパから入ってきたものかと思っていたのでした。

ユリは、日本の中でどのように変化し、どのように広がっていったのでしょうか。

その歴史を考えると、少し気が遠くなるような感覚に陥っています。