散歩をする  220 琵琶湖疏水を歩く

大津京から宿泊する大津のホテルに到着したのが18時すぎで、まだ夕暮れ前でした。3月に入ると日が長くなりますね。

ホテルの窓から、夕闇迫る琵琶湖の変化を眺めていました。1月に来た時にはたしかに蓬莱山や伊吹山が見えたのですが、今回は霞んでいるのか見えませんでした。

暗くなっても街灯やビルの灯りが見えるので琵琶湖の沿岸がわかるのですが、電気がなかった時代の夜景という水辺も陸もわからなかったことを想像すると、ちょっと怖くなりました。

 

翌朝、また5時前から起きて窓の外を眺めました。ホテルのそばに線路があり、5時ごろから数分ごとに貨物列車が通っている懐かしい音が聞こえていました。

 

散歩の2日目琵琶湖疏水宇治川を歩きます。

 

*京阪京津線で蹴上へ*

 

地図ではぐるりと鉄道が一周しているだけでなく、よくよく見るといろいろな鉄道があることも琵琶湖の魅力かもしれません。

1月に訪ねた時に乗れなかった近江線や京阪線を、今回はできるだけ乗ってみるように計画しました。

 

朝、ホテルを出発し、10分ほど歩いて京阪京津線上栄町駅から京都方面への電車に乗りました。

浜大津駅からこの上栄町までの市街地は路面電車で、ここからは電車になります。

 

古いお寺や大津市の落ち着いた街の合間を走るとすぐに短いトンネルがあり、抜けると大谷駅で、まさに山と山に挟まれたところを通っています。隣に見えた道路を見たら、国道1号線でした。

今まではJRで滋賀と京都の府県境を通過していたので、長いトンネルしか知らなかったのですが、昔はこの道を通って京都と行き来していたのですね。

 

1月に琵琶湖疏水を訪ねた時に降りた山科駅で、今回は東西線に乗り換えて蹴上で降りました。ところで、京都近辺の地名は読めないものが多く、「陵(みささぎ)」もそうでしたがこの「蹴上」も「けりあげ」かと思ったら「けあげ」でした。

地名の由来はなんだろうと検索したら、こんなことが書かれていました。

京都府京都市の市街地東部、東山の山麓部の一地区。東山区左京区にまたがる。地名は、源義経金売吉次と奥州に向かった際、美濃の武士の一人が湧水を蹴り上げたことが原因で争うになったことに由来する。(コトバンク:ブリタニカ国際大百科事典)

「湧水を蹴り上げたことが原因で争い」、水争いとは無縁の現代人には状況が想像できませんね。

 

琵琶湖疏水記念館から鴨川まで*

 

蹴上駅で降りて地上に出ると、真上は京都市の蹴上浄水場でした。目の前に蹴上インクラインがあり、少し上流へ歩いてみると九条山浄水場ポンプ場があり、その近くに「ここは本願寺の水源地です」という標識がありました。

 

琵琶湖疏水の蹴上船溜りからインクラインに沿ってしばらく行くと、水路の部分が始まります。幅は数メートルもないのに、途中で発電施設からの水が合流し、ちょっと足がすくむような水流になっていきました。あの玉川上水人喰い川と呼ばれていたことを思い出しました。

 

しばらくすると貯水池のような場所になり、ここが南禅寺船溜りで、そばに琵琶湖疏水記念館があります。3月に入っていたので休館だと思っていたら、開いていました。誰もいない中で、ゆっくりと説明を読むことができました。

 

ここから疏水はいったん西へ向かってまっすぐに浅い流れになり、京都国立近代美術館の先で直角に北へ曲がり、また少し先の平安神宮のそばでもう一度直角に曲がります。

地図で眺めていた時にここがとても気になり、ぜひ歩いて見たいと思ったのでした。

 

実際に歩いてみると、近代美術館の先は緩やかな下りになっていることがわかりました。おそらく平安神宮などがあるところがやや高台で、その高い位置で上水を流すためにこのような形になったのだろうと想像しました。

 

平安神宮から鴨川に向かう疏水のそばに、もう一つ船溜りがあり、そこに発電所がありました。

発電所を過ぎると冷泉放水口があり、道路を隔てたところに鴨川が流れています。

 

琵琶湖からの水を京都に無駄なく流し、水道水と発電用に利用するのですから、少し歩いただけでも壮大な計画だったことを実感しました。

この冷泉放水口から宇治川まで、暗渠部分も含めて琵琶湖疏水はまだ続くようです。

 

 

とてもその全てを歩くことも、歴史の全貌を知ることも無理そうですが、せっかくなので琵琶湖疏水宇治川に流れ込むところも訪ねてみることにしました。

 

 

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落ち着いた街 6 窓から緑が見える

昨日25日に、緊急事態宣言が全国で解除になりました。

 

4月から5月にかけて、仕事が休みの日には2日とか3日とか家から一歩も出なかったのですが、こんなことは人生でも初めてかもしれません。

時には公園や神社へ散歩に行ったのですが、住宅街ではむしろ休日以上の人口密度でしたから、最初の頃は近所の散歩も躊躇しました。

家にこもったおかげで、たまっていた2月から3月にかけての遠出の記録を少しずつ書きためることができました。

みなさん、いろいろな「おうちでの過ごし方」を工夫されていましたね。

 

私がこのちょっと修行のような時間を耐えられたのは、窓から緑が見えたからです。

隣の家は少し離れているのですが、その屋根の向こう側に大きな木が一本あって、その上の方が一部ですが、見えるのです。

その木がなければ、外の風景は屋根だらけです。

この家を選ぶときの決め手も、実はこの木でした。

 

20代から家を借りるようになって数軒目ですが、夜中に通勤する怖さもあるので駅に近いとか人通りの多い地区にあるといった条件と、女性が部屋を借りる制約が多かった時代とで悩むことも多かったのだと思いますが、絶対に外さない条件に窓から見える風景がありました。

目の前に木が見える。

幸運なことに、その願いが叶えられて今に至っています。お隣の家の庭木だったり、公園だったり、窓の風景に木がありました。

 

その木を見ていると、1時間でも2時間でもぼーっとしていられます。

もしあの木がなかったら、この2ヶ月ほどは幽閉されている気持ちが強くなっただろうなと、その存在をますます感じるようになりました。

 

住宅街のあちこちに鎮守の森が守られ、公園が整備されていることもまた、今まで以上にありがたいことだと思えた2ヶ月でした。

防災目的の公園には当初考えられていなかったのかもしれませんが、感染症拡大という災害時にも緑がたくさんあったことで慰められたのでした。

 

それは、誰かの手によって手入れが行き届いているからですね。

 

 

窓の向こうに見えるあの木が、どうか伐られませんように。

 

 

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つじつまのあれこれ 21 自らの手が感染経路とならないために

たかがマスク、されどマスクに翻弄されていますが、一般社会では「マスクをすれば安心」のような印象に、我と彼の差を感じることも翻弄されることの一つです。

我と彼、それは院内感染標準予防対策が取り入れられた1990年代からの感覚の差といえるでしょうか。

 

マスクをいつ、どのタイプを、どのように「正しくつけるか」だけでなく、どの部分に触れないようにするかとか、「マスクを触った手をどうするか」そして「どのように正しく廃棄するか」まで、根拠を問いただしていくと、医療現場でマスクというのはけっこう緊張感のあるものです。

それは、マスクを触れた手が新たな感染経路となってしまうというあたりでしょうか。

 

今回のCOVID-19の予防で、手洗いの必要性が浸透して、今もまだ店頭からハンドソープ類がなくなるほどです。

 

「手からの感染」が理解されたかと思うと、今度は使い捨て手袋を常時つけることが安心のように広がっていて、おそらく一旦つけた手袋は、もっと手指消毒の頻度が少なくなることでしょう。

あの手袋で顔を触れたりしなければいいけれど、と余計なことを心配してしまいます。

 

でも、やはりなにかつじつまが合わない日常生活の場面を見て、感染症の対応を伝えることは難しいものだと感じています。

 

*ちょっとシュールな光景*

 

ほんとうはタイトルをシュールな光景にしようかと思ったのですが、フェイスシールドをつけての宴会が、たぶんまじめに、紹介されていました。

そこまでして宴会や会食をしなくてもと思いながら写真をみると、料理は個別になっているのに、アイスボックスにトングがつけてテーブルの真ん中に置かれていました。

フェイスシールドをして唾を相手に飛ばさないように会話をして、でもトングはみんなで共用する。あ〜あ、惜しい。

 

また、「次亜塩素酸ナトリウム液・次亜塩素酸水の噴霧は吸引する有害であり、効果は不確実なので行わないこと」と厚生労働省が呼びかけているにもかかわらず、入店時に噴霧したところを通るようにしたお店のことが好意的にニュースで紹介されていました。

メニューを触らなくてよいようにスマホでオーダーしたり、料理に蓋をして配膳するなどの工夫は良いと思うのですが、スタッフと客が近づかないためにと、出来上がった料理を廊下の床において行きました。

あ〜あ、惜しい。床は「不潔」なのですけれど。

 

手はすぐに細菌やウイルスが付着するので、やはり手が感染経路にならないようにすることが大事なのですが、なにをどう気をつけるのか。

 

「血液や体液が付着したものは不潔、再利用しない」という医療上の原則も、では下着などはどうか。

その考え方だと下着もすべて使い捨てにするということかと問われれば、日常生活では洗濯だけで十分ですし、医療との境界線はわからないものです。

 

日頃から「清潔と不潔」を訓練されているはずの仕事でもまだまだ悩む場面も多いので、一般社会では混乱するのも無理はないかもしれませんね。

 

 どうすれば感染を防ぐことができるのか、日頃、感覚的にとらえていてもまだまだわからないことがたくさんあると感じました。

だから、なんだかシュールと感じる防御策が話題になるのかもしれません。

 

 

 

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気持ちの問題 62 マスクに揺れた4ヶ月

2週間ほど前に、いつも利用するスーパーで箱入りのマスクが積まれていました。とうとう購入できるようになったとカゴに入れてレジに進みました。4000円近い値段が打ち込まれるのを見て、ハッと我にかえりました。

夜勤明けでボッとしたまま、値段を確認していなかったのでした。「ごめんなさい。戻してください」と平謝りで、店員さんにお手数をかけてしまいました。

 

先日、ついに10枚入りで500円のパックがたくさん納品されていました。60枚で500円だった頃に比べるとまだまだ高いことと、信頼できる製品かどうか外装を見てもわからない商品がまだ多いですが、以前のように店頭からなくなることはそろそろ終わりかとホッとしたら、やはりそれ以降また棚は空っぽになりました。

 

思えばマスクに翻弄された4ヶ月間でした。

物がないだけでなく、マスクに効果があるのかという社会の混乱でした。

 

*「症状がなければつける必要はない」から「予防的」につけるへ*

 

それまでの感染標準予防対策の「症状がある人がマスクをつける」「症状がある人と接する場合はマスクをつける」に沿って、自分自身が咳が出やすい時や接する患者さんが風邪やインフルエンザ、その他の感染症の可能性がある場合にはマスクをつけていました。

ですから2月中ぐらいまでは、日常生活でも勤務中でもほとんどマスクをつけることはありませんでした。

2月から3月はまだ通勤中は混雑していましたが、むしろそれまでよりも咳もくしゃみも聞かれないような車内でしたし、電車内でおしゃべりすることもなかったですからね。

 

おおざっぱな記憶ですが、3月ごろになって勤務中もマスクをつけるようになりました。

ひとつは、無症状感染者がけっこういるらしいということがわかってきたので、いつ飛沫感染から感染したり、濃厚接触者になってしまうか予測できないためでした。

 

ただ、マスクをつけたからといって感染を予防できるわけではなく、マスクに触れた手にウイルスがついていたり、正しくマスクをつけていない人であればいくらでも飛沫を浴びる可能性もあります。

マスクに「予防効果がある」わけではなく、「多少、予防の意味がある」という理解でした。

 

*相手の安心感のために「意味」が出てきた*

 

3月中旬ぐらいまでは、勤務中以外はマスクをつけていませんでした。

この頃になると、むしろ「症状がない人はマスクをつける意味はない」という理解の人が一時的に増えたのか、マスクをしない人が微妙に増えた印象でした。

反面、手作りマスクの話題や政府がマスクを配布する話が出てきて、「やっぱりマスクは『効果がある』」と受け止める人も増えてきたのか、ネット上でもマスクの話題が頻繁に上がってきました。

 

その頃の私はちょっと踏み絵を試されている気分でした。

というのも感染予防対策の「血液、体液は感染因子であり、それが付着した物品は再利用はしない」という医療の原則が身についてきたので、マスクを洗って再利用することにとても抵抗がありました。

 

ところが、「マスクをしていない客に接しなければいけないことが辛い」といった店員さんの声を目にするようになりました。今のようにビニールの仕切りはまだありませんでしたから、それは確かにそうだろうと思い直して、買い物時にもマスクをするようになりました。

今回はさすがに、「私自身の飛沫も人を不安にさせる」あるいは「感染源になりうる」のでマスクをする方が良さそうというあたりに変化したのが4月に入った頃でした。

 

ただその頃には手元の使い捨てマスクの残量も心細いことになり、初めて洗って使ってみました。結構、耐朽性があって洗濯機でも大丈夫でした。

 でも今もまだ、医療の感染予防策の意味からもマスクは使い捨てにしたいという気持ちがあります。ですから、ぼちぼちとマスクが供給され始めて、ちょとホッとしています。

まあ、医療現場と家庭や日常生活では清潔・不潔の境界線が異なりますし、非常時だからレベルを下げざるを得ないですからね。

 

 

揺れたのは私だけでなく、WHOの方針とか世界中のマスクについてのニュースで、マスクの「効果」と表現されているのを見ると、これまでの科学的根拠に基づく医療の意味はまだまだうまく伝わっていないから情報が錯綜するのかもしれないと思えてきました。

 せめて「飛沫を飛ばさないという意味はあるけれど、疾患を予防するかどうかの効果はわからない」という表現が好ましいのではないか、そんなマスクの混乱ぶりを感じた4ヶ月でした。

 

 

マスクをしても、正しくマスクを取り扱っているかというあたり。

やっぱり手洗いが十分か、という話になりますからね。

 

 

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トイレについてのあれこれ 10 人感センサ

トイレもバリアフリー化やセンサー式の水栓や石鹸など、ほんとうに夢のような設備が増えました。

今回の新型コロナウイルス感染症の予防のために、常に手に触れるものに対して敏感になっているので、今まで以上にトイレの設備が気になっています。

 

公共のトイレだと内側への開き戸がほとんどで、ドアノブを触らなくてすむような引き戸にするにはドアを収納する場所が確保できないためだと思いますが、「誰でもトイレ」で見かけるくらいです。

ただ、ここ数年ぐらいで見かけるようになったのが、JRなどのトイレに使用されている半円形のような形のドアで、スライドして内側へと回るタイプです。

あれは、荷物が多い時やドアノブをあまり触りたくない時にも便利ですね。

 

 

*人感センサの広がり*

 

あと、いつ頃からでしょうか、自動水洗が広がり始めました。

こうした変化も後で振り返ると、いつだったのかがすでにわからなくなってしまっています。

世の中の変化を正確に記録するというのは、結構、大変ですね。

 

センサー式も壁にボタンのような装置があるものや、ただ立ち上がっただけでしばらくすると流れ出したりするものなどいろいろですが、それぞれの使用方法が異なるので、初めて入ったトイレだとしばし立ち尽くすことがあります。

壁のボタンを押すのかと思って何度も触っても反応しなくて、さあどうしようかとよくよくみると、小さな表示で「手をかざしてください」と書かれていたりします。

私だけでないのでしょう、しばらくするとそのセンサーは人が押した痕ができ始め、とうとう大きな字で「押さないでください。かざすだけで流れます」と表示されるようになりましたが。いやはや、スタイリッシュにしすぎると、使用方法がわからなくなりますね。

 

立ち上がっただけで流れるタイプも秒数の設定が違うのか、しばらく「本当に流れるのか」というぐらい待つもののあれば、もう少し離れないと流れないものもあります。

けっこう、みなさん、あの個室の中で動揺しているのではないでしょうか。

 

立ち上がっただけで流れる自動水洗は物を落としてしまった時にちょっと困るのですが、手をかざすだけで流れるタイプはけっこう便利だと思いますね。

 

Wikipedia人感センサを読むと、ただ水を流すだけでなくてもっと機能があることを知りました。

個室トイレ内

 個室トイレに設けられ、人間の所在を検知する。一定時間以上、同一人物が入室したままの場合に通報する機能をつけることもある。

トイレでは、一定以上入ったままの場合、中で倒れている可能性もある。そのため、それをセンサで検知し、通報する。一部の病院などで用いられることがある。トイレ内は人間感情的に監視カメラをつけにくいため、センサが用いられる。

また、デパートなどでも開店時間中にトイレ内に隠れ、閉店後活動する窃盗犯がいるため、防犯上取り付けているところもある。

 

もしかするとこの機能を表示してあれば、女性のトイレの滞在時間を短くすることに役立つのではないかと思うのですけれど。

まあ本当に生理現象でどうしようもない時には通報されてしまったら辛いですから、脅しのような表示はできないのでしょうか。

 

センサで水が流れたり、蓋が閉まったり、手で触れるものが減ったことがこのわずか10年ほどで広がっていることが、今回ありがたいと痛感しています。

 

 

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新生児のあれこれ 61 頭蓋癆

休園中の上野動物園動画を公開してくださっているので、さまざまな動物の生活史を家にいながら学んでいます。

 

パンダが無心に食べている動画が多い中で、見入ったもののひとつに、食べているときにパンダの頭頂部がベコベコと動いているものがありました。

「あ、ヒトの新生児と同じだ」と思ったのですが、すぐにそんなわけがないと思い直しました。

後日、もう一度同じような動画とともに、あれは噛む時の筋肉の動きであるという上野動物園側の説明があって納得しました。

 

*新生児の縫合が動く*

 

出生当日の新生児をお預かりする機会があると、時間があればじーっと眺めてしまいます。

いえ、ヒトの新生児の生活史を観察する看護の大事な仕事のひとつです。

 

1時間もすると表情が変化し、啼き方が変化していきます。飲み方も変化していきます。

何か、どこかのタイミングで変化しているはずなので、それを見逃したくないと思って観察しているのですが、どうしても思い込みや妄想で拙速に答えを作りたくなってしまうので、なかなかヒトの新生児の定点観測というのは難しいものです。

 

さて、最初にパンダの頭がベコベコと動くのを見たときに、パンダの頭蓋骨の縫合が動いているのかと思ってしまったのでした。

 

出生直後のヒトの新生児はまだ頭蓋骨の縫合が癒合していないので、触ると縫合と縫合の間にすき間があったり、骨の辺縁あたりを触るとフニャッと柔らかく触れることがあります。

授乳中の新生児の頭頂部を見ていると、中には大泉門から矢状(しじょう)縫合の当たりが顎の動きに合わせてベコベコと動いている時がたまにあります。

それとパンダの頭の動きが重なったのですが、ヒトの場合も刻々と骨が硬くなり、縫合が癒合して1歳ごろまでにはヘルメットのような硬い一つの骨になっていきますから、あんなに成長したパンダの縫合が動くわけないですね。

 

解剖はわからないのですが、竹のような硬いものを食べるパンダの顎の筋肉というのは頭頂部あたりまで強靭な筋肉が発達しているのでしょうか。

 

*頭蓋癆(ずがいろう)についての議論*

 

その動画を見ていたら、新生児から乳児期の疾患として習った「頭蓋癆(ろう)」が気になりました。

 

手元にある周産期や小児科の本を探してみたのですが、説明が見つからないのです。

そんなはずはない、確か数年前には「ビタミンDや母乳」と頭蓋癆の話題がニュースにもなったはずですし。

読み方が間違ったのかなと「とうがいろう」でも調べてみましたが、ありませんでした。

 

ネットで検索したら小児科学会などの記事が出てくるかと思いましたが、先に見つけたのは日本外来小児科学会の第70回調査研究方法検討会(2018年3月)の中に、「頭蓋癆とVD不足の関連を探るPediatric Endocriniological Craniotables Observational(PECO) study」という発表で、その冒頭にこう書かれていました。

乳児期に見られる頭蓋癆についてはVD不足との関連を示唆するもの、生理的なものとする相反した報告があり結論が出ていない。 

 もうひとつ、NS@小児科医さんというハンドルネームのtweetを見つけました。

【頭蓋癆①】

これを頭蓋癆は呼ばれるもので(*)、特に問題のない新生児の20-30%程度にみられます。

押した時の感覚が卓球の球に似ているとよく表現されます。

新生児期にみられるもののほとんどは問題なく、無治療で数ヶ月でみられなくなります

(*)原文のまま

 

【頭蓋癆②】

生後数ヶ月以降で見られる場合には何らかの原因があることを考慮します。代表的な原因は、ビタミンD不足などによって引き起こされるくる病があります。

その他の原因としては水頭症、骨形成不全、先天性梅毒が鑑別診断としてよく知られています。

 

頭蓋癆という言葉や概念がなくなったわけではなく、さまざまな議論の結論は出ていないが「新生児期にみられるもののほとんどは問題なく、無治療で数ヶ月でみられなくなる」というあたりということでしょうか。

 

 

 

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落ち着いた街 5 旅人を受け入れる

2週間ほど前でしたか、たまたまつけた NHKスペシャル新型コロナウイルス感染がヴェネツィアでどのように広がっていったかを放送していました。

今もまだ何が原因だったとかはわからないほど各地域の感染拡大の全体像もよくわかっていないのだと思いますが、その番組はカーニバルの人の集まりが関係していたかのような伏線がある印象でした。

 

観光客も地元の人もいないヴェネツィアの様子は、ニュースでも伝えられていました。イタリアにいったことがない私でも、水の都で有名な観光地として地名は知っていますし、昨年大きな水害があったことは記憶にありました。

その復興をかけてのカーニバルだったとのことで、地元の方々の落胆されている様子に、見ている側も気持ちが揺さぶられそうでした。

 

ナレーションのあるひと言で、はっと我に返りました。

ヴェネツィアのカーニバルは「1979年に始まった」というひと言でした。1770年代の間違いかと思ったら、ヴェネツィア・カーニバルを読むとたしかに1979年のようです。

長い空白期間を経て、1979年にヴェネツィア・カーニバルは再開された。イタリア政府がベネツィアの歴史と文化を復活させ、自らの成果の目玉として伝統的な祭典を利用しようと試みたためである。現在、ベネツィア・カーニバルには約300万人の人々が来訪している。最も重要なイベントのうちの一つとして、カーニバル最後の週末に行われる仮面コンテストがある。

 

こちらの記事の「1980年代、海外へ」に書いたように、1980年代初頭の日本では海外旅行は「一生に一度か二度ぐらいの贅沢」だった頃、旅行会社の店頭に並べられたはるか遠いヨーロッパの風景を眺めるくらいでした。

 

それまでのヴェネツィアを訪れていた旅人は、きっと静かに街を歩いて、静かに街に溶け込むことを求めていたのではないか。

復活したカーニバルに世界中から約300万人が訪れるのですから、街の雰囲気もカーニバル復活を境にだいぶ変わったのではないかと想像しています。

 

観光とはなんだろう。

海外旅行あるいは大きなイベントと一体になった人の大移動のような観光が始まったのもたかだか40年ほどで、今回の感染症の広がりを重ねながら、観光ってなんなのだろうと行きつ戻りつ考えています。

 

ああ、もう旅人という言葉は古いですかね。

 

 

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水のあれこれ 134 湖と鉄道

2018年に岡山を散歩して以来、「次はどこへ遠出しよう」と地図を眺めてばかりいるのですが、早い時期から琵琶湖は何度も眺めていました。それはぐるりと鉄道が一周していることに目がいったからです。

なんて魅力的!と検索すると、まず見つかるのが初乗り乗車券で一周する「大回り乗車」です。ただ、これだと途中下車できないので、琵琶湖の計画は漠然としたまま日がすぎていました。

 

*琵琶湖と宍道湖

 

子どもの頃から身近な湖というと芦ノ湖富士五湖で、一部、鉄道やロープウェイはあるものの、湖とは自動車で訪ねるものだと思っていました。

あちこち遠出をするようになったこの2年ほどですが、諏訪湖猪苗代湖、そして霞ヶ浦や北浦も鉄道が通っているのは一部区間だけです。

 

Macの地球儀から湖を探して地図に戻して見ても、湖の周囲をぐるりと鉄道が通っているのは琵琶湖と宍道湖ぐらいです。

その二つの湖を、昨年から今年にかけて制覇した(!)と思うとちょっとうれしくなっています。大げさですけれどね。

 

*湖の周囲に鉄道をつくること*

 

湖を見ると「静かな湖畔の・・・」と歌を思い出すほど、静かで安定した水辺だと思っていました。あちこちの湖の周囲をドライブをしても、多少、地形が入り組んだり船でしか渡れないような場所があるにしても、周囲は平面で、道路や鉄道をつくるのは容易そうに見えます。

 

ところが、昨年訪ねた諏訪湖の水害と釜口水門の歴史を知り、その2ヶ月後には台風19号芦ノ湖湖畔に浸水被害が起こり、そして琵琶湖も水位が2mぐらい上がる水害があったことなど湖の水害を知りました。

「湖とは大きな水たまり」ぐらいに思っていたのは間違いでした。

 

今年、初めて琵琶湖を鉄道で一周しながら、湖畔ぎりぎりのところに線路が敷かれているところもあれば、かなり離れたり高い位置に造られていました。ここに鉄道を敷くのはどのように決断されたのだろうと思いながら、車窓からの風景を眺めていました。

災害の歴史、地形や地層の知識、気象の知識など、「安全に鉄道を運行する」という目的を実現することがどれだけすごいことなのか、ぐるりと湖を鉄道で一周しながら圧倒されたのでした。

 

 

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散歩をする  219 信楽鉄道と近江鉄道本線、そして大津京へ

信楽駅は駅前に木もあって落ち着いた雰囲気でした。地元の方々でしょうか、トイレの掃除や周囲の草むしりなどをされていました。

信楽高原鐵道信楽線の歴史を読むと、1933年(昭和8)に国鉄信楽線として開業し、1987年(昭和62)に第三セクターとして存続されたようです。おそらく地元の強い願いが通じて存続されたのだと思うのですが、その4年後に想像もしなかった事故が起きて、7ヶ月ほど運休していた当時の様子はどうだったのでしょう。

 

そんなことも知らずに、沿線の美しい山と街の風景を楽しんでいました。

あの2月の岡山から広島の旅の写真がどこかへいってしまったのですが、なぜかこの信楽線の途中の風景からiCloudに保存されています。

そして当日のメモはこんなことを書き残していました。

雲が低い

雲井の手前、参道を線路が横切る、整然とした落ち着き

山のあちこちから水、沢がある、琵琶湖へ注ぐ水

貴生川までの一駅間が14分

途中、保線工事、雨、かなり高いところだった

 

写真を見ると、四方の山に雲がとても近く写っています。「貴生川までの一駅間が14分」というのは、信楽駅から紫香楽宮跡駅までの5駅はすぐ近くなのに、紫香楽宮跡駅を過ぎると終点の貴生川駅までしばらく山の中を走ります。

雲が近かったのも、最後の区間が長かったのも信楽が「高原」の街だったからだとわかりました。

 

*水口を訪ねる*

 

早朝に品川を出発したので、バスに乗り継いで信楽駅についたのは11時25分でした。

計画の段階で午後はどこへ行こうか地図を見ていたのですが、琵琶湖の周辺は水色の線がたくさんあって迷いました。

信楽線貴生川駅までたどって、そのあたりで「水口」という地名に目が止まりました。野洲川とその支流があちこちに描かれていて、お城もあるようです。

貴生川駅から近江線本線に乗り換えて、水口城南駅に立ち寄ることにしました。

 

駅を降りて数分ぐらいで水口城がありました。

資料館があるようなので、何かこの地域の水の歴史がわかるかもしれないと思ったのですが、残念ながら新型コロナウイルス感染の対応で休館中でした。美しいお堀を眺めて道へ戻ると東海道水口宿の表示がありました。東海道も桑名あたりまでは思い浮かべられるのですが、そこから京都までの道を知らなさすぎでした。

 

大津京へ向かう*

 

水口城南駅から再び近江本線に乗り、八日市駅で乗り換えて懐かしい近江八幡へと向かいました。

 

前回の滋賀県の散歩では乗る機会がなかった近江線でしたが、山側の複雑な地形の間を走っているのですが、どこからも琵琶湖へと通じているような広い田園地帯と水路が広がっている風景がなんとも美しく感じました。

今朝、滋賀県についてから晴れたり小雨が降ったりと慌ただしい天候の変化ですが、琵琶湖が見えてきたあたりでまるであの東南アジアで見たような、降っているところと降っていないところの境界線がはっきりわかるスコールのようにダイナミックな雨雲の動きが見えました。

そして琵琶湖の対岸の山々は、日に輝いています。その集水域の広さを感じる景色です。

 

 

再び石山駅に戻ったのが15時すぎで、まだ時間があります。ここからは京阪電鉄に乗り換えて、近江神宮に行ってみることにしました。

道路のそばの住宅街の一角にさりげなく遺跡がありました。

近江神宮のそばに、地図では琵琶湖へと流れる小さな川が描かれていますが、すぐそばの山から流れ込むのでしょうか、結構な水量でした。境内の森を歩いていても、その水の音が聞こえてきます。

近江大津京に関係した古い神社だと思っていたら、1940年(昭和15)に建てられたようです。

わずか80年ほどなのに「悠久の」という言葉が思い浮かぶほどの森に感じられて、明治神宮の森を思い出しました。

 

 

その日はおもに、琵琶湖の南側を歩いたのですが、山から空から、たくさんの水が集まり、目の前の琵琶湖に流れ込むようすに圧倒されっぱなしでした。

 

 

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行間を読む 92 信楽高原鐵道列車衝突事故

ちょうど信楽駅に到着したところまでの下書きを書いた翌日、ニュースで「信楽高原鉄道事故から29年」というニュースがありました。その偶然にさすがに驚くとともに、「犠牲者42人」という鉄道事故では大事故だったのにもかかわらず、私の記憶になかったことに愕然としました。

 

信楽高原鉄道事故から29年 犠牲者42人の追悼式 滋賀 甲賀 

(2020年5月14日 14時12分   NHK NEWS WEB)

 

平成3年に42人が亡くなった滋賀県信楽高原鉄道の事故から14日で29年です。甲賀市の事故現場近くでは、新型コロナウイルスの影響で参列者を減らして追悼式が行われました。

 

平成3年5月14日、今の滋賀県甲賀市信楽高原鉄道の列車とJR西日本の列車が正面衝突し、乗客など42人が死亡し、628人がけがをしました。

29年がたった14日、事故現場近くの慰霊碑の前で追悼式が行われ、新型コロナウイルスの影響で人数を大幅に減らし、鉄道会社の幹部など6人が参列しました。

全員で黙とうをささげて慰霊碑に花を手向け、事故が起きた午前10時35分図技には哀悼の意を示す警笛を鳴らして列車が通り過ぎていました。

信楽高原鉄道の正木仙治郎社長は「安全運行に勤めながら努力をしていくことで、ご遺族や関係者に報いていきたいと述べました。

また、JR西日本の長谷川一明社長は「事故への思いは世代を超えて引き継いでいかなくてはならず、鉄道事業の中で安全性を確立していくことに、たゆまぬ努力を重ねなければいけないと思う」と述べました。

事故をめぐっては、遺族の高齢化が進み、鉄道事故の調査機関の設置を国に求めるなど活動してきた団体も去年解散するなど、教訓の継承が課題となっています。

 

最初、このニュースの「信楽高原鉄道の列車とJR西日本の列車が正面衝突」という状況がよく理解できませんでした。たしかに、終点の貴生川駅ではJR草津線も通っているのですが、線路もホームも別でしたから。

信楽高原鐵道列車衝突事故の概要を読み、当時はJRが信楽線に乗り入れていたことを知りました。

1991年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市信楽町)黄瀬の信楽高原鐵道信楽線・小谷野信号場ー紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの登り普通列車(SKR200形4両編成)と、京都発信楽行きの西日本旅客鉄道(JR西日本)直通くだり臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系3両編成)とが正面衝突した。先頭車のキハ58形は全部が押し潰された上に全長のほぼ1/3が上方へ折れ曲り、SKR200系は先頭車が2両目とキハ58系とに挟まれる形で原型をとどめないほどに押し潰された。JR西日本側乗客の30名、信楽高原鐵道側乗員乗客の12名(うち運転士と添乗の職員が4名)の合わせて42名が死亡、直通下り列車の運転しを含む614名が重軽傷を追う大惨事となった。衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。

 

こんなに大事故だったのになぜ記憶になかったのか、西暦を見て思い出しました。

当時、私は東南アジアのとある地方に滞在していた時期でした。おそらく、常に内戦状態だった地域なので、伝わるニュースが限られていたのでしょう。

 

*医療の中にリスクマネージメントが広がり始めた時期*

 

1991年と92年、ちょうど私は都内のふたつの総合病院で働いたのですが、80年代から耳にしていたリスクという言葉も、91年まで働いた病院ではまだ漠然としたものでした。

 

東南アジアに1年ほど滞在して92年に再就職した病院では、インシデントを認め、報告するシステムが取り入れら始めていました。

その時に、このリスクマネージメントが運輸や製造など他分野の事故対応の経験からきたものであることを知りました。

 

もし1991年に日本にいてこの事故のニュースを聞いていたらまだ、少ない情報の中から「何が間違っていたのか」「誰のミスなのか」と原因を拙速に見つけようとし、亡くなったり怪我をされた方々のほうへと強く気持ちが動いていたのではないかと思います。

 

今、Wikipediaの「信楽高原鐵道列車衝突事故」の背景や原因、裁判を読むと、もちろん被害の甚大さに心が折れそうな内容で読むのもきついのですが、この事故に対応された方々の側の視点も見えるようになっています。

 医療にリスクマネージメントが取り入れられてから30年ほどですが、毎日、自分自身がもし医療事故に遭遇したらということを、常に考え続けてきたからかもしれません。

 

今は医療だけなくさまざまな分野でリスクマネージメントが取り入れられているでしょうから、同じように感じる方々もいらっしゃるかもしれませんね。

日常生活においてもインシデントという言葉を我が身のことと感じられるかあたり、社会の中でだいぶ差が広がっているのではないかと思うことが増えました。

 

 

 

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