記録のあれこれ 100 「検見川発掘日記」

府中市郷土の森公園の池の大きな蓮の葉と蕾に気持ちが癒されたあと、府中市郷土の森博物館に入りました。

府中用水による新田開発の歴史を知ることができるかなと期待したところ、なんと常設展は建物の改修工事中で見学できませんでした。

残念と思った時、「大賀博士とハスの図譜」というミニ展示が目に入りました。

 

大賀博士の名前を初めて知ったのは、4年ほど前に古代蓮を知った時でした。そして翌年、行田市まで出かけて見ました。

それまではハスとスイレンの違いさえあまりわかっていなかったので、種をみて古代蓮だとわかるとはなんとすごいことかと「発見した」人の名前が記憶に残りました。

その大賀博士は、62歳にこの府中に居を移したそうです。

 

*「検見川発掘日記」*

 

この展示では、「検見川発掘日記」という大学ノートが公開されていました。

1951年3月5日から4月6日までの発掘調査を記録したもののようです。以下の説明に目がとまりました。

最初にハスの実が見つかった3月30日には、17時10分に七中の女生徒が、「篩により蓮の実一個を発見」したと記されている。

 

蓮の実を「発見した」のは女生徒だったこと、そして発見した日時が記録されていました。

 

Wikipedia大賀一郎では、「発見」について以下のように書かれています。

1951年(昭和26年)、千葉県千葉市東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で、今から2,000年以上前の古代ハスの実を発見した。同年5月に古代ハスの実が発芽、翌年開花し、このハスは大賀ハスと名付けられた。

 

 

同じくWikipedia大賀ハスの「概要」には、その発掘調査についてもう少し詳しく書かれていました。

戦時中に東京都は燃料不足を補うために、花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受け草炭を発掘していた。採掘は戦後も継続して行われていたが、1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま1雙の丸木舟と6本の櫂を掘り出した。このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われた。その調査により、もう2雙の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったことと推測され落合遺跡とよばれた。そして植物学者でハスの権威でもある大賀一郎(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行った。調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなかあげっれなかったが、翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1個が発掘され、予定を延長し4月6日に2粒、計3粒の蓮の実が発掘された。大賀は5月上旬から発掘された3粒のハスの実のはつが育成を、東京都府中市の自宅で試みた。2粒は失敗に終わったが3月30日に出土した1粒は育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせた。

 

 

「注」によれば、「七中」は3月31日まででその後は花園中学になっているようです。

 

  

ちなみにその展示では、ミニ展示のタイトルの「図譜」についての説明もありました。

図譜とは、詳細で緻密な画が描かれた図鑑のようなもので、近年はボタニカルアートという呼称も用いられるようになった。 

植物の持つ特性を変えない記録が基本にあったからこそ、2.000年前のものであることを博士も「発見」できたのでしょうか。

 

 

ちょうど70年前に一人の女子中学生が発見した蓮の実が、大賀博士によって1年後に花をつけ、そして現在、全国のあちこちで花を咲かせているのですね。

3年前はその説明を読み飛ばしていましたが、今回その背景がもう少し理解できました。

「3月30日、17時10分に七中の女子生徒が発見」という記録によって、もっと状況を知りたいと思わせられたのでした。

 

 

 

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行間を読む 114 府中本町の変遷

まるで浦島太郎のような気分になった散歩ですが、小学生の頃にこの辺りを通った記憶が少しずつつながってきました。

小平霊園で墓参をし、東久留米の祖母を訪ねるためで、おそらく川崎街道から是政橋を渡って府中街道を通り、小金井街道、そして玉川上水のそばの交差点から五日市街道を通って小平霊園でお墓参りをしたのだと思います。

そして帰りは東久留米から府中街道をまっすぐ走ったのだと思いますが、左手に真っ白な高い壁が続き、右手は多分、キャベツだったと思うのですが広々と畑が続いていたその帰路の光景が記憶に残っています。

ところが、その手前の国分寺崖線の記憶もないし、1933年(昭和8年)にはすでにあったはずの東京競馬場の記憶もありません。

 

ただ、広々とした平地に農地が広がり、刑務所があった記憶です。

 

1990年代にこの辺りを通ることがあり、刑務所に隣接して住宅街が広がったことに驚いた記憶はあるのですが、まだ国分寺崖線や立川崖線は目に入っていなくて、多摩川沿いの平地のイメージでした。

 

*「府中本町の駅名の由来」*

 

Wikipedia府中本町の駅名の由来に、東側の小高い場所について書かれていました。

この地には古い歴史があり、それが当駅名「府中本町」の由来となっている。

鎌倉へ至る鎌倉街道のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、中世には当地が「本町」と呼ばれていた。富士山まで見渡せる景勝地でもあることから府中御殿が建築され、その後も本町として発展してきた地であり、それが当駅名の由来ともなっている。

 

そして、あの記憶に残る農地は、府中用水によって開拓されたものでしょうか。

府中崖線の南側に沿って流れる約6kmの農業用水路。7か村用水とも呼ばれる。江戸初期(1693年)に多摩川の古い河床を利用して開削され本町・番場宿・新宿・青柳村・上谷保村・下谷保村・是政村の七か村を通り、農地に水を供給し、生活用水となっていた。ハケからの湧水と国立市青柳にて多摩川から取水し、途中で谷保分水が分かれる。都立府中西高校の北側で府中市に入る。各所の田畑を潤した後に多摩川に戻る。 

 

散歩の記録にしていなかったのですが2018年頃に、矢川緑地から谷保のあたりの湧水と水路を歩き、田畑が残る美しい風景に圧倒されました。

きっと私が小学生の頃は、府中街道沿いも同じような風景だったのですね、江戸時代に開拓された長い歴史とともに。

 

 

府中の森公園と旧米軍府中基地

 

今回私が歩いたのは「府中市郷土の森公園」ですが、間違って府中の森公園を検索してしまったら、思わぬ歴史を知りました。

旧米軍府中基地の跡地利用の一つ。公園敷地内に府中市美術館があり、府中の森芸術劇場と府中の森市民聖苑が隣接している。道路を挟んで東隣りに航空自衛隊府中基地がある。 

Wikipedia府中の森公園」「概要」)

 

京王線の北側にも広大な公園があり、それがこの「府中の森公園」の方です。

地図でこの辺りを眺めていた時に、航空自衛隊があることにも気づきました。

府中刑務所から東に1kmぐらいのところでしょうか。

 

「沿革」を読むと、40年ほど前のようです。

1982年12月16日、米軍府中基地跡地(現在の浅間町一丁目の全域)を3分割して利用することが決定され、北側の3分の1は大蔵省(限・財務省)が、南西の3分の1は地方自治体(東京都)が、そして南東の3分の位置は防衛庁(現・防衛省)が利用することとなった。 

 

1982年、すでに都内で社会人として働き始めていた時期ですが、全く記憶にありません。

 

砂川闘争と同じく、言葉は知っているけれど、その歴史の詳細や地域の生活の変化についてはほとんど知らないことばかりです。

またやり残した宿題が出てきました。

 

 

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散歩をする 310 府中本町から府中市郷土の森公園へ

まだ書き終わっていない6月初旬の、絶対に都県境を越えない散歩の続きです。

 

武蔵野台から是政までの立川崖線の水の豊かさを見たら、散歩の計画ノートに書いたままになっていた府中の森公園あたりを歩きたくなりました。

多摩川沿いに広い公園があり、地図では西側に水路と池が描かれています。その水路は府中用水の分水路なのか、それともこの辺りが谷津の地形で湧水なのか見てみたくなりました。公園内には府中郷土の森博物館もあります。今回は、時間に余裕を持って園内を散策しようと出かけました。

 

府中本町駅から府中の森公園へ*

 

JR武蔵野線府中本町駅で下車しました。今まで乗り換えで降りたことはありますが、駅の東側が小高い場所であることに初めて気づきました。駅入り口も高い場所にあって、府中の平らな土地というイメージとは全く違っていました。

 

線路沿いに歩くと矢崎町防災公園という大きな公園があり、災害時の飲料水・防火用水のための耐震貯水槽がその下にあることが書かれていました。

そこから少し下がって、中央自動車道を越えると、サントリーのビール工場がありました。

新型コロナの時代でなかったら工場見学や試飲で自由に入れたのではないかと思うと、ほんと残念。でも飲んだら、ここで散歩はやめようと思ってしまったかもしれませんね。

 

ビール工場の東側の道路は歩道より一段下にあり、歩道はおそらく用水路を暗渠にしたものだろうと見当をつけながら歩きました。

御茶屋街道」の説明標がありました。

御茶屋街道(おちゃやかいどう)は、このみちが府中御殿(本町)の茶の湯の水を多摩川より運ぶ道だったことに由来します。府中御殿は正保三年(一六四六)の大火で焼失しています。

崖線からの美味しい湧水がありそうなのに、多摩川の水を運んでいた時代があったのですね。

 

反対側には、以前は水田だっただろうと思う場所に畑が ありました。正面は多摩川の堤防です。その少し手前を右に曲がると、府中市郷土の森公園があります。

 

府中市郷土の森公園と博物館*

 

総合体育館の前を歩くと大きな池があり、蓮が大きな葉を広げ、蕾が数本見えました。

花蓮の花容(開花する様子)」という大きな説明板がありました。

「花容」という専門用語があるのですね。

昨年は2回目の緊急事態宣言の影響で、潟町駅前の花の終わった蓮の池 を見たぐらいでしたから、今年はぜひ蓮を見に行きたいものです。

 

道路をはさんで、府中市郷土の森博物館の敷地が広がっています。

鬱蒼とした森の中に、保存された建物や町並み、そして小さな水の流れを中心に植物園のような場所がありました。

水路は湧水ではなく、汲み上げた水を流しているようです。

 

*用水路をたどる*

 

博物館の敷地を出て、北側の道を森に沿って歩き、地図で描かれている水路を目指しました。

特別養護老人ホームの前の道は暗渠の上が遊歩道になっているようです。北西から流れてくる用水路は水量が多いもので、住宅とまだまだ残っている畑の間を通っていました。

 

用水路と離れたり近づいたりしながら沿って歩きました。小さな分水路が家の前に開渠として残っている場所が、まだ結構ありました。しばらく歩くと「府中南町二号水源」の施設がありました。

 

下河原通りと用水路が交差するあたりでは、ヘラ鮒釣センターがありました。

この辺りは、沼や池か水田だったのでしょう。 

南部小学校の近くに公園があり、そこにも北西からの用水路が流れているようです。

「新田川緑道」とありました。「しんでん」でしょうか「にった」でしょうか、おそらく「しんでん」ですね。

この緑道が、先ほどの府中市郷土の森公園のあたりまで続いているようです。

周囲の家の雰囲気から、おそらくこの30年40年で徐々に宅地化されたのだろうと想像しました。

 

ここから京王線中川原駅を目指したのですが、航空写真で溜池のように見える場所があり、そこを目指しました。

農地や蛇行した水路があった場所に住宅が立ち並んでいるためか、行き止まりの場所も多く、GPSをつけて道に迷いながら着いた場所は公園でした。

おそらく、ここも以前は沼だったのだろうと想像しました。

 

府中本町のあたりは、1960年代から70年代初めの頃の、府中街道沿いにキャベツ畑が広がる、刑務所だけの場所の記憶しかないのですが、いつの間にこんな賑やかな川沿いの街になったのでしょう。

ちょっと浦島太郎の気分になりながら、帰路につきました。

 

 

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記録のあれこれ 99 ブログのカテゴリー

離乳するための食事に、めったんさんが、こんなコメントをくださいました。ありがとうございます。

過去の記事も読み漁っているのですが、見落としている記事が結構あるようで、もし可能でしたらで結構なのですがブログにカテゴリーを表示していただけないでしょうか。 

 

 

*以前はタグ(カテゴリー)を作っていた*

 

2012年にはてなダイアリーでブログを始めたのですが、2018年12月にはてなブログへと移行しました。内容自体は心機一転というわけでもなく続けているのですが、この時にカテゴリーを変更しました。

 はてなダイアリーでブログを始めた頃は、一応カテゴリーを作っていました。「代替療法」「医療」「周産期関係」「言葉の意味」「看護の本質」、そして「助産師の世界」とか。

 

「カテゴリー」というのははてなブログの説明では、「カテゴリーをつけると、自分のブログ内の記事を分類できます」というものです。

最初、自分の仕事に関係した内容を書くのに個人的体験単に基づくエビデンスレベルの低いつぶやきだったり、うんちくだったり、あるいは自慢話のたぐいだと思って読んでいただければと思って、「水の中」というタグ(カテゴリー)も作りました。

ところが結局、すべての記事に「水の中」というタグをつけることになりました。

まあ、ブログなんてそんなものですよね。

 

ということで、はてなブログへ移行する時に「水の中」のタグはやめ、「植物」「泳ぐ」のタグだけ残しました。

 

 

そんな経緯を含めて、めったんさんへのお返事を書きました。

きっと検索してブログにたどり着かれた方は、「赤ちゃんをどう世話をしたらいいのか」「授乳をどうしたらいいのか」という答えが欲しいのだろうなと思います。

 

ブログを始めた当時、「こうしたらいいよ」というアドバイスはできるだけ書かないようにしようと思いました。

20年前30年前だったら、自分の経験からの方法論を得々とブログに書いただろうと思うのですが、私自身、新生児についてわかっていないことがほとんどで無責任なことは書けないという気持ちになったのがブログを始めたきっかけでした。

最初は「新生児」というタグでそういう記事を分類していたのですが、だんだんと収まり切らなくなっていまのように一つのタイトルで通し番号をつけるスタイルに落ち着きました。

 

そしてその「新生児」のタグについては、「水の中」のタグの記事にこんなことを書きました。

新生児についても、現時点でわかっていることはほんのわずかだと言えます、

新生児のことは新生児に学べ。

新生児を観察して考えたことを伝えたいと思うようになりました。

「母乳」とか「授乳」「育児」のタグは作らないつもりです。全て「新生児」のタグで、そういう話題も考えていこうと思っています。 

 結局、「新生児」のタグも今は使っていません。

 

 

 *記録し分類すること*

 

そういえば以前、「記録し分類する」という記事を書いたことを思い出しました。

 

ああ、これこれ、こんなことをめったんさんへ返信したかったのでした。

分類以前に、何が事実であり何を記録するのかというあたりの試行錯誤が、最も難しい部分だったのではないかと勝手に想像しています。 

 

途中からタイトルをカード化して管理していますが、そのタイトルも100近くになり、とても欄外に表示するわけにも行きません。

はてなにも「記事一覧」の機能がついているのですが、パソコンだけでは網羅できない何かを感じてアナログの世界に戻っています。

 

 

分類って難しいですね。

「分類とは」というタイトルができてしまいそうです。

 

 

ということで、どんな記事があるのかわかりにくいのですが、私自身、これからどんな方向へとこのブログの整理方法が変化するのか想像がつきません。

今は、「事実」を「記録する」あたりを試行錯誤しているところです。

 

 

 

 

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水の神様を訪ねる 39 瀧神社、湧水で馬を洗う

なんとなく蛇行する道から崖線だろうと見当をつけた散歩でしたが、その途中にある神社をつなぎながら計画を立てていた時に、瀧神社を検索したらなんと湧水があることと、馬に関係があることを知りました。

 

たしかに競馬場の近くにありますが、地図では水色の湧水や水路は描かれていません。

 

府中観光協会の説明を読んだら、絶対にここを訪ねようと思いました。

大國魂神社末社で、ハケの道が途切れる東京競馬場の手前にあります。正面にある御神木である大きなけやきの木は、府中の木百選に選ばれています。くらやみ祭りの競馬式(5月3日)の前に、ここの湧水で馬と騎手が身体を洗い清めたとされています。かつてハケ沿いにはあちらこちらに湧水があり、人々の生活に欠かせないものでしたが、現在この湧水はフェンスで囲まれ飲むことはできません。 

 

馬を見るのは父の影響で好きなのですが、賭け事はダメというこれまた父の教えの影響で競馬に関心を持たないようにしていました。

ところが数年前に観た競馬のスターターの仕事についての番組と、同じ頃から父の記憶をたどって歩くようになって馬の博物館を訪ねた時に、戸山の陸軍士官学校にも競馬場があったことを知ってから、私のタブーはなくなりました。

競馬中継の美しい馬の走りを、時々観ています。

 

その馬を洗うための湧水と神社ですから、これは行かなければと思いました。

 

神社への道はハケの途中の道から下り坂になっていました。鬱蒼とした木々が両側にあります。

水音が近づいてきました。

水量は少ないのですが、崖から水が落ちています。

 

お滝のゆわれ

 

この滝は大國魂神社末社である、滝神社の「お滝」と古くから呼ばれ水道が施設される以前は渇水期でもその水が絶えたことが無い為、多くの人が五月の大祭には三日の夕刻大祭に参加する。神職、神人、神馬がこの滝で身体を清める由緒ある神聖な滝です。

又、府中市内で立川段丘のハケから水の湧く二ヶ所の内の一つで「清水ヶ丘」の町名もこの滝によるもので、大へん貴重な滝です。

お互いに汚さず大切にしましょう。

説明文では「滝神社」ですが、大國魂神社のHPでも現在は瀧神社のようです。

 

ここで馬が洗われている風景を見たいものです。

「立川段丘のハケから水の湧く」、この一言に出会っただけでも心が震えたのでした。

 

 

ここから府中の森の近くまでの道すがら、「六地蔵由来」とか「府中伝説の道」の説明碑や、あの石清水八幡宮から分霊された神社がありました。

この湧水が、現在の競馬場の近くに残る水田や田畑を潤し、この辺りのハケ下の集落が続いてきた歴史はどんな感じだったのでしょう。

 

 

平日の日中でしたが、若い方がここでも参拝していました。

 

 

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散歩をする 309 武蔵野台から是政へ

6月20日で3回目の緊急事態宣言が終わりましたが、都県境を越えない散歩の記録がまだ続きます。

 

布田崖線を歩いた時に、多摩川由来の崖線の保全運動を知りました。

地図を見ていたら、武蔵野台地の上と下の生活の違いの痕跡がありそうな場所が見えてきました。

 

今回はその名も「武蔵野台駅」からのスタートです。

京王線で何度も通過しているのに、「畑が車窓から見えた」くらいしか記憶にありません。

6月初旬、駅前にやはり畑が残っていて、トウモロコシの穂が出始めていました。

 

ここから東府中駅のあたりまで、南側に蛇行した道が地図にあり、崖線だろうと見当がつきました。ここを道なりに歩いてみよう。やや行き当たりばったりの散歩です。

そして途中、西武多摩川線と交差するあたりに、線路に沿って水路が描かれています。

崖線からの湧水があるかもしれません。

 

*崖線に沿って歩く*

 

駅前には竹やぶに囲まれた屋敷が見えました。もうこれだけでも来た甲斐がありました。新宿からわずか30分ほどの場所です。

1990年代ごろまでは、都内23区でもこんな場所がけっこう残っていました。

 

崖線に向かう道にも、屋敷林に囲まれた農家があります。おそらく、江戸時代ごろからの農家で、屋敷は崖線の上にあって田畑は崖線の下にもあったのではないか、そんなことを妄想しながら歩くとすぐに崖線に突き当たりました。

 

地図ではその段差はわからないのですが、低い場所に畑や団地が見えました。

枇杷の実があちこちにあり、どこからともなくユリの香りが漂ってきます。

 

一段下に畑が広がり、それを見ながら蛇行した道を歩いているだけで大満足の散歩です。

しばらく歩くと小さな交差点があり、崖下へ行く道に沿った敷地には石積みの土台が残っていました。

 

崖線の中程ぐらいへと下り坂を歩いていると西武多摩川線の線路が見えてきました。

踏切の少し手前を下り、地図で水路が始まっている佼成幼稚園と車返変電所あたりに行ってみました。湧水があるかと大いに期待したのですが、畑と小さな水路跡らしき場所があるだけでした。

また元の道に戻り、西武多摩川線を渡り、線路の方を振り返って見ると線路沿いの電柱に「羽毛下堀用水函渠」と表示があり、線路の下に石かレンガで作られた小さなトンネルがありました。水路がどのように通っているのか見えなかったのですが、羽毛下という言葉に出会っただけで、この散歩の計画がけっこういい線をいっていると満足したのでした。

 

キャベツ畑を見ながら崖線の中腹のあたりを歩くと、崖側に立っているアパートは2階部分が道に面しています。

しばらく歩くと、9中通りという南北に通る道路の上にきました。

滄浪泉園の横を通る貫井トンネルと同様に、武蔵野台地の上側から崖の中をトンネルで道が通っているようです。

現代ではなんでもないこの崖の上と下の段差ですが、昔は手堀で切り通しの道を造るか、かなり迂回しなければ越えられなかった境界線だったのでしょうか。

 

 

9中通りを越えると大きな東郷寺が崖の上にありました。その敷地の崖下が遊歩道になっていて、お寺の敷地の大木の森を見上げながら歩くと、清水が丘公園につきました。

藤棚の木陰に椅子があったので座ってふと見上げると、インゲンのようなモロッコインゲンのような豆がぶら下がっていました。初めて藤の実を見ました。

 

そこからはなだらかな下り坂を降りて行くと、途中に瀧神社があり、湧き水がありました。

 

府中競馬場のそばを通って多摩川へ近づくと、「ハケ下」の風景の名残りでしょうか、あちこちに水田と畑が残っています。

 

そこから西へ向かうと南武線の線路に向かって水路があるようです。近づくと「村雨川」で、結構な水が流れていて、農業用の水路かもしれません。

南武線を越えて、府中の森を目指して歩くと、歩道の下から轟々と水音が聞こえてきます。

地図には描かれていないのですが、どこからか水が集められ、先ほどの村雨川に合流しているようでした。

歩いてみないとわからない、ハケ下の水の豊かさだと思いながら、府中の森の手前で多摩川の堤防沿いに引き返して、是政駅を目指しました。

 

対岸は、上谷戸親水公園を訪ねるときに降りた南武線南多摩駅がありますが、こちらから見て初めて山を切り崩した場所だったことがわかりました。

 

子どもの頃から馴染み深い西武線ですが、なぜ飛び地のようにこの多摩川線があるのだろうと調べた時に、この辺りに砂利採掘場があったことを知りました。

 

 

帰路は、是政駅から武蔵境行きの西武多摩川線に乗りました。都市の風景の中に畑が残る風景の中、少しずつ電車は登って行き、白糸台のあたりで切り通しの中を武蔵野台地へと登り、多磨霊園と野川を越えました。

 

ハケ上からハケ下、そしてハケ上への散歩が終わりました。

 

 

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鵺(ぬえ)のような 3 観測気球

一転して酒類の販売を中止するニュースを追っていたら、その前に会場でアルコールを販売するというニュースが「観測気球」だったと書かれている記事を目にしました。どの記事だったのか、見つからないのですが。

 

「観測気球」

私がこの表現を耳にするようになったのは、ここ1~2年です。

何の件だったのか思い出せないのですが、政府が決定事項を発表すると反対意見が集まって、わずか数日後には一転して中止になりました。

一見、民主的な方法なのかもしれませんが、なんだか違うなあと感じて社会の反応の一部としてのtwitterをちょっと覗かせてもらいました。その時に、「観測気球」という言葉があり、なるほどそういうことなのかと、初めてその仕組みというか裏側を知ったのでした。

 

観測気球と聞くと本当の気球しか思い浮かばなかった私は、なんと社会のことを知らなかったのでしょうか。

 世論や相手の反応などを探るために、わざと流す情報や声明

デジタル大辞泉

 

こういう手法が有効な場合もあるかもしれません。

 

 

ところが未曾有の感染症が拡大し続けているこの時期に、こうした手法はますます混乱をもたらすのではないかと感じました。

 例えばマスクひとつとっても非常時には最初の基本的な知識が肝心で、そこがうやむやになると、「食事中の会話はマスクをして」という話が「あごマスク推奨」の話になってしまいます。あごマスクは医療の中の清潔・不潔では「やってはいけない」ことなのに、一旦ニュースで広がると、それを訂正するのは大変ですね。

 

twitterが広がりだして10年ちょっとですが、たとえば何かのニュースや話題をテレビで報道しているのを観ても、「あ、これはネットで知っている」ということが増えました。

災害時の状況をその場にいる人が動画で知らせるなんて、少し前までは考えたこともない報道の方法でした。

最近では「炎上」したり「SNSで話題の」といったことからニュースが作られているのを見ると、危ないなあと感じます。

 

とりわけ今のような非常時に、言葉の意味だけでなく、あらゆるリスクまで思い浮かべられる専門家の大事な見解を、人の好みや理想で言ったもの勝ちの風潮にしてしまうのではないかと危惧しますね。

 

観測気球をあげてそれに反応する人は誰なのか。

観測気球に頼っていると、現実の解決方法を積み上げてきたものが壊され、シュールな世界が広がって足元をすくわれることになるのではないか。

やはり危なっかしい方法だと、今回の件でも猜疑心の方が残りました。

 

 

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シュールな光景 21 「五輪会場での酒類の販売や提供一転して見送る」

東京五輪会場での酒類の販売や提供一転して見送る方向で調整」(2021年6月22日、NHK NEWS WEB)ということになって、まずはほっとしました。

有観客やパブリックビューも「人流の抑制」とはつじつまが合わないのですが、会場での「酒類の提供」なんてもう理解できないレベルの話に感じました。

 

オリンピックに対するモヤモヤというのは、「オリンピックそのものの是非」と「スポーツ大会を安全に開催する」ことがごちゃごちゃになって、「オリンピックもスポーツも嫌い」のに押されてしまうのではないかというあたりでした。

 

昨年から国内大会さえも中止になりましたが、徐々に無観客での国内大会や国際大会が試行錯誤されてきました。

本当なら今年は世界水泳福岡大会の年で、絶対に観に行きたいと思っていました。何と言っても私が競泳に関心を持ちだしたのが、2001年の福岡大会のイアンソープ選手の泳ぎがきっかけでしたから。

 

2004年に初めて競泳会場で観戦してから、「状況が変化しても目の前のことに集中する」、それがこの十数年で競泳観戦から得たものです。

オリンピック代表になった選手の方々はもちろん、次の代表を目指している選手の皆さんも、見通しの立たない中でどうやって、競技のピークを合わせるのか。競泳なら百分の一秒を合わせることですからね。

 

競泳会場では、ここ数年で受動喫煙への対策も取られるようになりましたし、試合後のインタビューも、感動を引き出そうとするのではなく、選手の目標に沿った内容で安心して聞くことができるように変化してきた印象です。

 

そんな競泳会場の雰囲気を懐かしく思い出したのですが、そういえばお酒が好きでも、競泳会場の観客席で飲みたいと思ったことはなかったと、このニュースを聞きながら思いました。

いつも、家に帰るまでじんわりと感動しながら帰路についていました。

スポーツ観戦しながら、酒を飲み大声を上げるとか興奮するというのは私の好みではなくて、これは気持ちの問題ですけれど。

 

それにしてもこの一年半ほど、「飲食を伴う機会にマスクを外して会話するリスク」が言われてきて、それがこの感染症を制御するのに最も大事なことだったのですけれど。

そしてそれができれば、飲食店の経営ももう少し違う方法で守れたはずなのですけれど、なんだかシュールな世界だなあと思いました。

 

 

スポーツと運動もどんどんと変化していますが、世界的な感染症拡大という非常時に開催したことで、今後オリンピックの意義そのものが問われる大会になるのでしょうか。

 

 

 

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水のあれこれ 179 立川、富士見緑地の湧水

昭和用水が残堀川に合流する場所から150mほど上流側に、地図ではもう一本、東西に流れる水路が描かれています。

その上が崖線を利用した貯水地のようで、国立昭和記念公園内から流れてきた残堀川がそこでくの字に曲がって流れを変えています。

 

そのもう一本の水路は排水専用でしょうか、空堀でした。たどって歩くと、保健所の肥飼料検査センターの前を通り、東京都農林総合研究センターの試験場でしょうか、広い農地に出ました。

その向こうに立川崖線が見えます。

 

立川崖線の上に出るために、崖線に沿って弧を描くような道があるようです。

地図ではその道沿いに、農林総合研究センターの敷地内に池のような場所が描かれているので湧水を見ることができるかもしれないと期待しました。

 

立川市歴史民俗資料館をすぎると、そのあたりから上り坂になりました。

残念ながら農林研究センターは柵で囲まれているので中には入れなさそうです。

ところが、崖線に沿って小さな公園があり、なんと崖からの湧水がそのまま見ることができるようになっていました。

 

 

立川市富士見緑地」「平成13年3月 立川市環境部公園緑地課」という説明板がありました。

 本緑地は、多摩川とほぼ平行に繋がる立川崖線の一部として、立川市西部、昭島市との市今境に近い場所に位置しています。

 整備に当たりましては、立川崖線本来の植生に回復させるための「立川崖線の植生の保全と育成」また、湧水を活用することによる、豊かな水辺の生物環境の創出「湧水の保全と活用」、立川崖線の中を巡る園路の設定「新しい動線の設定」等を基本にいたしました。 

 

これもまた多摩川古来の崖線の緑を保存するための活動の一環でしょうか。

人知れず、こうした場所を守るために働いてくださる方々もまた地の塩のようですね。

 

雑木林を風が抜けていく音と水の音に、しばしそこに座って聞き入っていました。

 

地図にも載っていない湧水に出会えてその歴史を知ることができることは、ほんと、散歩の醍醐味です。

 

 

 

 

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水のあれこれ 178 昭和用水と残堀川

郷地町の崖線側の水路から多摩川へと近づくと、幅3mほどでしょうか、昭和用水の水路がありました。

近づくと、ここにも大きな鯉がいたのですが、流れが早いのか時々押し戻されています。

反対側は、水田だったのだろうと思われる一段低い空き地があったり、小さな水門も残っていました。いつ頃まで、この辺りには水田が広がっていたのでしょう。

もしかしたら「昭島の水は美味しい」と耳にした1990年代なら、まだまだ田畑が残っていたのかもしれません。

 

しばらく歩くと、水路は一旦、住宅の間へと消えました。迂回して再び水路沿いに歩けるようになったのは、新奥多摩街道沿いに富士見町団地が始まる辺りからでした。

水路の両脇には木が植えられていて、まるで玉川上水のような趣です。

車道からは水路の気配がわからなくて、団地との境に並木があるようにしか見えないかもしれません。

水路は団地の中を突っ切って、途中、公園になり、また住宅街の間へと消えていきました。

富士見町団地は1968年(昭和43年)にできたようですから、当時はこの辺りは多摩川沿いの水田地帯で、この団地もまたコンクリートの防水堤のような雰囲気だったのでしょうか。

 

立川市立第八中学校沿いに水路が続き、最後は残堀川へと合流していました。

あの瀬切れを起こして水無川の部分もある残堀川とは思えないほど、水量が多く、周囲は木が鬱蒼として遊歩道も整備されていました。

対岸は立川崖線で小高く、昭和用水との合流部のすぐ上流側で屈曲した場所に貯水地が造られているようです。

このあたりが、Wikipediaの残堀川の歴史に書かれている「富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川(立川市)に注いでいた」とある箇所のようです。

以前は、立川市は平地のイメージでしたが、立川崖線を知らなかったからでした。

 

 

*昭和用水の歴史*

 

「昭和」用水というくらいなので、昭和に造られたものかと思ったら、もっと歴史は古いようです。

「知っていますか 東京の農業用水」(東京都産業労働局農林水産部)に詳しく説明があります。

昭和用水の概要 

 多摩川にある昭和用水堰を取水口とする昭和用水は、かつては九ヶ村(現在の昭島市立川市となっている拝島、田中、お拝み、宮沢、中神、築地、福島、郷地、柴崎)をかんがいしていたことから九ヶ村用水(立川堀)と呼ばれていました。

 九ヶ村用水の成立は比較的古く、室町時代に用水路の原形が作られ、延宝元年〜8年(1673〜80年)頃の江戸時代には完成したと言われています。

 用水の延長は約8kmで、熊川村(現在の福生市)で取水された多摩川の水は拝島村の圦樋(いりひ)から引き入れられ、九ヶ村の田畑をかんがいし、柴崎村(現在の立川市)で多摩川に戻っていました。

 

用水が流れる地域の概要 

 本地域は多摩川中流域に位置し、武蔵野台地の境目である立川崖線と多摩川に挟まれた、東西方向に細長く近郊農家の水田や畑作地が広がる地域です。

 また、昭和用水堰付近は川の水もきれいで、河川敷には草木が生い茂り野鳥や昆虫も多く生息しており、釣りやバードウォッチングを楽しむ人の憩いの場にもなっています。

 

昭和用水の歴史 

  昭和初期に多摩川の水量が減って、九ヶ村用水の取水口では十分に取水できなくなったことから、昭和8年(1933年)に現在の位置に木製の昭和用水堰が設置され、昭和30年(1956年)にはコンクリート堰として改築されました。

 この取水地点は多摩川と秋川の合流点にあり、両方の河川から水を取り入れており、この水は用水として現在でも地域の田畑を潤しています。

 また、平成12年(2000年)には、昭和用水堰に新しい魚道が完成しました。

 

現在の昭和用水 

  室町時代から農業用水として利用されてきた昭和用水も、宅地化などにより田畑が激減したため、本来のかんがい機能が薄れてきました。

 しかし、親水緑道が整備され、地域住民の憩いの場を提供しており、また市民団体である「ホタルの会」により、水路の保全活動も盛んに行われています。

 

訪ねた時には残念ながら、残っている水田もまだ田植えには早かったのですが、水の音を聞きながら歩くことができました。

室町時代からのこのあたりの風景の変化は、どんな感じだったのでしょうか。

 

 

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