散歩をする 314 いよいよ佐賀へ

小倉駅を出るとまたトンネルに入り、帰宅してから航空写真で確認すると山からひょこりと北九州都市高速4号線の脇に出るようですが、新幹線のトンネル口のすぐそばに人家があります。なんだかすごい構造がいつの間にかつくられていることに、またまた浦島太郎の気分です。

 

遠賀川と水田地帯*

 

そこを抜けると池の上を通過し、開けた場所に水田が広がり始め、城址らしい場所を通過しました。劔岳城址のようです。

家々もお城のような日本家屋で、水田地帯の風景と合って落ち着いた美しい街です。この辺りも、田植えが終わったばかりのようでした。

 

じきに大きな川を超えました。事前に遠賀川だと予習していました。「おんががわ」とすぐ読めるのは、毎年九州で大雨の時期になると耳にする河川だったからでしょうか。

地図では新幹線が通っているあたりに溜池やダムが散在し、そしていくつもの川が合流しています。この辺りの水との歴史や生活はどんな感じでしょうか。

 

遠賀川下流から河口付近をみると放水路に見えますし、近くに「水巻」という地名もあるので水害対策が思いついたのですが、Wikipedia遠賀川の「地理」を読むと、また少し違う歴史なのかもしれません。

明治時代から昭和30年代にかけ、石炭が主力エネルギーであった時代には、筑豊地方のいたるところに炭鉱が見られ、一時期遠賀川がその運搬路として活躍した。

1960年代終わりごろに通った小学校では石炭ストーブだったのですが、あの石炭はどこから来たものだったのでしょう。

 

筑豊炭田の産炭地として発展していた昭和30年代まで川の水質は大きく損なわれていたが、エネルギー革命による炭鉱閉山や下水道普及により現在水質は大きく改善されている。 

「鮭が遡上する国内の南限」の川だそうです。

 

新幹線の車窓から見えた遠賀川流域がきれいになり始めた頃の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。ぜひ、いつか歩いてみたいものです。

 

ふたたび長いトンネルに入り、地図で確認すると犬鳴山で、なんとダムの下を山陽新幹線は走っているようです。

そこを抜けると、博多駅に到着しました。

 

長崎本線に乗り換えて神埼へ*

 

博多駅から佐賀へ向かうのには、まだ乗ったことのない九州新幹線に乗るという方法もあったのですが、地図を眺めているうちに、より川に近い場所を通る長崎本線で向かうことにしました。

「特急かもめ」は、とてもおしゃれな車体と内装でした。

川がよく見えるように、指定席をとってありました。

 

博多駅を出てしばらくは博多湾へと流れ込む御笠川に沿って走り、天拝山駅あたりが分水嶺で、そのあたりからは有明海に流れこむ筑後川の支流宝満川沿いになるようです。車窓からではその差はわからないだろうと思ったのですが、少し小高い場所を境に流れが変わったように見えました。

 

鳥栖駅のあたりでは、その宝満川に何本もの川や水路が流れ込み水田地帯がありますが、佐賀のようなクリークは地図にはありません。どこからが干拓の歴史の境界線なのかなと考えているうちに、目的の神埼(かんざき)駅に到着しました。

 

せっかく来たので、その一つ手前の吉野ケ里公園にも行ってみたかったのですが、2泊3日では時間が足りませんでした。

 

神埼駅周辺は水田や水路に囲まれています。

ただ、航空写真では特徴的なそのクリークも、地上での目線だと普通の水田地帯とあまり変わりありません。友人宅に泊まらせてもらった時に気づかなかったのも、こんな風景だったからでした。

 

いよいよ、念願の佐賀のクリークを散歩します。

駅から少し歩くと、水路が住宅の中に残っています。目指す場所まで歩いて十数分ぐらいでしょうか。

梅雨の合間の30度越えの日差しの中、意気揚々と歩き始めました。

 

 

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散歩をする 313 山陽新幹線に乗る

昨年2月に広島・岡山を訪ねた時は、芸備線で広島へ行き、広島からは呉線山陽本線を乗り継いだので、結局、今まで山陽新幹線には何度乗っても岡山駅まででした。

初めての岡山から博多まで新幹線の車窓の風景です。

 

在来線と並走する区間はごくわずかで、ほとんどが違うルートであることは、以前から地図を見てイメージしていましたが、今回、計画する段階でじっくり見ていたらもしかしてほとんどがトンネルなのではないかと思える場所でした。

線路が直線に描かれている場所が多いのは、そのためかもしれません。

 

