散歩をする 286 豊田から足助へ

ただひたすら矢作川をみる散歩の二日目は、朝7時30分ごろのバスに乗る予定でした。

小渡行きのバスに乗ると、1時間10分ほど矢作川に沿って矢作ダムの近くまで行ける路線でした。2月下旬の冷え込んでいる中、意気揚々とバス停に向かうと、なんと朝一番のそのバスは途中までしか行かない路線のようでした。事前に何度もバス会社のホームページも確認したのですけれど、やはり現地にいかないとわからないことはよくありますからね。

 

小渡に行き、そこからバスを乗り継いで足助(あすけ)に行ってまた豊田市に戻っていく計画でした。

予定していたバスは広瀬までしか行かないのですが、そこから足助行きのバスに乗り換えられるようです。計画変更してそのルートで足助に向かうことにしました。

 

*バスで足助へ*

 

矢作川を渡り、前日に見たゴミひとつ落ちていず、ゴミ収集場所もどこにあるかわからないぐらい整然とした市街地を抜けると、矢作川左岸に田畑が広がり大きな農家の家並が続いて、旧街道のような風景になりました。

水間町のあたりから堤防が高くなり、矢作川の水面は見えなくなりました。

「水間」、どのような地名の由来があるのでしょう。

 

「勘八(かんぱち)中根」というバス停のあたりから高台へと上り坂になり、中部電力越戸ダムの横を通過しました。

山の中へ入っているはずなのに、驚いたことに朝の通勤ラッシュで渋滞していました。バスの乗り継ぎ時間は大丈夫かなと一瞬不安になりましたが、どこかの交差点で流れが変わり、また山道をバスだけが走る風景になったのでした。

 

途中、川岸の雑木林の中に、レールのようなものが一瞬見えました。

じきに終点の広瀬に到着。目の前にはレールと旧駅舎がありました。

ゆっくり周辺を歩いてみたい風景ですが、そのまま足助行きのバスに乗り換えました。

ここからはコミュニティバスでしたが、中はすでに高校生で満員でした。期末テスト最中か、皆、真剣に勉強しています。

広瀬を出るとぐいぐいと坂道を登り、また下ると目の前に大きなお寺が2つあり、ちょっと時が止まったように落ち着いた街並みがありました。

 

山の間の道に沿って田畑や家が並んでいます。美しい風景に見入っていると、その街並みの中を通っている道が、元は単線の鉄道を利用したのではないかと思うようなつくりでした。先ほどの広瀬からの鉄道でしょうか。

この辺りの道にはどんな歴史があるのでしょうか。

 

再び川が見えてきました。矢作川の支流、巴川です。

橋を渡ると足助病院があり、そこがバスの終点でした。その隣にある学校に、高校生が入って行きました。

まだ8時半ごろなので、静かな静かな山間の町の朝です。

 

1990代に愛知の知人を訪ねた時に、 「足助はいいところだから行ってみるといいよ」と言われて、名前が記憶に残っていました。

四半世紀過ぎて、その一言から訪ねることになるのですから、人生というのは不思議なものだと思いながら、川沿いを歩きました。美しい川です。

 

数分ほど歩くと足助八幡宮があり、街の中心部のようです。

そこから巴川に沿って香嵐渓があり、そして足助川に沿って古い街並みが保存されていました。

あちこちから水音が聞こえてきます。

この景色と静けさを独り占めしたのでした。

 

ただ、数日後に愛知県は一足先に緊急事態宣言が解除になるという時期でしたから、まだ街中をぶらぶらする観光客は歓迎されないだろうと思い、川沿いを少しだけ歩いて次の目的地に向かうことにしました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事はこちら

行間を読む 108 「 マイカー通勤転換プロジェクト」

平日の日中に三河豊田駅に降り立ったのは私一人だけで、「2018年度の一日平均乗降者数14,918人」が想像できないほど森閑としていました。

目のにある工場周辺には、いくつも社員用の大きな駐車場がありました。

 

愛知環状鉄道線に、「マイカー通勤転換プロジェクト」についての説明があります。

沿線のトヨタ自動車が マイカー通勤から公共交通機関利用に転換を進めていることに対応し、国・県・沿線市・民間からの支援を受け、同社本社の最寄駅である三河豊田駅新豊田駅間を複線化して同駅間にシャトル列車を運行する計画が建てられた。同区間の工事は2005年(平成17年)4月から着手され、三河豊田駅の配線改良、新上挙母駅の全面改良(下り線路盤上に設置されていた旧ホームの

撤去・上下線最新ホームの配置など)、新豊田駅高蔵寺方に配置せんを設置するなどの工事を行った。2008年(平成20年)1月27日始発列車から複線運転が開始された。同3月15日ダイヤ改正より朝通勤時間帯にシャトル列車が設定され、この区間で既存列車と合わせて約8分間隔で列車が運行されるようになった。

 

「マイカー通勤転換プロジェクト」で検索すると、国土交通省の2005年(平成17年)の資料が公開されていて、豊田市についても書かれていました。

 自動車の交通渋滞は、直接ドライバーに時間的ロスや苦痛を与えるだけではなく、地域生活を支える物流・医療など経済的・文化的にも大きな損失となり社会全体の重大な問題である。日本の地方都市における大企業の工場・事務所が集積した地区で朝夕の出退勤時の交通集中による渋滞問題が表面化している。

 一方、地球規模の環境問題としての側面としては、2005年2月の京都議定書発行を受け、自動車の過度な利用に対して警鐘がならされている。地球環境温暖化防止の為にも自動車通勤から徒歩、自転車、公共交通機関、バイクなど環境に優しい通勤手段への転換が求められている。

   「通勤交通対策に関する国内外の先進事例の整理」「概説」より

 

 

それが、三河豊田駅の一日平均乗降者数が2003年度は4,814人だったのが、2018年には14,918人の背景だったのですね。

 

ちょっと遠出の散歩をすると、ちょうど朝夕の通勤時間帯の様子を車窓から見ることがしばしばあるのですが、幹線道路だけでなく、農道のような場所まで車がずっと連なっている風景です。

あるいはあの緊急事態宣言中でも、都心よりはむしろ郊外に向かう道路の方が渋滞していました。

 

1990年代に、村井吉敬さんが「今、日本中の自家用車を道路に並べると、車の方が余る」と言っていたことを思い出す光景です。

当時に比べると自動車がどれくらい増えたのか、そして道路も新たに拡幅されたり新設されているので、今は並べてみるとどうなのでしょうね。気になっています。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

 

河童族の季節がやってきた

いつも、空いている時間をねらって泳ぎに行きます。

だいたい常連のような人が数人ぐらいしかいない時間帯があります。

平日だし、春休みも終わったのでそろそろまた静かに泳げるだろうと思って行ったら、なんだか活気がありました。

 

そうだ日本選手権が始まったからだとすぐにわかりました。

今回は録画予約を忘れなかったのですが、あとでゆっくり観るつもりでした。

 

毎年、この時期になると急に泳ぎにくる人が増えることがあって、競泳大会の放送が影響しているのではないかと感じています。

あくまでも印象なので、相関関係も因果関係もわからないし、単なる偶然かもしれませんが。

 

選手の皆さんの華麗な泳ぎを見ると、ほんと、すぐにでも泳ぎに行きたくなりますからね。

 

昨年の今頃は、6週間も泳げす、そして初めてのアクアティックセンターでの観戦も中止になったのでした。

かれこれ16ヶ月も会場で観戦していない日が続いています。

 

家に帰って、すぐに録画を観始めました。

 

無観客ということで、観客席には関係者がちらほら座っているだけです。

あのはるか後ろの席だけど、昨年は観戦する予定だったのになあと残念な気持ちでしたが、池江璃花子選手が泳ぎ終わってプールからあがった時に、会場から拍手がたくさん聞こえてきたことで胸が詰まりました。

 

ほんと、いつもいろいろな意味で、力を尽くした選手やプールに戻ってきた選手に対して送られる温かい拍手です。

きっと、優勝しなくても拍手が響いたことでしょう。

池江選手自身が「おかえりなさいと拍手をもらった」と感じられたように。

 

あの雰囲気も好きで、会場に足を運んでいたのだと改めて思いました。

もし、会場で観戦できていたら、入場する選手一人一人に大きな拍手を送っただろうと思います。

かつて経験したことのない危機に直面し、それを乗り越えてこのスタート台に立つ一人一人に。

 

選手の皆さんにすると、直接の応援も聞こえないし、これからの国際大会の見通しも立たない苦しい年だと思いますが、全国のプールできっと今、「選手のように泳ぎたい!」と思っている人がたくさん増えていると思いますね。

 

 

 

「泳ぐ」をクリックすると、過去の記事の一覧があります。 

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

 

運動のあれこれ 38 新幹線三河安城駅と愛知環状鉄道線

明治用水を歩くの中で「子どものころからこの三河安城あたりを通過する時には」と書いたのですが、三河安城駅の「歴史」を読んで、愕然としました。

私が子どもの頃にはまだ、三河安城という駅がなかったようです。

請願駅として誕生したため、総事業費約137億円は地元が負担した。このうち、愛知県の負担が約30%、安城市が約50%、周辺市町村が約8%、民間寄付等が約12%を占めている。

1988年(昭和63年)3月13日、新富士駅・掛川駅新尾道駅東広島駅とともに東海道・山陽新幹線の新駅として開業した。

 

1974年(昭和49年)11月16日:東海道新幹線駅新設期成同盟会を結成 

 

1975年か76年ごろに新幹線に乗って一人で岡山まで行った記憶があるのですが、あの時には新富士駅や掛川駅も、そして三河安城駅もまだなかったのですね。

豊橋から名古屋まで、停車駅がなかったことの記憶が全くありません。

 

そのあと、再び新幹線に乗ったのは1990年代はじめのころで、その時には当たり前のように「三河安城駅」を通過していたのでした。

本当に、記憶というのはなんと曖昧なことでしょうか。

 

それにしても、2003年にできた新幹線品川駅といい、すでに新幹線が走っている線路の周辺に新駅を建設するなんてすごいですね。今だったら見に行ったのに、当時は何も関心がなかったのが残念ですね。

 

 

愛知環状鉄道線の歴史*

 

1990年代に名古屋から日進町のあたりに住む知人を訪ねた記憶があるのですが、名古屋からの放射状に伸びるたくさんの鉄道があることを知りましたが、そのさらに外側に環状線があることは気づきませんでした。今回初めて愛知環状鉄道線に乗った時に、武蔵野線のように高架線なので新しい鉄道だろうと思ったのでした。

 

ただ、不思議なのは、新上挙母(うわごろも)駅から新豊田駅、そして愛環梅坪駅区間は、名鉄線もすぐそばを並走していて、同じように駅があることでした。

 

愛知環状鉄道線を読むと、最初は岡崎・多治見間の鉄道整備を求める岡多線期成同盟の運動があり、1970年にトヨタ工場からの貨物線として開業、その後国鉄として岡崎・新豊田駅まで旅客営業が始まったようです。あの不思議な外観の工場への原料輸送にも使われていたようです。

 

三河安城駅と愛知環状鉄道線、全く脈絡がない話なのですが、1970年代というのは同じ目標の実現に向かって結束する「期成同盟」による運動が多かったのだろうか、と私の記憶にはほとんど残っていない時代の雰囲気でした。

 

 

当たり前のようにあちこちの駅を通過しているのですが、それぞれの駅にもまた歴史ありですね。

 

 

 

「運動のあれこれ」まとめはこちら

行間を読む 107 人造石と服部長七

水土里ネット「明治用水歴史年表」の「1900   明治33    旧頭首工(人造石)をつくる工事をはじめる」という項目に、ふと目が止まりました。昨日の記事で紹介した「豊田市渡刈町 水源ダム・頭首工の今昔写真集」の「明治42年完成の石造り堰堤風景」の写真をみると、「石造り」と言っても石を積み重ねたものではなく、コンクリートのように見えます。

 

「人造石」はコンクリートのことなのかなと思ったのですが、明治用水の「関連項目」に書かれている「服部長七」を読んだら、全く違っていました。

 

 

*人造石工法*

 

服部長七の「人造石工法」にセメントとの違いが書かれています。

人造石工法が用いられた明治期において、セメントはすでに輸入されていたものの高価であり大規模工事に使用するのは経済的に難しかった。また当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい状況であった。これに対して長七の人造石工法は用いる材料が安価に大量に入手可能であったこと、前述の欠点により水中においてはむしろセメントを用いるより強固な構築物を築くことができた。また、関東大震災当時、煉瓦積みの建築物は壊滅的な打撃を受けたのに対し、人造石構造物の損害は軽微であった。

 

一世紀前はまだ、「当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい」時代だったのですね。

 

 

*経歴からいろいろとつながる*

 

服部長七の経歴を読むと、今までの散歩といろいろとつながりました。

まず、「人造石」を編み出すきっかけが神田上水であったことが書かれていました。

(前略)その後酢・菓子・酒の製造を営んだ後上京し、日本橋で饅頭屋を開業し繁盛したとされる。しかし雨の日になると饅頭屋で用いる水道水の汚れがひどくなるため、自ら小石川の水源地を見に行き、その不衛生さを見てからは上水道の改良を志すようになった。 

 

1876年(明治9年)に人造石工法を編み出した後、さまざまな治水・護岸工事に関係していたようです。

1881年明治14年)には人造石工法の海岸堤防工事への導入試行として、自ら高浜(愛知県)の服部新田開発を手がけ成功した。その後岡山県佐賀県の新田開発築堤工事で成果を上げ、1884年明治17年)からは広島県宇品港(2013年現在広島港の一部)の工事を請け負う。(中略)

その後も長七は台湾基隆港改築工事、四日市港築港、明治用水取水口堰堤工事など数々の治水・護岸工事を手がけたが、コンクリート工法の普及など環境の変化もあったことから1904年(明治37年)に事業から引退し、氏子として再興に努めていた岩津天満宮(愛知県岡崎市)に間借りする形で隠居した。 

 

 

明治用水取水口の堰堤は、ちょうどこの人造石からコンクリートへと驚異的に変化する時代の最中だったことになります。

冒頭の写真は1909年(明治42年)ですが、どちらも使われていたのでしょうか、それとも人造石工法だけだったのでしょうか。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

水の神様を訪ねる 31 明治川神社と水源神社

私の散歩はほとんどが、地図を眺めていてピンときたところから計画ができます。

明治用水を訪ねる計画の中で、二つの神社を見つけました。

 

名鉄新安城駅の近くに明治川神社を見つけたときには、そばにまっすぐな用水路らしい流れがあったので、もしかしたら明治用水に関連した神社かもしれないと思いました。

もう一つは、取水口のあたりを眺めていたら水源公園の中に水源神社がありました。

 

Wikipedia明治用水の「神社」にその二つの神社について書かれていて、なんだか正解を見つけたようです。

安城市東栄町には1885年に建立された明治川神社がある。都築弥厚、石川喜平、伊豫田与八郎、岡本兵松という明治用水関係者が祀られている。例祭は4月18日。

豊田市水源町の水源公園には水源神社があり、やはり明治用水関係者が祀られている。水源公園は豊田市随一の桜の名所であり、450本の桜が植えられている。

 

Wikipediaにも明治川神社の説明があります。水土里ネットの「明治用水歴史年表」にも、明治川神社について載っています。

1885   明治18     明治川神社が愛知県に認められる 

 

残念ながら、今回は明治川神社を訪ねる時間はとれませんでした。

 

*水源神社*

 

水源神社は水源公園の中にあります。

Wikipediaで検索すると、写真だけ見つかります。他にも、境内を写した写真がいくつかのサイトで見つけました。

 

残念ながら、参道の入り口に鎖がかけられていて、参道や境内に入ることができませんでした。

 

水源神社はいつ頃できて、その当時はどんな風景だったのだろう。

こんなに基本的なことも、なかなか歴史をたどるのは難しいものです。

検索していたら、豊田市渡刈町の「水源ダム・頭首工の今昔写真集 自治区情報」を見つけました。

明治42年完成の石造り石堤風景・昭和25年/1950 左岸の岩倉村から撮影/土地改良区提供(当時、松平の人々は、堰堤の上を自転車で通り、自動車会社へ通勤)」というキャプションがついた写真を始め、2008年までの風景の変化がわかりました。

 

 

今回はどちらも訪ねられなかった神社の記録ですが、いつかまたその歴史にどこかで出会うことが楽しみです。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

落ち着いた街 11 トヨタの街

念願の明治用水取水堰を見ることができました。

ここからは1.5kmほど矢作川沿いを歩いて、トヨタ記念病院を目指しました。

 

しばらく水源公園が矢作川沿いに続いたあとは、少し人気(ひとけ)のない道が川沿いに続きます。竹やぶが川沿いに植えられていて、ときどき、矢作川の真っ青な水面が見え隠れしています。午後3時過ぎになり少し風が出てきました。川風を避けるための竹やぶでしょうか。

 

しばらく川沿いを歩くと、トヨタ記念病院へと向かう、見上げるような坂道がありました。

下を向いてなんとか歩ききりました。

さらにもう少し高い場所に、病院の建物が見えてきました。地図では矢作川のすぐそばに見えた場所ですが、崖の上のようなところでした。

 

ここを目指したのは、その日に宿泊する豊田市駅まで矢作川左岸を通るバスが病院前から出るので、それに乗って風景を見てみたかったことと、10年ほど前に岡崎からの搬送先として耳にしていたので、どんな場所にあるのだろうと思っていたからでした。

 

そのバスで川沿いの地域を回ると、どこからでもよく見える場所に病院がありました。

 

*表示物がない、雑然としたものがない*

 

行く前まではトヨタの本社もあるくらいですから、あちこちに「TOYOTA」を見かけるだろうと思っていました。

1980年代半ば、住んでいた東南アジアやアフリカで「TOYOTA」を見かけたように。

 

三河豊田駅を降りてまず気づいたのが、街の中に看板どころか、建物のどこにも「トヨタ」とか「TOYOTA」を見かけなかったことでした。

本社ビルにさえないのです。近づいて、ようやく小さく「トヨタ記念会館」の表示を見つけました。

同じく、トヨタ記念病院も屋上に建物と同じ色彩で名称が書かれているくらいで、ほかには病院名や診療内容が書かれた掲示物も外に見かけませんでした。

 

バスが会社の独身寮らしき建物の前を通過したのですが、ここも建物名さえありません。

どのベランダも、物も洗濯物も一つも置かれていません。

ふとトヨタ生産方式という言葉が思い浮かんだのですが、どうなのでしょうか。

 

関連した場所だけだろうと思っていたら、矢作川左岸の山を造成した比較的新しい住宅街を回って、さらに驚きました。

どの家も庭がすっきりして、清掃が行き届いています。

よく見かけるような園芸用品とか子どものおもちゃとかが散乱している庭が、一つもありませんでした。

新築から数年ぐらいは、家の周りもきれいにすることが楽しい時期もあると思いますが、20年ぐらいはたっていそうな住宅街です。

道路沿いの植木や草木まで、誰かの手によって整備されていることがわかります。

何より、道路に面してゴミ置場がなく、そして風で飛ばされたり放置されたゴミが一つもないのでした。

ほんとうに、大げさでなく、ひとつも。

 

まあ、この辺りの住宅街も会社関連かもしれないしと思っていると、商店街も同じです。

店舗の前が整然としていて、どのお店も何かを雑然と置いておくことがない風景でした。

 

どうしたらこんなにきれいな街を維持できるのだろうと、車窓の風景に圧倒されているうちに、水田が見え、豊田スタジアムの前を通って矢作川を渡り、豊田市駅前に到着したのでした。

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

ごみについてのまとめはこちら

 

 

水のあれこれ 168 明治用水取水口と水源町

三河豊田駅の真ん前にあるトヨタ自動車工場隣の長い道を歩くと、本社前あたりから下り坂になります。

地図と航空写真ではわからなかったのですが、トヨタ本社は矢作川右岸の高台にあり、そこからかなり下がったところに明治用水の取水口と取水堰があるようです。

トヨタ会館の道を隔てたところが少し崖のようになっていて、昔はその高台からの小さな川の始まりだったのだろうと思う場所に水路がありました。工場で使用するのでしょうか、小規模の浄水施設がありました。

 

環状線という道路から川の方向へと曲がると、わずか150mほどの距離ですが、少し膝に力を入れて歩いた方が良いような坂道になり、住宅街が続いています。

その先の右手に大きな橋が見え、あとで調べたら伊勢湾岸自動車道だそうです。

私の頭の中の地図は東名・名神高速道路で止まっているのですが、歴史は長いようです。

 

左手に取水堰の一部が見えてきました。

水源公園は高い場所から斜面に沿って、矢作川沿いにあります。

公園の前に取水堰がありました。対岸まで堰の上を通行できるようになっているようですが、残念ながら工事中でした。

 

川のそばの遊歩道を少し下流側へ歩くと、分水路がよく見える場所があります。

堰の向こう側から取水された水が、トンネルをくぐったところでは3本の水路になって流れていました。

 

この水が、この日の午前中に歩いた碧海台地を潤していると思うと感無量でした。

 

 

明治用水「都築弥厚の計画」*

 

明治用水の歴史を読み返しました。

碧海台地に矢作川の水を引いて新田開発を行う計画は、江戸時代文化・文政期に碧海郡泉村(現安城市和泉町)の豪農である都築弥厚(1765年~1833年)の発案である。都築は数学者の石川喜平とともに、1822年に用水路の測量に着手し、農民の抵抗に遭いながらも、1826年に測量を完了させた。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると、碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。1833年には幕府は都築の計画を許可したが、都築は同年に病没した。

「都築弥厚の計画」

 

「1883年には幕府は」の箇所は「明治政府」の誤植だと思われますが、いずれにしても江戸時代から明治にかけて、一個人が計画をたて、測量をしたことに改めて驚きます。

 

取水堰の上流側には、堰と取水口のあたりを眺められるようにベンチがありました。

しばらくそこに座ってみました。

都築弥厚はどうやってこの場所から水を引くことを見出したのでしょうか、のちに「水源町」とつけられるような場所に。

 

あの玉川上水福生のあたりから武蔵野台地へと水の流れを引き上げたように、江戸時代からの土木事業はなんとすごい現代への遺産なのでしょうか。

 

明治用水資料館では、用水路を引くことで下流の農民からは浸水被害が出るのではないかと反発があったことが書かれていました。

たしかに、下流では下流の洪水との闘いがあります。

 

歴史に「もし」はないのですが、この計画がなかったら今頃、あの安城のあたりはどんな風景だったのでしょうか。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

散歩をする 285 岡崎から三河豊田へ

帰宅してもう一度地図を見直すと、岡崎駅の西側の地名が「羽根西」で、もしかしたら水辺に近くても比較的、水害に強くて人が住める場所だったのかと想像しました。

ここから愛知環状鉄道線に乗り換えて、明治用水取水口に向かいます。

最初は、矢作川左岸沿いに走っています。高架化された路線なので、遠くまで一望できました。

 

岡崎駅を出てすぐの「六名(むつな)駅」を過ぎると、矢作川の堤防の内側にもうひとつ堤防があり、その間に畑が広がっていたことが印象に残りました。堤防ができてから、新しく農地に利用されたのかと想像したのですが、Wikipediaには「8世紀中頃に額田八郷の一つとして六名八郷ができた」とありました。

 

矢作川支流の乙川を渡ると中岡崎駅で、八丁味噌資料館や岡崎城のある岡崎公園があります。ここもいつか訪ねようと計画ノートに書いてあるのですが、今回は水源町を回るために残念ながら通過です。

北岡崎駅を通過すると、パイプだらけの大きな工場が見えました。「奇抜な」という印象でしたが、1966年に造られた日本エステルの工場でした。実際に見ると、Wikipediaの写真よりももっとパイプだらけの工場が広がっています。

 

次々と変わる沿線の風景に散歩のメモが追いついていきません。

一瞬、遠くに雪山が少しだけ見えました。矢作川上流の岐阜や長野県との県境のあたりでしょうか。ほんと、山の名前を知る手段がないことが残念ですね。

 

大門駅を過ぎると、一旦、矢作川を越え、今度は右岸側からの風景になります。

列車は高台の端を走っているようで、あの利根川に削られた崖のような群馬総社からの風景に似ています。

 

このあたりから、黒い壁のちょっとスタイリッシュな工場や黒い瓦の家が増え始めました。

 

永覚(えかく)駅の手前の高台に、トヨタの工場が見え始めました。いよいよ「城下町」が近づきます。

永覚駅のすぐ向こうに東名高速道路が通っています。1960〜70年代、東名・名神高速道路を一昼夜かけて倉敷へ行った時に、ここも通過していたのですね。あの時は夜中だったので眠っていたのですけれど、当時はどんな風景だったのでしょう。

 

東名高速を越えると、遠くに大きな街が見え始め、三河豊田駅が近づいてきました。

大きな建物のそばにあるその駅に降り立ったのは私一人だけで、案外とこじんまりとした駅でした。

Wikipedia三河豊田駅には「トヨタ本社に最も近い駅で、朝のラッシュ時は同社の通勤客で混雑する」とあり、一日平均乗降者数は2018年で「14,998人」のようです。

 

ここから2kmほどのところに矢作川があり、明治用水の取水口があります。

ここを歩くために他の計画は見送って、今回はゆっくりと時間をとったのでした。

 

いざ、水源公園と取水口に向かいます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

散歩をする 284 矢作川の河岸段丘を歩く

明治用水記念館を出ると、目のまえに大池公園があります。

 

地図を見た時から、おそらくため池を利用した公園だろうと思っていた通りでした。

実際に訪ねると、周囲を木や草花で覆われた遊歩道があり、仏像がいくつも並び、なんだかほっとするような美しい公園でした。

明治用水ができる前は水に乏しい台地だったことを考えると、今の安城の風景はまるで砂漠にできたオアシスのようですね。

明治用水記念館を出たあとは、外の風景が全く違うものに感じました。

 

この大池公園について、「安城生涯まちづくり企画人」というサイトに説明がありました。

この池は、1931(昭和6)年に干ばつ対策に掘られて、掘り出した土は紡績工場を誘致するために使われました。池の面積は1.5haほどですが、20haほどの工場用地を埋めて造成することができました。その後、防災上の必要性から2006(平成16)年に洪水の貯水池として整備され大池公園としても市民の憩いの場となっています。池の中にはカメや鯉、鮒などがおり釣りを楽しむ人や散歩をする人が訪れます。池の周りを一周すると四国88カ所霊場巡りができるようにお寺の名前と仏さまが並べています。

 干ばつ対策のために掘られ、さらにその土が明治用水沿いにあるクラボウ安城工場の用地造成に使われ、そして現代では洪水調整の池として利用されながら、憩いの場にもなっているのですね。

 

隣接した大平寺についても説明があり、1917(大正6)年ごろから副業として養鶏業が盛んになり、1941(昭和16)年に鶏霊塔が境内に建てられたと書かれています。

 

 

矢作川右岸から左岸へ*

 

新幹線で矢作川を越えて三河安城のあたりを通過するときには、ほとんど段丘らしい高低差を感じたことがありませんでした。

地図で見ると大きな矢作川に近いというのに、そのあたりは水を得られずため池にたよるしかない碧海台地であったということを確認したくなりました。

 

JR安城駅から東海道本線に乗って、矢作川の対岸へ向かいました。

もうじき矢作川が近づくというのに、西安城駅を過ぎるまで変わらない平地が続いています。しばらくすると、鹿乗川という小さな川の手前で河岸段丘らしい下り坂が見え、そこから矢作川の堤防まで田畑が広がりました。

車窓から後ろを振り返って見ましたが、想像していたような「台地」という高さとも違いましたし、やはり新幹線で通過するときに気づかないぐらいの高低差に感じました。

むしろ、対岸の岡崎の方が高い場所があるように見えました。

 

 

*薪割り以上の運動になりそうな上り坂*

 

JR岡崎駅に到着すると、遠景では河岸段丘に見えた市内も、建物でその高低差はよくわかりません。

街の中を歩いてみることにしました。

県道483号という広い道路がまっすぐ南北に通っています。1962年までは、名鉄岡崎市内線という路面電車が通っていたそうです。うらやましいですね。

 

ずっと岡崎を訪ねたいと思っていた理由の一つに、あの助産雑誌でよく取り上げられ、助産所を開くための研修先として助産師会が勧めていた医院があったからです。

 

自然なお産のための体づくりとして、古民家に滞在して妊婦さんに薪割りやスクワットを勧めていることが話題になっていたのはだいぶ前ですが、このあたりの周産期ネットワークはどんな感じなのだろう、そして古民家のある地域ははどんな場所なのだろうと気になっていました。

 

目指すその場所は、県道483号線から東へ一本入ったところにあります。

駅からすぐそばの住宅地にあることも予想外でしたが、角を曲がった先にあったのは見上げるような矢作川河岸段丘でした。

その坂の上にありました。

 

この道から先が段丘の上のようです。たしかに、地図でみてもここからはため池が散在しています。

その坂を上り下りするだけで、相当な運動量になりそうでした。

 

地図でみただけではわからない、矢作川両岸の高低差をこの目で確認できました。

 

 

岡崎から愛知環状鉄道線に乗って、いよいよ明治用水の取水口へと向かいます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら