記録のあれこれ 47 日常から非日常、そして日常へ

台風19号の荒れ狂う中の勤務は本当に緊張しました。

 

雨風が収まってもそのあと時間差で川が増水したり、遠い場所でも川はあちこちから水を集めつながっていますから、何が起こるか想像もつきませんでした。

そんなさなかに千葉を震源とする地震まであり、頭の中は最悪のことを常に考えながら、入院中のお母さんと赤ちゃんの不安が少しでも減るようにしょっちゅう見回りをしました。

 

次第に被害の状況が伝えられ、その地域の医療機関介護施設の方々はどうしていらっしゃるのだろう、少し雨雲の流れが違えば、あのニュースに私たちが映っていることになるのだと、今までの仕事の中でも最もといってよいほどの緊張でした。

 

無事に仕事が終わるとぐったりで、今度は列車が動き出すまでは帰宅できないと思っていたら、ほとんどの路線が次々と運転再開してくださっていたので、少し迂回しながら自宅にたどり着きました。

スーパーもきっと今日は午後からだろうと思っていたら、開店してくださっています。

温かいお惣菜を買って、電気も水道もガスも通常通りの我が家に戻りました。

 

「日常」という言葉は、看護でも「日常生活動作」などよく使う言葉ですが、その意味を本当に理解するのは、一生のうちにそう多くない体験からなのかもしれませんね。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

 災害時関連の記事のまとめはこちら

正しさより正確性を  19 ポロリと言ったことが広がりやすい

「特集 小児の栄養」の「乳児期の栄養」は概ね基本的なことが書いてありましたが、引っかかる箇所がありました。

母乳栄養の「主な利点」に以下のように書かれていたことです。

1.  消化吸収がよく代謝への負担が少ない

2. 免疫機能を向上させる

3. 顔全体の筋肉やあごを発達させる 

 

何に比して「顔全体の筋肉やあごを発達させるのか」と考えれば、「人工栄養を哺乳瓶で飲ませたこと」と普通は考えると思います。

ところが、その本文中の「人工栄養」には特に利点も欠点も書かれていませんでしたし、筆者自身が「その後の咀嚼運動は獲得形質である。このため咀嚼運動の発達を促すような離乳食の提供が求められる」と書いていますから、本格的な時期は離乳食からという認識なのだと思います。

 

このさらりと書いてある「母乳の利点」ですが、今年改訂された「授乳・離乳の支援ガイド」にはどのように書いてあるか読み直してみました。

16ページに「《母乳(育児)の利点》」として以下のように書かれています。

母乳には1.乳児に最適な成分組成で少ない代謝負担、2. 感染症の発症および重症度の低下、3.小児期の肥満やのちの2型糖尿病の発症リスクの低下などの報告がされている。 

 

3について 欄外では「完全母乳栄養児と混合栄養児との間に肥満発症の差があるとするエビデンスはなく、乳児用ミルクを少しでも与えると肥満になるといった表現で誤解を与えないように配慮する」とあり、1と2に関しても状況により適切にミルクを使用することで赤ちゃんに最適な栄養方法になるということであり、少々まどろっこしい書方ですね。

 

いずれにしても、母乳栄養で「顔全体の筋肉やあごを発達させる」と断言できるような話でもないことでしょう。

母乳の授乳でも哺乳瓶で飲んでいるかのようにあっという間に終わる経産婦さんの赤ちゃんを見ているだけでも、哺乳瓶と直接授乳での差を比較するのは難しそうです。

 

むしろ、あの「美味しい母乳を飲んでいる赤ちゃんの特徴」あたりが社会の中に亡霊のように漂っている印象です。

 

「専門家として何か体裁を繕わなければ」と、思いついたことをポロリと言ったことが案外広がって残りやすいものなのかもしれませんね。

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

記憶についてのあれこれ 148 災害時の出勤

台風19号は、今朝の時点でもまだその影響を想像できないほどの大きさのようですね。

 

数日前から気象庁などの発表を追いながら、「その日にどうやって出勤するか」をシミュレーションし始めていました。

都内の公共交通機関の計画運休のタイミングによって、前泊するか早く出勤するか見極めていかなければいけないのですが、おそらくそうした交通機関関係の方々も気象図を睨みながらの判断がとても大変だったのだろうなと想像しました。

 

一昨日ぐらいになって、だいたいの進路と通過する時間が読めてきたので、おそらく午前中は電車も動くだろうという予測にかけていました。

ということで、これからおかげさまで無事に出勤できそうです。

本当に鉄道関係の方々に感謝です。

 

40年近く医療機関で働いてきて、台風で出勤時間を早めるぐらいはありましたが、数日前から出勤を心配するような大きな災害に遭遇した記憶がありません。

 

刻々と変化する状況をニュースで追ったのは、あの東日本大震災が初めてでした。

最近では線状降水帯が続いたあの時も、どれくらい早く出勤するか悩みました。

無事に出勤できた後も、NHKをつけっぱなしにして天候を把握しながら仕事をしました。

周囲で浸水が起きたら入院中の方をどうするか、食事をきちんと提供できるか、そんな時に母体搬送や新生児搬送をしなければいけない分娩があったらどうするか、停電があったらどうやって分娩の連絡を受けるか、などあの東日本大震災の時の記憶が蘇ってきてかなり緊張しました。

 

今日はどんなことになるのだろう。

どうか、被害が少ない台風でありますように。

 

 

「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら

 

 

 

 

シュールな光景 13 「胎児期から始まる食育」

母の面会には、お昼ご飯を持って行きます。

ちらし寿司が好きなのは母も私も同じだったのですが、半世紀近く離れて暮らしているとここまで好みに違いが出るのかと驚くこともあります。私が「これなら絶対に母も好きそう」と思って買っていっても、母の口に合わないこともしばしばあります。

 

両親はそれぞれ生まれ育った場所が異なり、相当な味覚の東西南北差があるのですが、そのはざまで育った私はどちらの味も大丈夫だけれど、どちらかというと父寄りになりました。

 

「家庭の味」なんていっても、そんなものですね。

 

*「特集 知って起きたい小児の栄養」*

さて、ときどきふらりと立ち寄る書店の周産期医療のコーナーで、「小児科臨床 4月号 特集 知っておきたい小児の栄養」(日本小児医事出版社、2019年)が目に入りました。パラパラとみて見ると、「乳児期の栄養」「母乳栄養と食育」「人工乳の種類と栄養」「栄養不足と脳の発達」「乳幼児期の体重増加不良」といった目次にひかれて購入しました。

 

産科施設ではどうしても「母乳が出ているか」「授乳方法は母乳かミルクか」という大人側の視点からの栄養への関わり方が多く、目の前の赤ちゃんの今必要な栄養は何か、今後どのように成長発達していくのかという少し長い目でのとらえ方ができにくいものです。

 

とりわけ、生後4週間までの新生児期の授乳の難しさは、多くの周産期関係者が経験しているはずなのに、なかなかその観察が言語化されていないのではないかと思います。

 

退院時には母乳もそこそこ出ていたので「母乳中心で大丈夫そう」とアドバイスしたら、その後体重が横ばいのままとか、生理的黄疸のピークがゆっくり出て体重が減ってしまった赤ちゃんとか。

あるいは初産と経産の赤ちゃんの違いとか、経験的に感じている何かがそろそろ表現されてきたかと期待して購入しましたが、まだそれほど目新しいことは書かれていませんでした。

 

まあ、ヒトの新生児をただひたすら観察することも試みられていないので、拙速に理論化を求めてはいけませんね。

 

*「母乳栄養と食育」*

 

その中で「母乳栄養と食育」という文があり、「胎児から始まる食育」にこんなことが書かれていました。

食嗜好(food preference)を獲得していく過程には臭いの学習過程と似ている。遺伝的に獲得される嗜好に加えて、胎児期は羊水の風味・味を通して、生まれた後は母乳を通じて、母親が食べたものの風味を学習し好みを獲得していく。羊水や母乳には、直接母親が摂取した食物やスパイス、飲み物を反映する風味がでる。妊娠後期ににんじんジュースを与えた母親と与えなかった母親とで生まれてきた児のにんじんフレーバーの受け入れ方が違うという報告もある。

 

にんじんジュースの話は20年ぐらい前にも聞いたような気がするのですが、参考文献では2016年のものでした。

母乳関連では「母乳を与えることは社会階層のはしごを登るチャンス」といった、野心的研究課題に時々驚かされますね。

 

胎児や乳児の気持ちはわからないし、家庭の味は父親とか他の家族の存在もあるのですけれど。

 

母乳は万能かのような「願いをかなえる科学を装った話」を入れないほうが、よりすんなりと社会に受け入れられていくし医学的にも信頼されると思うのに、母乳の話はなかなか難しいですね。

 

 

「シュールな光景」まとめはこちら

発達する 26 自転車をやめた

大人用の大きな自転車に乗れるようになったのが、確か小学校4年生の頃でした。

まだ足がつかないけれど乗れるようになった時の記憶があります。

それ以来、半世紀ほど自転車を活用していた生活でしたが、2年ぐらい前に廃棄しました。

 

数カ所の図書館やちょっと遠いプールへ行ったり、新生児訪問などに大活躍の自転車でした。

もう一回、新しい自転車に買い替えようかなと思っていた頃、踏切のレールに車輪がはまって立ち往生していた高齢の方を手伝おうとしたら強く拒否された経験が、気持ちを変えるきっかけになりました。

 

まだまだ自転車に乗り慣れているので大丈夫だと思っていると、いつか手放せなくなるのではないかと。

 

ちょうどあちこちを散歩をするようになり、歩き慣れてきたこともありました。

 

*身体能力や判断力が衰えてくるとどうなるか*

 

それ以前からも、高齢の方が自転車に乗っている様子が気になって、何がその特徴なのだろうと観察していたこともありました。

 

後ろから見ると、両肘が横に張ったような姿勢になるかたがほとんどです。

どうしてなのかは正確なことはわかりませんが、あちこちの筋力が衰えてきて体を支えるのに必死になるのも一つかもしれません。

 

また自転車だけでなく歩行の際にも、道路の端によって歩くことができなくなるのか、真ん中へよっている人が多い印象です。

後ろから来ている車や人の流れは見えていないようで、後ろに追い越したくても追い越せない車が連なって来ていても気にならないようです。

 

自転車への乗り降り、そして漕ぎ始めにも車体がふらついて、ドキッとさせられます。

 

*できることだけが発達ではない*

 

若い頃にはなんでもなかった動きが徐々にできなくなり、あるいは交通ルールを身につけて来たはずなのに周囲まで注意を払えなくなる。

「発達する」とは全く反対の方向へと向かうのが老いるということですが、それを自覚することや、今までできていたことをやめるタイミングもまた難しいものですね。

 

ただ、老いることも発達の一つだと思えば、引き際を決めることもまた立派な発達だと思うこの頃です。

人間の行動は、学習によらないで自然の結果として成熟していくことはまれであると言われている。老年期においても、生活していく中で学ぶことができる。したがって、生涯におけるこれらの課題をマイナスととらえるのではなく、自分の人生の完成に向けての課題とらえ、前向きに対応していけば、老年期をその人らしく納得のいくものとすることができる。 

 

 

自転車を廃棄するときには困るだろうなとしばらく葛藤していましたが、手放してみたらまた新しい生活のスタイルになりつつあって、自転車があったことさえここ最近忘れていました。

 

「自分は79歳でバリバリ働いている」「発想の転換を」という財務大臣の言葉で、自転車のことを思い出したのでした。

 

 

「発達する」まとめはこちら

数字のあれこれ 55 弱冷房車を冷房車へ

今年は10月というのに、まだ暑いですね。

こういう感覚的なものは記憶違いも多いのですが、2014年に書いたこの記事では「10月前半になって半袖の人がだいぶ少なくなった」と書いていましたが、今年は列車内を見渡しても半分ぐらいの人が半袖で、ノースリーブの人もけっこう見かけます。

 