*初めて山陽新幹線に乗って50年ひとむかし*

 

初めて岡山まで新幹線で行った時の記憶があります。中学生の時で、初めての山陽新幹線だけでなく、初めての一人旅でした。岡山駅まで伯父伯母が迎えにきてくれたので、新幹線の中だけの一人旅でしたが。

乗り換えを間違えないようにとか緊張していたのか、数時間ほど電車の中にいることが退屈に感じていたのか、車窓の風景は記憶に全くありません。

 

山陽新幹線の「概要」に1972年(昭和47年)に新大阪岡山駅間が開業、1975年(昭和50年)に岡山駅博多駅が開業とありますが、私が乗ったのは開業して1~2年の頃だったようですが、こだまの停車駅から乗り、途中でひかりに乗り換えて5時間近くかかったような記憶がおぼろげながらあります。

 

1990年代にのぞみで岡山まで4時間で行けたことに「速くなった」と感動したのですが、現在では品川から岡山駅まで3時間5分、博多までは4時間46分です。

ほんとうに旅にかかる時間驚異的に短くなった半世紀だと思い返しています。

 

 

山陽新幹線とトンネル*

 

今回特に楽しみにしていたのは関門海峡の海底トンネルの前後の海の風景でした。どのあたりからトンネルに入って、どの辺りで出るのだろうと思い航空写真に切り替えて地図を見たところ、新下関駅を出るとじきに本当にすぐに地下に入り、そのまま海底トンネルから門司港の東側を弧を描いて地下を走り、山の地下を通っています。

 

普通なら山が終わるとトンネルが終わって線路が見えるのに、どこまでも線路が見えません。

なんと、小倉駅手前の住宅地の駐車場のそばでトンネル部分が終わり、ひょっこりと線路が現れていました。

都内でも、こうした地下部分から住宅街に忽然と線路が出る場所はあるのですが、新幹線ですからね。意表をつく構造でした。

 

東海道新幹線が開業した60年代はまだ田畑の中が多かったのでしょうが、 その後、海岸線の狭い平地は工場地帯や住宅の開発もあって、トンネル技術の向上だけでなく用地を得るのも大変だったのかもしれないと想像したのですが、Wikipediaの「山陽新幹線」の「沿線概況」にそのようなことが書かれていました。

前述のように緩やかな線形を採用したことや、平野部での住宅密集化によって用地取得が困難なこともあり、東海道新幹線より、トンネルが多くなっている。大小142本のトンネルが存在し、トンネル区間がしめる割合は50.8%、岡山以西に限定すると実に56.4%にのぼる(トンネルがない区間西明石駅ー姫路間のみ)。

 

あまり車窓の風景は期待できないのかなと思ったのですが、トンネルを出るたびに風景が変化し、家々の造りや瓦の色が変化し、そして用水路や川や水田が美しい風景に目を離せませんでした。そしてトンネルがあるおかげで、メモをする時間ができました。

水田以外のメモはこんなことを書いていました。

小田川、堤防、貯水池

三原、奥、採石場

三永水源地

太田川放水路、広島を出てまたずっとトンネル

徳山、干拓地?海!工場地帯

瓦、赤

切畑、新山口までの風景、美しい!

新山口駅、操車場

切り通しとトンネル

海底に下がる、前のめり

あっという間に門司を過ぎて3分で小倉に到着の放送 

 

トンネルが多い路線ですが、2016年12月22日全線で携帯電話が通信可能になったそうです。

ずっとGPSをオンにして地図を追いながら乗っていましたが、どのトンネルも途切れることもなく、iPhoneのメモがごっそり消えることもありませんでした。

ただ、さすがに海底トンネルの途中では、GPSが追いつかずに止まっていましたが。

 

小倉駅手前で地上に出るあたりはどんな感じだろうと見逃さないようにしていたのですが、あっけないほどふわりと地上に出ました。

そして目の前に大きな茶色の製鉄工場がそびえるように建つ風景に、また息をのみました。40年ほど前に教科書で見た八幡製鉄所とつながりました。

 

明治時代から現代へちょっと不思議な感覚に陥りながら、九州に到着したのだと実感しました。

 

あと十数分で、山陽新幹線の終点の博多駅に到着します。

あっという間の4時間46分で、退屈するどころか、また見てみたい訪ねてみたいと思う場所が増えました。

ほんと、車窓の風景は楽しいですね。

 

 

 

*訂正*

最初は「初めて山陽新幹線に乗って40年ひとむかし」と書いたのですが、半世紀過ぎていましたので訂正しました。(2022年4月13日)

 

 

 

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米のあれこれ 24 田植え直後の水田の風景

都県境を越えない散歩から、待ちに待った2ヶ月ぶりの新幹線の散歩です。あの西大井駅から御嶽山駅までの道も、一度歩くと車窓の風景の中でもぐっと浮かび上がるように見えてきます。

品川駅から多摩川までは5分で通過することも、今回初めてわかりました。速いですね、新幹線は。

新幹線内の公衆電話サービスが6月末で終了になるというアナウンスがありました。

 

新横浜を過ぎてじきに旭区に入ると、もう水田が見え始めます。

今回の遠出は、水田の風景を見ることが目的の一つでした。

 

2019年5月中旬に、初めて東北の川や海を見に訪ねたときに、田植えの時期がグラデーションを描くように異なる風景が印象に残りました。

高校生まで過ごした地域では4月下旬から5月初めにはすっかり終わっている田植えですが、東北では5月中旬ではようやく代掻きが終わってこれから水を張るという水田もありました。

その少し後に新潟を訪ねたときには、大宮を過ぎたあたりでは6月初旬に田植えをしている風景を見て、さらに遅い時期に田植えをする地域があるのだと知りました。

 

あの時に「来年はあちこちの田植えの風景を見に行こう」と楽しみにしていたのですが、想像もしていない新型コロナウイルス感染拡大で、昨年は残念ながら田植えの時期の風景を見逃したのでした。

今年こそはと思っていたのですが、3回目の緊急事態宣言となりました。そこで、都内の田んぼを見に行きましたが、まだ時期が早過ぎたようです。

 

今回の遠出は6月下旬ですからさすがに全国どこも田植えは終わって、青々とした水田の風景になっていることでしょう。水田と用水路の風景を見ることができるだけでも幸せと思って出かけました。

 

ところが旭区の水田は、田植え直後のあの頼りなさそうな稲がほやほやと水田に植わっている風景でした。

これは、まだ諦めるのは早そうです。

 

ジオラマのような車窓の風景が次々と変化する新幹線の窓からは、今まで遠出の散歩で訪ねるときに見た風景がまた違って見えました。

 

息をのむような風景をまばたきを惜しんで眺める合間に、水田についてメモが追いついたものを記録しておこうと思います。自分でも何を書きとどめたかったのか、すでに記憶があやふやになっているのですけれど。

田んぼ! 富士山、畦道散歩

南アルプス、残雪、富士市、田毎の富士

天竜川左岸、水田

豊川右岸、水田、幸田

三河安城、名古屋間、代掻きの水田がまだ多い

愛知用水

米原手前、水田、高宮

山崎、高槻、田植え直後

明石、溜池、水田

相生の先、代掻きが終わったばかり

岡山、美しい!これから田植え

防府の上流、山と川、水田、中国画

厚東、谷戸、赤瓦、美しい

小月、川、

小さな溜池、水田

新下関まで水田、美しい、向こうは日本海

遠賀川、手前に城?、美しい水田、城のような家

竹原古墳のあたり美しい!

 

4時間46分の長旅かと思ったのですが、トンネルに入るとすぐに記録して、都市が近づくとトイレに行って、そしてあとは車窓を眺めて水田を一つも見逃さないと眺め続けたら、あっという間に博多に到着しました。

やはり記録が追いついていないのですけれど。

 

「岡山、美しい!」と強調しているのは贔屓ではなくて、ほんと、岡山以外のどの地域の風景もまた美しく、そして落ち着いた街に見えました。

 

田植えが終わったばかりの水田の横には、すでに青々と力強く育っている田んぼもあります。

用水路は、あちこちの水田に水を送るために水が豊富に流れています。

これだけの水田に過不足なく水を分けるシステムを、それぞれの地域でどうやって築いてきたのでしょう。

 

博多までの水田、用水路、川、放水路などの風景を見ることができただけでも、きた甲斐がありました。

 「水田は健在」

これから、いよいよ1400年の干拓の歴史を歩きます。

 

 

 

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散歩をする 312 ただひたすら川と海と干拓地を見に〜佐賀、長崎、福岡編〜

 6月下旬、前夜の数時間にわたる送電トラブルが嘘のように、何事もなかったように品川駅から新幹線に乗りました。

今までのぞみの「博多行き」の表示は見るだけで、その終点までもその先も行ったことがありません。

初めて博多まで乗り、そして40年ぶりの佐賀県へ向かいました。

 

1982年から83年ごろの夏に佐賀県出身の友人に誘われて佐賀へ行き、その時に購入したお皿を今でも使っているので、毎日佐賀県のことを思い出しています。

看護学校の同級生で、顔は思い出せるのですが名前が出てきません。それほど親しい関係でもなかったと思うのですが、その年に長崎で開かれた看護学会に私が行くことを聞いて、なぜかご実家に宿泊するように誘ってくれたのでした。

ご実家は佐賀市のすぐ近くで、周囲が稲穂の香りで満ちていて、まるで夏休みに祖父母の家に遊びに行ったような懐かしさでした。

 

この時には長崎まで飛行機を使い、帰りは博多からやはり飛行機で戻ってきた記憶があります。九州は遠いなあと思っていました。

 

2017年に初めて祖父の田んぼも干拓によってできたことを知り、2018年から岡山平野を初め、全国の干拓地を歩いてみたいと出かけるようになりました。

その時に読んだ干拓の歴史に、「わが国の干拓事業は約1400年前に有明海の北端、今の佐賀県が最初である」と書かれていました。

記憶にある友人の実家周辺の田んぼは、ごく普通の田んぼだったような気がしたのですが、あそこも干拓地だったのかと地図を拡大しながら眺めて息をのみました。

圃場整備されたまっすぐな用水路の間に、複雑に入り組んだ水路と集落があります。

航空写真に切り替えると、今でも佐賀市街地のすぐそばまでその複雑な水路沿いに水田があります。筑後川を超えて、福岡県大川市柳川市も同じような水路です。

クリークを初めて知りました。

 倉敷の干拓地とも全く違います。

1980年代、私はこのクリークの張り巡らされていた水田のそばに泊まっていたのですね。当時、水田はどこも同じに見えて、干拓の歴史も知らず、この風景が記憶にも残っていないことがとても残念です。

 

地図を眺めていると、九州沿岸のあちこちに干拓地らしき地形があります。

もう一度、佐賀の水田地帯を見たい、そして海岸沿いの干拓地を巡って見たい。いつかの日のために、いくつか計画を立てていました。

 

昨年1月に、スクリーントーンズのライブで久住昌之さんの箸置きを購入したのですが、それが佐賀県内で焼き付けされているもので、久住さんが「佐賀はいいところだ」と書かれていました。

そしてその1ヶ月後に広島を走る九州新幹線 を見て、もうこの偶然は佐賀に行きなさいということに違いないと思うようになりました。

今回は、博多からは在来線を利用したので九州新幹線には乗らなかったのですが、品川から博多までのぞみで4時間46分、車窓からの風景を眺めていたらあっという間に九州に到着しました。

 

 

佐賀市のクリークを歩き、懐かしい佐賀市で一泊したあと、2日目は沿岸の干拓地を眺め、諫早をまわり、大村湾の海岸線を眺めて佐世保で一泊。

3日目はバスと松浦線でぐるりと海岸線を眺め、伊万里から唐津、そして博多へ戻る計画です。

 

1400年前から、水田を広げるために干拓してきた痕跡をただひたすら眺める散歩です。

 

 

それにしても、40年ほど前に佐賀の友人がなぜ誘ってくれたのか忘れたのですが、それがなかったらこの遠出もなかったわけで、人生の偶然の積み重ねはほんと、不思議ですね。

ということで、しばらく不定期ですがこの散歩の話が続きます。

 

 

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合わせて「米のあれこれ」もどうぞ。

 

思い込みと妄想 46 「見ると幸せになれる」

この「思い込みと妄想」はどちらかというと否定的な意味合いで書いた記事が多いのですが、ここ数年であちこちの寺社を訪ねるようになり、例えば深沙大王「御由緒」のように昔の人が人生に起こることを観察して、何か法則性のようなものを「妄想」のように残していたのかもしれないと思うことが増えました。

 

驚異的に変化する時代を何度も越えて、そのあとに生まれた世代にとっては空気のように当たり前の知識でも、当時の人がそのことに気づくまでには遠回りをし、大きな犠牲を払っていたのだろうと。

 

さて、今日のタイトルは、私も信じた妄想です。

 

 *ドクターイエローを見た!*

 

6月20日の夕方、初めて見ました。

ドクターイエローです。

周囲にいた人の中で気づいたのは、もう一人の40代ぐらいの男性で、その人も息を飲むように身を乗り出してドクターイエローが過ぎるのを見ていました。

 

遠出をするようになったここ数年で、少しずつ新幹線の知識が増えて、以前雑誌で見た記憶があるこのドクターイエローの存在も大きくなりました。

運行は10日に1回程度であり、走行時間も非公開であるため、鉄道ファンを中心に「見ると幸せになれる」など、縁起物のような扱いをされる。 (Wikipedia

 

そこまでではなかったのですが、見ることができたら「奇跡」のように感じるかもしれないと楽しみにしていました。

 

さて、4月12日に東京都にまん延防止措置が適用されたために中止したままにになっていた2泊3日の遠出ですが、その後じきに3回目の緊急事態宣言となってしまいました。

6月中旬ごろに一旦感染者数が300人台に下がったもののまた増え始めたために、6月20日で終了になるか延長になるか先行きが見えませんでした。

同じ頃、電車内に酔っ払った人が増え、街中でもマスクなしで食事中に大きな声で会話している人の姿も増えてきた感覚がありました。

 

もし、緊急事態宣言が延長されても行くのなら今と決めて、出発の3日前にホテルの予約も乗車券購入もサクサクと終わりました。

 

翌日に出発というタイミングでドクターイエローを見たのですから、奇跡的ですよね。偶然に鳥肌がたちました。

 

*まさかの山手線運休*

 

ところがこのドクターイエローを見た直後に、まさかの山手線が送電トラブルで運休になりました。

 

もし翌朝までに復旧しなければ、品川駅までどう行くか、最悪のことを考えながら迂回方法を探していたところ、夜10時近くに運転再開のニュースがありホッとしました。

 送電トラブルが起きた頃に帰宅途中だったのですが、あと30分早く山手線に乗っていたら、私も電車内にとどまることになりましたが、たまたま遅くなり山手線に乗っていなかったのでした。

きっと、これもまたドクターイエローのおかげと思おう、山手線の復旧も大丈夫と暗示をかけながらニュースを追っていました。

 

翌朝、何事もなかったように山手線は運行され、静かな品川駅から無事に始発の新幹線に乗って出かけることができました。

 

いえ、もちろん、事故がなくて当たり前という社会の中で復旧作業にあたり、安全を支え、安全を追求するために働いている方々のおかげですね。

 

でも、ちょっと奇跡のドクターイエローのような気がして来ました。

 

 

 

 

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水の神様を訪ねる 40 深大寺の深沙大王

念願の水の音と静寂の中での深大寺蕎麦を食べていると、しだいに西の空が黒くなり、遠くで雷鳴が轟き始めました。

先を急いだ方が良さそうです。

 

散歩の最後の目的地は深大寺深沙(じんじゃ)堂です。

 

神代植物公園の南側の深大寺門を出ると深大寺の裏手の崖線に沿って道があり、以前歩いたことがあります。

それよりもさらに西側にもう一本道があり、それがこの深沙堂の脇に出る道だったようです。

 

小さなお堂で、その前を何度か通っていたはずなのに、水の神様だとは知らずにいました。

本堂などのある寺地の中心より西に一町(役120m)ほど離れた所に深沙堂があります。昭和43年(1968)に再建されたもので、正面二間半、奥行き三間半(一間は約1.8m)、入母屋造り銅板葺き、妻入り。正面に向拝があります。また、堂の背後には、この地の水源であり、深大寺の発祥に関わる泉があります。

旧堂は大師堂に匹敵する大きさがあり、寄棟茅葺きの屋根で、正面に切妻屋根の向拝が付いていて、深沙大王祀、深沙大王社と呼ばれていましたが、明治元年(1868)の神仏分離令によって取り壊されてしまいました。同じ時期に、堂前にあった鳥居も取り払われ、今はその跡だけが残っています。

深大寺のホームページの「深沙堂」より)

 

*水神「深沙大王」*

 

さらに「深大寺開創と水神『深沙大王』」に以下のように書かれています。

『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲になりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮かべ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇端を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのか満功上人であったと伝えられています。

長じて満功上人は、父福満の宿願を果たすために出家し、南部に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。

 

いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。 

 

深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王三像が描かれている十六善神図が掲げられます。

 

お堂のそばは崖下の鬱蒼とした森と草地で、水源のあたりを見ても泉がどの辺りなのかよくわからないのですが、そこから20mくらいの水路には轟々と水が流れ始めています。

 

今までは大きな深大寺本殿とその前の水路に目が行っていたのですが、西の端にあるここが水源であり、その水の神様であったことを知りました。

 

空模様が怪しくなりあわててバスに乗って吉祥寺に向かうと、雷雨がちょうど吉祥寺を通過した後だったようです。

 

 

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食べるということ 72 水音を聴きながら深大寺蕎麦をいただく

この散歩は今まであきらめていた深大寺そばを今日こそは食べるという強い決意で家を出ました。

平日でも人が多い人気の場所で、参道にはたくさんのお蕎麦やさんがあってもどこも混んでいます。そして、夕方4時にはおみやげ屋さんも全て店じまいをしますから、なかなか入るタイミングがありませんでした。

 

6月初旬、3回目の緊急事態宣言の期間中で、午後2時ごろなら空いているだろうと賭けました。

 

青渭神社を出て、深大寺小学校の裏の弧を描くような道をまわると、確かにプールの横に「東京都水道局 深大寺元町水源」という施設がありました。

この坂道を下ると、深大寺通りにそってあちこちから水が流れ出て、水路になって流れています。

 

行き当たりばったりの散歩でしたが、ちょうど「腹が減った」時間に、目指すお店に到着しました。

五郎さんと違ったのは、あちこちを見て直感でお店を決めるのではなく、今回はあらかじめ検索してお店を決めておきました。

私の場合は、迷いだすと結局食べずじまいになってしまうことがあるので。

 

 

参道も人がまばらで、むしろ心配になるほどです。

予定していたお店には4人組の先客がいました。ワイワイと喋るようだったら嫌だなと躊躇して、ちょっとお店の様子を伺うように2往復ぐらいしました。でも喋っている様子もないので、入ることにしました。

 

ちょうど水路の近くの席に座ることができました。ずっと水の音が聴こえています。

ほとんど人の声もなく、水の音だけが響く世界です。

なんと贅沢な時間でしょうか。

 

お蕎麦がきました。求めていたのはとり天そばです。

美味しかった!

勢いでくずきりも頼みました。

静けさと水の音に食欲を刺激されました。

 

 

横を、下校する小学生が通り過ぎて、ちょっと賑やかになってきました。

こんなに水が豊かな場所を通学路にしているなんて、なんてうらやましいことでしょう。

ああ、でも私もそんな子ども時代だったのだと、秘密基地で遊んでいた頃を懐かしく思い出しました。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 39 深大寺の青渭神社

深沙大王を訪ねる前に、もう一つ気になっていた水の神様を訪ねることにしました。

 

深大寺前からバスに乗って三鷹や吉祥寺方面へと帰る時に、青渭神社前というバス停を通過します。

深大寺のすぐ隣にあって、「渭」というさんずいのつく漢字から水の神様だろうと見当をつけたのですが、なかなか訪ねる機会がありませんでした。「深大寺道をゆく」の中で、この神社についてと、深大寺小学校と深大寺の間の道に水道局の水源施設があることが書かれていたので訪ねてみることにしました。

 

 

場所は、ちょうど都立農業高校神代農場の湧き水がある谷戸の上です。

鬱蒼とした鎮守の森に、大きなケヤキがあります。樹齢数百年という説明とともに、こんなことが書かれていました。

なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」と呼ばれ昔は青波をたたえていたという。この付近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡である。

 

「青波」については神社の御由緒に書かれていました。

 当社の創建年月日は不詳であるが、往古(三千年〜四千年以前)先住民が水を求め居住した際、生活に書くことのできない水を尊び祠(ほこら)を建て、水神(すいじん)様を祀(まつ)ったと伝えられている。

 ご祭神は水波能賣大神(みずはのめのおおかみ)・青沼押比賣命(あまぬまおしひめのみこと)、一説に社前に棲(す)む大蛇を祀ったともいわれる。

神社明細長等によれば、当社は第六十代醍醐天皇の延長五年(九二七年)に編纂された『延喜式』(えんぎしき)所載、武蔵國多摩郡八座のうちにて官祭の重き御社であったと伝えられる。往古は社前に五町歩余の境内地があり、大池にこんこんと湧き水あり、青波をたたえていたところから青波神社とも称せられた。池水は干ばつの折も枯れる事なく、田用水等に用いられたといわれる。周辺は武蔵野文化発祥の地であり、清水の湧き出る所、人々の生活と密接な関連があったと考えられる。青渭・青波共に水の意であり、「渭」とは広遠に波立つ様をいい水面に波打ち寄せる意で、水神様を祀った古社である事は疑う事はできない。明治六年十二月郷社(ごうしゃ)に列せられた。氏子地域は深大寺町全域(元・南・東・北町)と調布ヶ丘の一部にまで及ぶ。社前にケヤキ(槻・ツキ)の老樹がそびえ、市内現存最古の巨木で、昭和四十七年調布市天然記念物に指定された。又、御社殿も甚だしく荒廃したため、御大典(おたいてん)事業として再建に務めた結果、平成四年十月無事竣工隣同月二十五日盛大に奉祝際(ほうしゅくさい)を斎行した。御社殿は権現(ごんげん)造りで建坪三十坪、屋根は銅板葺きである。

 

「大池にこんこんと湧き水があり、青波をたたえていた」

今の神代水生植物園あたりが大池だったのでしょうか。

そして、「干ばつの折にも枯れることなく」ほどの湧水地帯だったこのあたりを、安政二年の大地震が一変させ深大寺用水建設が必要となったということでしょうか。

 

Wikipedia 青渭神社を読むと、青梅市沢井と稲城市東長沼にもあるようです。

 

稲城市東長沼は、多摩川を挟んでちょうど反対側の右岸あたりです。

長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

 

多摩川が氾濫すると袂をわかつような状況になっていた時代に、信仰が近くの村へと伝わっていったのでしょうか。

 

 

 

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運動のあれこれ 40 「今もなお里山の風景を残す深大寺・佐須の地域資源」

調布市立柏野小学校まえに立てられていた説明板は、私が知りたいことが網羅されていました。

湧水 

国分寺崖線からしみだす湧水は、地域を流れる用水路の水源となっています。

 

深大寺・佐須地域の南部には、畑がまとまって残っていて、開放感のある風景を残しています。

 

都立農業高校神代農場

神代農場には、湧水を利用した水路や池が点在しています。また、斜面は竹林を含む樹林地となっていて、水と緑の豊富な谷戸の景観を残しています。神代農場は、人による管理が施された谷戸環境を維持し、また豊かな生産系を有しています。 

 

野草園 

深大寺・自然広場に位置する、調布市「野草園」には、約300種類10,000本以上の野草があり、ムラサキなどの珍しい花も見られます。

 

カニ山 

深大寺自然広場内に位置する通称カニ山や、かつては小川が流れ、そこにサワガニが棲んでいたことから、カニ山と言われるようになりました。この武蔵野の原風景を残すカニ山では、デイキャンプができる設備もあります。

 

田んぼ 

深大寺・佐須地域では、用水路沿いに田んぼが営まれている場所もあり、武蔵野地区では絶滅している貴重な水田風景が望めます。特に、国分寺崖線の緑を背景に、歩く人々の心を癒してくれる里山の光景は、この地域の見どころでもあります。

 

用水路 

国分寺崖線の湧水はやがて用水路となり、地域の農業を支えるとともに、動植物が集う場所でもあります。

 

毎日通学する道にこんな説明があって、自分が生活する場所とはどんなところなのかを知ることができるなんて、現代の小学生は羨ましいなあと特に思ったのが、この箇所です。

【地勢】 

深大寺・佐須地域は、ハケと呼ばれる国分寺崖線を挟む3つの段丘(武蔵野段丘、立川段丘)にあります。このハケの下からの湧水が水路(小川)となって、多摩川の支流である野川に合流しています。崖線に沿って続く雑木林、南北に形成された谷戸を活用した都立農業高校神代農場や深大寺自然広場、水路周辺に広がる田畑など、良好な自然環境及び里山の風景が維持されています。

 

 

検索すると、調布市の「東京都農業・農地を活かしたまちづくり事業」に関連しているようです。

 

 

*自分が生活をしている場を知らなさすぎた*

 

半世紀ほど前の教育でも基本的な地理の知識は学んだと思うのですが、「自分が生活している場所とはどんなところか」は、学問の専門分野もまだまだ確立されていなくて、学習の方法も限られていたのだろうと思います。

 

当時、経済発展の途上にあって、偏差値と学歴社会への変化女性が進学する機会がまだまだ限られていた時代の中で、自分の足元を考えるよりは正義感と理想に燃えて、観念的な正しさを求める方向へと自分を駆り立てたのではないかと思い返しています。

 

時代のせいとか社会のせいというのではなく、これが当時の時代の葛藤だったのではないかと。

 

そうそう、私が狭い世界から飛び出したいと思った1980年代に、「Think glovally act locally」という言葉がありましたね。

 

私が自分の生活の場所をすっ飛ばして世界のことを考えていた間に、ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが、地道にそれぞれの地域の生活をこうして突き詰めて考え検証している人たちがいたおかげで、足元をすくわれずに済んだのかもしれません。

 

地面のこともほとんど知らないまま生きてきたことに、冷や汗をかくこの頃です。

 

小学校低学年の時にはわからなくても、卒業する頃にはこの説明板から自分が生活している場に誇りが出て、さらに自分がどのような仕事をしたいのかが見えてくるかもしれませんね。

 

 

「運動のあれこれ」まとめはこちら

ハケや崖線の散歩のまとめはこちら

 

 

散歩をする 311 佐須街道から深大寺へ

地の塩のような文で引用した「この辺りの農民は深沙大王をはじめとする水神様の神通力を賜って」という箇所から、「深沙大王」を地図で探してみると、たしかに深大寺の西の端に「深大寺深沙堂」がありました。

 

2017年ごろから神代植物園と深大寺に行き始めてから、心が渇くと水の音を聞きに出かけています。

5月初旬にも訪ねたばかりですが、この時には深大寺前の水路は立ち寄らずに通過しました。

今回は深沙堂を訪ね、そしておそらく緊急事態宣言中で人も少ないでしょうから、深大寺のお蕎麦を食べようと思い立ちました。人気の場所ですから、今までは人が少なくなる夕方に訪ねていましたが、4時に閉店するお店が多い場所なので諦めていたのでした。

 

最近、深大寺用水に関連した場所を歩いたので、京王線の駅から歩いてみようと地図を眺めたら、柴崎駅の近くから「佐須街道」という蛇行した道に目がとまりました。

柴崎駅も降りたことがないし、ここを歩いて深大寺まで歩いてみよう。ちょっと行き当たりばったりの計画ができました。

 

柴崎駅から佐須街道を歩く*

 

最近は、あちこちの駅が2階の改札へと建て替えされているのですが、この駅はまだ改札が1階でした。改札の目の前に八百屋さんがあって、格安のお値段にふらりと立ち寄りたくなりましたが、まだ散歩はこれからです。

一旦、踏切を渡って、商店街を抜けて甲州街道を渡ったところから佐須街道が始まります。

Wikipediaで確認したら、「さす」ではなく「さず」と読むようです。

佐須街道ー東京都調布市の主要市道のひとつ。地内では「深大寺通り」とも称する。甲州街道国道20号)と接続する。(さずかいどう) 

 

1960年代ごろから80年代ごろの宅地化の変遷を見るような、暗渠化された道や家の造りをみながら歩くと10分ほどで、畑が見えてきました。果樹園の向こうにはおそらく1990年代ごろから建てられた10階建のマンションがポツリとあります。

そのさらに北側は、ぐんと小高い場所になっていて、切り通しの道があります。崖線のようです。

この辺りで、味わいのある蛇行した道は終わり、佐須街道は拡幅工事が終わったまっすぐな車道になりました。

 

ああ、ちょっとあっけない散歩だったなあと思ったのですが、右手にはずっと崖線の森が深大寺自然広場まで続いていて、あちこちに畑が残り、無人販売があるので飽きることもありません。

途中、佐須公園の表示があり左へと曲がったところ、昔からの大きな農家の敷地の保存樹木の間に道があり、半世紀ぐらい時空を超えてしまうような感覚に陥りました。

 

*水田があった*

 

地図では、調布市立柏野小学校の前から南へと野川へ合流する水路が描かれています。

その手前から少し低地が広がり、畑がずっと向こうまで広がっていました。水路に近づくと、予想以上の水量です。

その向こうに、祇園寺が大きな木々に囲まれて見えました。

その隣は量販店のお店があり交通量も多いのですが、ここだけ切り取られた絵のように静寂な雰囲気です。

 

小学校の前に「今もなお里山の風景を残す深大寺、佐須の地域資源」という大きな説明板がありました。

 

先ほどの水路が暗渠になり、その小学校から崖線の森の方へと続いています。小学校の裏手には水田があり、田植えが終わっていました。

ほんと、水田は健在ですね。

 

あぜ道にはホタルブクロが咲き、早咲きのコスモスも植えられていました。

祖父もそうだったのですが、農家の方は花ずきなのか、田畑のそばには色とりどりの花が咲いていますね。

 

この風景を見ただけでも、この散歩は大成功だったと満足しました。

 

中央自動車道の陸橋を渡り、1ヶ月前に通った懐かしい池ノ上神社のそばを歩きました。

本当は都立農業高校神代農場のそばを歩くつもりでしたが、蜂の気配が多くなってきたのでやめて、そのまま深大寺方面へと向かいました。

 

 

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