気象庁の「観測開始からの毎月の値」の「日最高気温」の平均値を見てみると、2014年9月は26.9℃、10月は23.0℃でしたが、今年の9月は29.4℃、今月はまだ途中ですがなんと28.5℃です。

これは暑いわけですね。

 

ただ、これもまた感覚的なのですが、9月下旬ごろから通勤列車の車内温度が高く感じるようになります。

冷房は入っているのに効いていないような。

各社の設定温度の説明を読むと冷房車26℃、弱冷房車28℃の設定のようなので、外気温との差が少なくなって効いていないような気がするのでしょうか。

むしろ、列車を降りたときのほうが涼しく感じることもあります。

 

*暑がりには怖い10月、11月*

 

とりわけ、地下道やデパートなどが続いている場所は、外気温より高い上に早いと暖房に切り替わってとても暑く感じます。

そんな場所と長いホームを歩いて列車を乗り継ぐときには、上着を脱いで半袖になってもどっと汗が出てきそうです。

 

そして列車に乗ると暖房になっている時の絶望感。

周囲を見渡すと、すでに冬の格好をした人たちが増えて、なんともない顔で暖房の効いた列車に乗っています。

 

でも、時々汗が滴り落ちている人も見かけるので、やはり暑く感じる人もいるようです。

 

ああ、11月ぐらい、いえ時には12月初め頃までは暖房なしか、弱冷房車をそのまま冷房車にして欲しい。

春から一気に初夏の陽気になる4月には早々に冷房にしてくれるので、同じくらいの気温の11月もやはり1両でいいので冷房車を!

 

だんだんとその体感温度がデーターと一致してきました。

外気温が15℃から20℃でも、人口が密集している地域の列車には冷房車が欲しいです。

 

 

「数字のあれこれ」まとめはこちら

シュールな光景 12 現代の地獄絵図

大規模災害が起きると自衛隊や警察、行政やさまざまなインフラ関係の方々が救援に従事されているニュースを見るたびに、悲惨な状況、特にそれまで普通に生活していた方々のむごい亡骸を見ることはその後の人生にどんな影響を与えているのだろうといつも心配になります。

 

おそらく地獄絵図を思い起こさせる状況ではないかと思います。

 

子どもの頃に両親から地獄絵図を何度か見せられた記憶があります。

今なら子どもに怖い絵を見せて脅かして教えるのは、虐待とも言われかねませんね。

 

この「地獄絵図」も現代では使われなくなってきたのか、案外、詳細な説明はありませんでした。

コトバンクでは「地獄で亡者が苦しむ有様を描いた絵」「きわめてむごたらしい状況になること」だけですし、「ニコニコ大百科」に少し詳しい説明があるだけでした。

古代日本、特に末法の世を呈した鎌倉時代後期などでは仏教が盛んであった。仏教に帰依した人間により善い生き方を勧めるよう、坊官はある種の絵師に「もし死後(八大)地獄道に落ちたらどうなるか」という絵図を描かせた。地獄行きという罪業を強調するため、死の山・血の河は当たり前、仏教の八大地獄の描写に依る責め苦や量刑を描写し、それはまさしく頭身の毛も太る凄惨な地獄の絵図だったという。(以下、略) 

 

少しあいまいまいですが、伊勢湾台風や狩野川台風の災害支援に行った話も父から聞くことはありませんでした。

そして軍国少年としてエリート教育を受けた父から、戦争の話も聞いたことがありません。

 

もしかしたら本当の地獄絵図を見てしまった人というのは、心の奥深くに封印してしまうものなのかもしれないと思えるようになったのは、ちょうど1990年代初め頃からPTSDとかトラウマという言葉が広がった頃だったでしょうか。

 

 

*地獄絵図も通用しない現代なのかもしれない*

 

先日、駅構内で転落して亡くなった方の現場でスマホで動画や写真を撮る人がいたことがニュースになっていました。

 

事故現場ではご遺体への敬意を持って「指一本まで集める」方々が働いているのに対して、それを写真に撮ろうとする人がいる。

そのような場では「写真を撮りたいと思っても気持ちを抑える」、とならない人が一人や二人ではなかったことに愕然としました。

 

死と向き合うことが格段に少なくなったゆえの、「現代の地獄絵図」を見たような気持ちになりました。

 

 

 

 

「シュールな光景」まとめはこちら

散歩をする  169 修善寺から下田へ

大仁から再び駿豆線に乗り、ふた駅で終点の修善寺に到着です。

修善寺は、小学生の頃に家族で伊豆を回ったことがあるので記憶にある地名です。

そして、10年ほど前まだ母が運転していた頃に、認知症の父と3人で伊豆をドライブしたときにも通りました。車で通ったときには、古い温泉町の印象でしたが、駅は新しく「木造」に見えるようなおしゃれな建物でした。

 

修善寺からふたつ目の目的地の弘道寺までは路線バスを利用しますが、出発まで時間があったので狩野川を見て歩きました。

修善寺では左岸から桂川が合流し、その少し上流では右岸から大見川が合流しています。

桂川に沿って歩いて見たのですが、支流といっても水量は多く、狩野川の合流部に近い河岸の岩肌からも勢いよく滝が落ちていました。

 

狩野川台風では死者337名、行方不明127名というもっとも大きな被害があった地域です。

散歩をした日は晴れていて穏やかな天気でしたから、狩野川も静かに流れていました。

山で大雨が降ると、支流からここへと水が集まるのでしょうか。

 

 

*弘道寺*

 

修善寺から河津行きのバスに乗りました。ここからは狩野川沿いに山へと入っていきます。

10年前に両親とドライブをしたときにはまだ川にそれほど関心がなかったので記憶が薄くなっていましたが、車窓から見える風景に、あの時も狩野川沿いを走ったことが思い出されました。

 

40分ほどすると、「弘道寺入り口」に到着。そこから歩いて数分で、弘道寺があります。

お寺の前には大きな池があり、蓮の葉が風に揺れていました。

この日も30度越えの夏のようなお天気でしたが、風は涼しくて、どこからかふと金木犀の香りが漂ってきました。

 

歩く人もいない静かな集落の中に、お寺があります。

伊豆市観光ガイド」のサイトに弘道寺の説明がありました。

静岡県伊豆市を走る国道414号から一本入ったところに建つ、山号を「天城山」と称し、御本尊として行基作の聖観世音菩薩立像を安置する曹洞宗寺院。福禄寿尊を祀る「伊豆天城七福神」の一つで、伊豆八十八カ所霊場の第2番札所。室町時代に「福寿庵」として創設された後、「景勝院」7世の笑山精眞が改称し開山。1857年に初代米国総領事のタウンゼント・ハリスや通訳のヒューストン他36名が、通商条約締結のため江戸へ向かう途中に宿泊した寺で、当時門前に掲げられた「亜米利加使節泊」の表札や折りたたみ式の床風脚などが今も残る。門前には花菖蒲やハスが咲き、毎年8月10日頃に「天城夏まつり」も催される。 

さらに少し坂道を登ると小学校があり、そこからは富士山も見えました。 

 

大仁の自得院と修善寺の弘道寺、父はどちらのお寺に通ったのだろう。

結局わからないままでしたが、どちらの風景も父が気に入りそうだと思いました。

 

*河津から下田へ*

 

「弘道寺入り口」バス停を通るバスは、河津駅行きがほとんどですがたまに河津駅から下田駅まで行くバスもあるようです。

時間に余裕があったので下田まで足をのばすことにしました。

 

バスは狩野川に沿って天城山へと山の中の道を走ります。

狩野川が次第に細い川になりながらも、あちこちの山肌から狩野川へと水が流れている様子が見えました。

30分ほど走ったあたりでしょうか、天城山トンネルの手前で狩野川は右岸側へと大きく曲がって見えなくなりました。

狩野川水系は、静岡県伊豆市天城山に発し、伊豆半島中央部の大見川などの支流を合わせながら北上し、田方平野に出て、伊豆の国市古奈で狩野川放水路を分流し、さらに箱根山や富士山などを源とする来光川、大場川、柿田川、黄瀬川等を合わせ沼津市において駿河湾に注ぐ、幹線流路延長役46km、流域面積852mの一級河川である。 

 

源流にあたる天城山は、年間降水量が3,000mmを超える多雨地帯であり、豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業等の発展に寄与してきた。特に、天城山の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額を誇っている。一方で、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発した。

Wikipedia、「狩野川」) 

 

天城山トンネルを出ると、今度は河津駅に向かって下り坂になります。しばらくすると、河津七滝ループ橋をぐるりと回りながら降り、河津桜で有名な河津川沿いに走ると河津駅に到着しました。

そこからは海岸沿いに海を見ながら路線バスは進み、下田駅に到着しました。

 

狩野川のほぼ全域もそして美しい海も見ることができたし、父の記憶を訪ねることができた充実の散歩コースになりました。

 

ところであのループ橋も10年前のドライブで通った記憶があります。

あの時は突如として現れる巨大な橋に、「せっかくの風景が」と思った記憶がありますが、Wikipediaを読みなおしてみるとまた違った思いになります。

かつては山に沿って国道がつづら折りになっていたが、1978年の伊豆大島近海の地震の影響で崩落し山腹の道路が寸断した。その後、通行の利便性と高低差を解消し、地震による土砂崩れの教訓を生かした工法を採用し、1981年(昭和56年)にこのループ橋が生まれた。 

 

今回はさらに、河津から下田まで、海沿いとは別に新たな道路建設が行われていました。

 

「亜米利加使節」が下田に来日した頃は、下田から海沿いに江戸へ行く道はなかったかあっても危険で、天城山を越えて遠回りをしながら江戸へ向かったということでしょうか。

一世紀半ほど前の「道」と、それを自然災害から守ることを想像したらちょっとめまいがしました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

行基さんの記事のまとめはこちら

散歩をする 168 狩野川台風の跡を歩く

今年の1月に狩野川放水路三島の湧水を散歩して以来の、久しぶりの三島駅です。

ここから駿豆鉄道に乗り、大仁へ向かいました。

 

狩野川の支流の大場川やその用水路と水田そして山をながめ、列車は進みます。

この地域の風景が、子どもの頃に見たときもなんだか懐かしい想いになり好きなのですが、その理由が狩野川の「歴史」を読んで、ああと思いました。

氷河期が終わり、海面が現在よりも数m高くなった約6,000年前の縄文時代には、縄文海進という海水面が高かった時代があり、その頃には伊豆の国市伊豆長岡町付近までは入江で、古狩野湾を形成していた。やがて海面が低下し始めると、狩野川が土砂を堆積させ現在の田方平野を形成させていった。 

あの印旛沼周辺を見たときと同じく、倉敷に似ているからかもしれません。

 

さて、伊豆長岡駅を過ぎ、あの狩野川放水路のある大きく蛇行した箇所をすぎると、前方に切り立った岩山が見えます。

おそらくあの辺りが、また狩野川が大きく蛇行する 大仁だろうと思った通りでした。

その城山のそばに大仁駅があり、このあたりからS字を描きながら上流に修善寺駅があります。

 

地図で見ると左岸に狩野川記念公園があり、「狩野川記念公園」のHPには「昭和33年の狩野川台風復興記念」として建設されたとあり、「狩野川の歴史」に狩野川台風の様子や写真が掲載されています。

その近くに、自得院がありました。

まずはこの辺りを歩いてみようと、大仁駅で降りたのでした。

 

狩野川台風記念公園*

 

トラックが行き交う狩野川大橋を、車の風圧に煽られながらおそるおそる渡りました。

足元には狩野川の清流が流れています。

 

狩野川記念公園は、子どもを連れた家族が何組も遊んでいました。

その公園の端の方に、狩野川台風の状況が書かれた大きな石碑がありました。

午後9時50分頃橋壁を突破した濁流は一大怒涛と化してまっしぐらに 下流熊坂を直撃する。かかる上流の事態を夢想だにしなかった熊坂の夜は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場となり不気味な地鳴り荒れ狂う波の底に沈んだ。

 

「橋壁」は狩野川大橋ではなく、もう少し上流の大仁大橋と思われます。

いずれにしても、狩野川台風では修善寺町の337名についでこの大仁で202名もの方々が亡くなられたようです。

ちょうどあのS字状に蛇行した二つの地域が、狩野川台風でもっとも被害が大きかった場所でした。

 

「熊坂」というのはこの狩野川公園がある地域で、そこに自得院があります。

 少しずつ河岸段丘を登ると、自得院が見えてきました。

お寺の中にももしかしたら狩野川台風の記録があるかもしれないと近づいたのですが、「参道にスズメバチが出現したので注意」と書かれていたので引き返しました。

 

*大仁橋*

しばらく狩野川沿いの街を上流に向かって歩くと、大仁橋があります。こちらの方が歩道もゆったりしていて交通量も少ないので、のんびり歩けました。

 

川の中に煉瓦造りの橋脚のようなものが残っているのが見えます。右岸にある橋の側の小さな公園には大仁橋の歴史が詳しく説明されていました。

大仁橋は県内の鋼製トラス橋の先駆け 

大正4年、鋼製トラス橋が当地に架設されたことは、大変画期的なことでした。大仁橋は、県内の国道1号にある大正12年の安倍川橋や大正13年富士川橋に先駆け、約10年も早く架けられました。当時の橋梁技術者の活躍ぶりがうかがわれます。

 

大仁橋の設計者は?

大仁橋は、大正2年、3年に開通した鉄道のトラス橋である。JR東海道本線天竜川橋梁や大井川橋梁と、形式(上弦が湾曲している曲弦プラットトラス)並びに橋門構(このモニュメントの橋の入り口の形)が似ています。

これら鉄道橋は、明治15年から20年に英国人の技師チャールズ・パウエルが設計した橋を基に、日本で設計(鉄道院)、制作(東京石川造船所他)した初期のトラス橋と言われています。

 日本に頑丈な橋が建設された歴史を垣間見る説明に引きこまれました。

 

現在は5代目の橋だそうで、狩野川台風の際に壊れたのは3代目のようです。

初代、二代目までは木製トラス橋だったものが3代目以降は鋼製の橋になり、狩野川台風では左岸堤防が破壊され、橋だけが残っている写真がその説明書きにありました。

現在も川の中にある橋脚部分は、橋が台風で流されて残ったわけではなく、4代目につけ替える際にとり残されたようです。

 

 

父はどのあたりに派遣されたのだろう。当時、何を見たのだろう。

戦場とはまた違う地獄絵図に、何を考えたのだろう。

語る人を失い、あちこちに残された記録から想像するしかない散歩です。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

散歩をする  167 父と母の記憶を歩く

母と会話していると、私の質問からいろいろと記憶が呼び覚まされるようです。

 

 

父が若い頃から座禅の修行をしていたことに関しては、記憶が曖昧なことがあります。

おそらく30代、40代の頃の母は、自分や家族をおいてどこかのお寺へ泊まりがけで家をあける父に対して複雑な想いがあったのではないかと思います。

父が認知症になってから、私の方が父の歩いたところを訪ねてみたいと思うようになりました。それで父が行っていたお寺を母に尋ねるのですが、「どのあたりだったかしら」と、あんなに地図が好きで、地図に記録していた母とは思えない答えが返ってきます。

 

伊勢湾台風に半年ほど派遣されていた話は時々聞いたのですが、その前年の狩野川台風にも派遣されていたことを最近になって初めて知りました。

 

その後、いつ頃からかわからないのですが、狩野川のどこかにあるお寺にも修行に行っていたそうです。

なんというお寺なのか母に尋ねましたが、「なんていうお寺だったかしら。一度連れていかれたことがあるけれど、なんだか田舎で何もなかったような」とはっきりしません。

もしかすると、本当は覚えているのかもしれないですけれどね。

 

検索すると、曹洞宗のお寺は大仁にある自得院と伊豆市の弘道寺の2箇所があるようです。

 

横浜にあるお寺と永平寺に続いて、さっそくまた「父の記憶を歩く散歩」に出かけようと思いました。

そして、「母の記憶」も。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら