散歩をする 334 7月から9月の「できるだけ都県境を越えない散歩」の記録

6月下旬の九州岡山の遠出の記録を書いていたら2ヶ月も過ぎてしまいました。

 

7月以降の散歩の記録を書かないと、記憶が薄れていきそうです。

 

 

東京では7月12日から4度目の緊急事態宣言で、今回はデパートの休業要請もなく飲食店への制限があるぐらいでしたから、7月の中旬にちょっとだけ都県境を越えて、2018年に訪ねた見沼代用水と武蔵水路の続きで見沼代用水の一区間を見に行きました

 

ところがそのあたりから一気に1000人台へと感染者数が増えはじめ、今回は手強そうという印象でしたから、ここからは都内だけにしました。

 

最初は7月12日から8月22日の予定だったのが、7月29日には8月31日までに、そして8月16日には9月12日まで、最終的に9月9日には9月末まで緊急事態宣言の延長が発表になりました。

本当は8月下旬か9月上旬に、一つ遠出の計画があったのですが中止しました。

 

「都内」といっても町田から2018年の境川の散歩の続きを歩いたので、神奈川と東京の都県境をウロウロとしました。

 

第5波では、今まで以上に子どもへの感染が伝えられていたので、夏休みでプールが混む8月は泳ぎに行くのをやめて、その分、近所を歩きました。

さらに、今年の8月から9月上旬はいつになく雨が続く年だったので、出かけようと計画していも雷雨になりそうだったりであきらめがついたのは幸いでした。

 

そして8月は、年末年始の医療崩壊寸前のおそろしさ以上の事態になりました。

都内の周産期医療ネットワークが整備されてからでも、時に搬送受け入れ不可という状況が起きて1時間とか2時間ほど受け入れ先を探すことがありましたが、救急車の中で何時間も待つとか、入院さえできず、さらに自宅で亡くなる人が増えるという今までの医療では考えたこともなかった状況でした。

 

搬送先が見つからない、あるいは受け入れたくても空き病床がないので断る。

そのどちらもニュースを見ているだけでも、あの胃がキリキリする気持ちが蘇りました。何かを楽しむという気分にはとてもなれないような8月でした。

 

9月上旬になり、重症者数はまだ高いものの、感染者数が900人台になる日も出始めて、また見沼代用水と武蔵水路を訪ねる散歩で都県境を越えました。

 

6月下旬に田植え直後だった水田には、稲穂が重く実りはじめていました。

見に行きたいと思った時に、水田や用水路を誰に気兼ねなく見に行けたあの日々は、災害からも守られて平和だからこそだったのだと、目の前の風景が楽園か天国のように見えてきました。

 

 

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境界線のあれこれ 102 都県境を越えないことを自分に課す

以前は「都県境」というとどこかへ出かけて戻ってきた時ぐらいにしか意識しなかったのですが、散歩をするようになってからは都県境の川にかかっている橋の間隔が大きいとか洪水によって袂を分かった場所が川の両側に地名として残っているとか、境川を挟んで町田市と相模原市の「川向こうの飛び地」など、興味深く感じるようになりました。

 

でもまさか、その「都県境」が自分の行動制限の境界線になるとは、今までの人生で想像したこともありませんでした。

 

 

新型コロナウイルス感染拡大と都県境*

 

新型コロナウイルスの感染が広がり始めた頃は、「都県境を超えて通勤している人も多いし」「通勤の列車内とか仕事の方が、散歩で一人で歩き一人で食べることよりはよっぽど人と密接に関わるし」と、この「都県境」という表現をすんなりと受け止められた訳ではありませんでした。

当時はまだ、「指数関数的に」を初めて漠然と知った程度でしたが、それでも医療機関で働いてきた経験から感染症の対応についてはその方向性を納得できました。

 

1年が過ぎて、今年の3月頃にはこの感染症とどうやって生活するかが少し見えてきたように感じました。

3月には愛知用水と知多半島を訪ね、4月にはいよいよ佐賀のクリークをみにいこうと思っていたところ、4月12日からは蔓延防止措置、そして4月25日に3回目の緊急事態宣言が出たので遠出は中止しました。

 

むしろ逆手にとって「絶対に都県境を超えない散歩を計画する」ことを楽しんでしまえという感じで、徹底して散歩は都内にしてみました。

多摩川沿いの用水を訪ねることができました。

 

6月10日には専門家会合が「都内は4週連続人出増加、リバウンドに注意」と警告する状況でした。

この時期には遠出をするかだいぶ悩みましたが、九州の干拓地岡山へと、10日間のうちに実行しました。

 

6月下旬には期待したほど感染者数が減らずに300人台だったものが、翌週7月初旬には900人台になり、「病床は3週間余りで逼迫するおそれ」というニュースが出ました。

7月31日には4058人、そして8月13日には最多の5773人に達し、救急搬送や入院も受け入れ不可の状態になりました。

 

*都県境を超えないことを自分に課す*

 

1年半ほどの専門家の方々の予測や警告がとても正確で、このウイルスの変化やワクチン接種状況、あるいは社会のイベントや雰囲気などさまざまな要因から予測されていることを実感する毎日です。

 

 

私自身はリスク比較をしながら散歩を計画していたつもりでしたが、個人で気をつけることはもちろんですが、なかなかそれだけでは社会全体には制御できないのがこうした世界的な流行ですね。

 

第5波まで経験してもなお、「外を人が歩いているから」「列車や飛行機に乗っている人が増えたから」「だから、もう大丈夫そう」という雰囲気がリバウンドを作り出しているのだろうということが感じられました。

 

 

12年前のものですが「感染症と数理」を読むと、まるで現在のことについて書かれているかのようです。

感染症の人口レベルでの流行というのは、要約すればこれはポピュレーション・ダイナミクスの問題なわけです。つまり、感染した人口というものがどのように再生産されているのかということ、それを記述したい。ただし、これは非線形のプロセスで、感染した人がまだ感染をしていなくて感受性がある、感染する可能性のある人に出会うことによってうつす、そのようなプロセスです。

 

この感染のモデルというのは一般に非線形のモデルとして消費者・資源モデルというものと非常によく似ていて、ある意味で感受性の人口というのはリソースに相当するわけですね。感染者がそれに出会ってうつして、自分たちが同類を増やしていくということですね。だからリソースがなくなってしまうと流行はもちろん終わるわけです。だから、閉鎖集団であれば、何か1回の流行が起こっても最後はいずれはやむわけですね。だけれども、外側から燃料(感受性人口)を補充してやると、ずっと燃え続ける(流行がつづく)ことになりますね。そのようなのがエンデミックという状態です。

(強調は引用者による)

 

 

自分は大丈夫と思い込まずに、「都県境を超えない」ことを課す。

 

私にとって「都県境」はあくまでもイメージで、何か自分の行動に制限を課さないと、社会のなかの「外側からの燃料」を増やす雰囲気に加担しかねない。

そんな怖さからきていたのかもしれません。

 

 

 

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鵺(ぬえ)のような  7 「緊急事態宣言は意味があったのか」

新型コロナウイルスも第5波となると、ピークになって収まりつつある時期がなんとなく毎日の感染者数から見えるようになりました。

さすがに都内の数千人台の感染者数になった第5波が収まり始めるまでには、今までにない時間が必要でしたけれど。

 

急激に減少して1日あたり200人台になったときに、お店を開いている知人から「なんでこんなに急に減るんですかね?」と質問されました。

医療とは無縁の知人ですが、昨年の春からかなり正確に対応策を取り入れていた様子を知っているだけに、あれっ?と思いました。

 

私にはとても感染症の数理モデルを他の人に理解してもらえるような説明は無理ですが、「人の流れを少なくすることで、一人の人から次々と感染する機会が減るのかもしれませんね」「感染源になる人自体は少なくても、そこから何人にも移っていくから、増えるときは一気に増え始めて、減るときにも一気に減り始める感じかな」「だから第4波が収まりかけていた数百人台で緊急事態宣言を終了してしまったから、反動がすごかったのかもしれませんね」と説明しておきました。

 

あっているでしょうか。

 

医療という大きな視点でこの感染症の増減を感じる機会が少ないと、なかなかあの数理モデルは実感できないのかもしれないですね。

だから「緊急事態宣言なんて、意味があったのか」という不満につながりやすいのでしょうか。

 

 

*「個体の治療ということとは非常に違った発想が必要」*

 

感染症と数理」の「おわりに」に、こう書かれています。

それから、これは一般論ですけれども、実際にはウイルス性の感染症等は決定的な治療法とかはないですから、要するに流行を未然に防ぐ、あるいは発生しても小規模に終わらせるという、そのような社会的な介入とかが必要です。それは個体の治療ということとは非常に違った発想が必要で、場合によっては相反することもあるわけです。先に述べたように個体の治療行為が流行を促進する可能性さえありますし、ある種の不完全なワクチンが薬剤耐性を進化させてより被害を広げる等ということもあります。そうした思わざる結果を予測したり、効果的な政策を立案したり評価したりする上で数理モデルがぜひとも必要であるわけで、今後、数学、医学、疫学、生物学等が連携指定、このような感染症理研究というものを抜本的に強化していく必要があろうかと思います。

 

 

この1年9ヶ月ほどを振り返ると、感染が拡大しそうになると緊急事態宣言で人の行動を抑えるようにしたことで私にはコントロールできてきたと思えるのですが、「緊急事態宣言は意味があったのか」と感じる人がいることに人間の社会はややこしいものだと思いました。

 

一般の人がなかなか実感できないのは仕方がないとしても、この数理モデルを理解して政策を立ててきたと思っていた政治家の方から、「緊急事態宣言は意味があったのか」という発言となると大きく意味が変わってきますね。

 

人間の寿命、言い換えれば生活の質までも視野に入れた感染症対策のために経済対策をするのが政府の責任だと思いますが、これまで自分たちがしてきた政策は意味がなかったと言っていることになるのですから、社会は不安になりますね。

おそらく、自分のイデオロギーに囚われているゆえの発言に見えました。

だから、こんな国民の非常時に増税とか、緊縮財政とかつじつまの合わないことを言い出していたのですね。

 

今こそ、一世紀後二世紀後にも遺産となるような、国民のため、人類のための感染症政策の本質を確立できる機会のように見えるのですが。

今回の混乱を見ると、18世紀にはすでに感染症から社会全体をとらえようとして数理モデルを考えた先人がいたことに、あらためて敬意がでてきました。

 

 

それにしても緊急事態宣言が終わって10月に入ってからの、なんだか「コロナが終わった」みたいな雰囲気はちょっと不安ですね。

9月30日の通勤時に、すでに朝から酔っ払っている人を見かけるようになりました。

そこがポイントだと、まだ学んでいない世の中もどうなのかと。

 

この感染症にかかった場合、その後遺症で人生も大きく変わる可能性まで伝えられているのですけれど。

 

 

 

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数字のあれこれ 74 感染症と数理

6月下旬、岡山〜姫路の散歩を終えて、京都駅から15時39分ののぞみに乗りました。

都内では感染者数が減るどころか、700を超え始めました。その一週間前に感じた嫌な予感が的中しそうなことと、夏にはとんでもない数になっていくのではないかと思えました。

 

6月下旬のその新幹線では「車内でのアルコール類の販売は見合わせ」と言う車内放送がありましたが、外で買って持ち込んでいる人たちが一列に並んで喋りながら飲んでいました。

少し席が離れているから大丈夫と、自分に言い聞かせました。

 

 

*初めて感染症の指数関数を知った*

 

昨年、新型コロナウイルス感染症が広がりだした時に指数関数とそのグラフでの説明をみて、長く医療に従事しながら初めて、感染症に数字でのとらえ方があることを知りました。

 

数字が苦手ですから最初は何のことかよくわからなかったのですが、毎年のインフルエンザの流行と終息や、2001年の麻疹の流行などで無意識のうちにあのグラフを経験していたこととつながりました。

 

ですから「夏にはとんでもない数字になりそう」と言う予測と言うか、「予感」ぐらいの私の理解のレベルですが、感染症数理モデルがあることを明らかにしていた方々がいたことがすごいと実感しています。

この考え方がない時代だったら、おそらく社会は不安と恐怖で大混乱になっていたことでしょう。

 

感染症の広がりを予測するために、まさか計算式があるなんて思ってもいなかったのでした。

 

*「感染症と数理」*

 

すごいと思いつつ、なにぶん数字が苦手なので詳細は先送りにしていたのですが、感染症の広がりを計算するという発想はいつ頃からできたのだろうと気になりだしました。

感染症の数理」という2009年の講演文が公開されていました。12年前のものですから内容的にはもう過去の部分もあると思いますが、「こういう考え方なのか」とわかりました。

 

「はじめに」に、知りたかった答えが書かれていました。

 今日は感染症の数理ということで話をさせていただきたいと思うのですが、感染症ということに関しましては、最近は高病原性鳥インフルエンザの人間への適応ということが非常に大きなリスクとして日々報道されておりますし、少し前、最近はちょっと忘れられている気がしますけれども、エイズの問題とか、非常に大きな社会的な問題になっていることはよくご存知だと思います。それで、感染症の流行、これはいろいろなレベルで問題にもちろんできるわけで、医学的に、あるいは生物学的に細胞レベルでどうかという話ももちろんあるわけですけれど、一般に人口のレベル、ポピュレーション・レベルで感染症というものがどのようにして広がっていくか、あるいはそれを制御するためにはどのように介入したらいいのかということを数理モデルを使って考えていこうと、そのような学問ですね。その起源というのは18世紀に、数学者のダニエル・ベルヌーイがおこなった、天然痘死亡率が人間の寿命に対してどのような影響を及ぼすのかという研究に遡ります。この研究はいまでいうコンパートメントモデルの端緒です。後でお話ししますが、人間が未感染から感染、それから回復という各状態を遷移しながら加齢して死んでいくというプロセス、そのようなものをモデルにすることによって、例えば天然痘による死亡リスクというものがなくなった場合に寿命はどう延びるかを考えているわけです。これはいくつかの競合する死因がある場合に、そのうちの一つが取り除かれたら寿命がどの程度伸びるか、という競合モデルのような話の起源ですが、そのようなことをやった。それが一つの初めであります。

(強調は引用者による)

 

 

「人間が未感染から感染、それから回復という各状態を遷移しながら加齢して死んでくというプロセス」

「いくつかの競合する死因がある場合に、そのうちの一つが取り除かれたら寿命がどの程度伸びるか」

 

私は感染症を終息させる対策のためと受け止めていたのですが、それは短期的な視点で、ヒトの寿命まで視野に入れた考え方だったのですね。

そんな発想が18世紀にすでにあったことも驚きです。

 

 

2009年にこれを読んでもすんなり理解できなかっただろうなと思います。

自分が痛い経験をして初めて、この行間が読めるようになったのかもしれませんね。

あ、講演文の計算のあたりは読み飛ばしています。すみません。

 

 

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散歩をする 333 姫路を歩き、京都へ

姫新線の車窓を眺める散歩が終わりました。

それぞれの川によって、あるいは路線によって、似ているようでもやはりそれぞれの風景の違いがありました。

 

*姫路を歩く*

 

いつも通過するだけだった姫路を、今回は歩きます。

子どもの頃に一度、白鷺城を訪ねたことがあります。岡山の烏城に対して姫路の白鷺城、色のコントラストで強く記憶に残っていました。

今ではどこの水田地帯にもたくさん見かける白鷺や青鷺ですが、なぜか子どもの頃は見たことがなかったので、白鷺城は外国か幻の鳥をイメージしたものかと思っていたくらいです。

 

計画の段階で地図を眺めていたら、白鷺城の北西に男山貯水池公園を見つけました。

おそらく「男山」というのは急な斜面を登るような場所で、高低差を利用した給水施設があったのだろうと思い、ぜひここを訪ねようと思いました。

 

地図で見ると駅から1kmほどですから、時間的にも余裕で往復できると思いました。

30度越えの蒸し暑さの中を歩き始めると、まっすぐ前に白鷺城は見えるのに歩けど歩けどなかなか近づきません。しかも途中、何度も信号待ちになるので、駅から白鷺城に着くまで20分ほどかかりました。意外に遠いものですね。バスにすれば良かったと後悔しました。

姫路公園の敷地も広くて、男山貯水池公園まではまだ道のりがありそうです。

この日も早朝に朝食を食べたきりでお腹がすきすぎて、挫折しました。

バスで駅に戻り、まずはお昼ご飯だということになりました。

 

駅周辺のお店を探してみたら、なんと一週間前に涙をのんだとり天そばがありました。

姫路を歩く計画をほとんど実行できなかった残念さを、帳消しにしてくれる美味しさでした。

 

 

*姫路から新神戸線で京都へ*

 

13時37分の新神戸線快速米原行きに乗りました。

一昨年、滋賀県を訪ねた時に琵琶湖を一周する鉄道に感激したのですが、米原から姫路までつなぐ長距離の路線があることも印象に残りました。

 

いつか乗ってみたいと思っていたことが、今回の散歩で実現しました。

いつもとは違う場所を通るので、どんな風景でしょうか。

進行方向に向かって座る二人がけなので、ずっと車窓の風景に集中できます。

 

ここからのメモです。

曽根、水田、住宅地、山半分ぐらい岩肌、採掘場?

加古川、水田、水路、五重塔

土山、ため池、水田跡

魚住、地面下がる、新幹線

溜池ミュージアム、水田

垂水、海神社

長田区、神戸14時17分

甲子園、武庫川労災病院

大阪手前、高速がビルを突き抜け

淀川、新淀川の表示

14時50分、新大阪

千里丘、水田

摂津富田、水田

高槻、水田

島本、水田、黒い瓦

山崎の後も落ち着いた街、水田

雨?濁流

長岡京の後も水田

桂川右岸、小さな水田!水路がある

 

そして京都から新幹線に乗って帰宅しました。

やはり帰りも水田三昧です。

 

なんだか脈絡のないメモのようですが、帰宅してからいくつかの散歩の計画ができてしまいました。

困りましたね。

 

 

ということで、6月下旬に佐賀、長崎、福岡岡山から姫路へただひたすら川と海と水田をみてまわった記録がようやく終わりました。

 

 

 

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水のあれこれ 194 吉井川

吉備の穴海 から、吉井川、旭川そして高梁川の沖積作用で岡山平野ができたことから、いつか3つの川の流域をあちこち歩いてみたいと思っています。

 

高梁川は上流から河口付近まで、だいぶ見ることができました。

今回の遠出では、旭川の下流を少し歩き、津山線の車窓から中流域の風景を見ることができました。

 

そして吉井川は、津山駅を出たあと少しだけ中流域を見ることができました。

 

いつも新幹線で岡山に入るとすぐに吉井川が見えるのですが、「岡山に戻ってきた」という喜びと、山の合間から穏やかな川が流れてくる風景がなんとも好きです。

この吉井川の川沿いを歩いてみたいと地図を何度も眺めているのですが、下流では万富(まんとみ)駅から和気(わけ)駅までは山陽本線西大寺駅から香登(かがと)駅までは赤穂線が近い区間があるので歩けそうです。

 

ところが和気駅のあたりから40kmほどでしょうか、津山までは車道しかなく、そして途中の街へ行く公共交通機関もなさそうです。こんな時には、運転免許証を持っているだけだったことが悔やまれますね。

 

行けないとなるとなおさら思いは募り、航空写真を見ながら風景を想像しています。

 

 

*「美作台地の清流を瀬戸内に伝える 自然あふれる 吉井川」*

 

国土交通省中国地方整備局のHPに、吉井川の説明がありました。小見出しに引用したのが、その一文です。

 

流域の地勢、気候上の特色

 吉井川は、「東の大川」と呼ばれた岡山県三大河川の一つであり、水源を中国山地三国山(標高1,252m)に発し、岡山県の東部を南北に貫通して児島湾に注ぐ幹川流路延長133km、流域面積2,110平方kmの一級河川です。

 吉井川下流部では、早くから文化が開け出雲地方と近畿を結ぶ交通の要所となり高瀬舟の利用とあいまって古くから栄えてきました。現在では岡山県南新産業都市に指定されて以来、農業県から工業県への飛躍に重要な役割を果たしているため今後ますます重要度が増してくると見込まれます。

 吉井川流域の気候は、全般に瀬戸内型気候帯に属しており、温暖で日照晴天が多く安定しているものの、古くから幾度となく洪水に襲われています。

 

Wikipedia吉井川の「水害」の年表があります。

1590年 水害により著名な刀工一派である備前長船派が壊滅

1621年 水害により津山周辺の川筋が南へ変わる

1673年5月 水害により堤防の決壊、端の流失が相次ぐ

1680年5月 水害により氾濫

1712年7月 増水。吉井にて増水位3.3m

1745年6月 水害により旭川とともに氾濫。死者2名、家屋流出200戸

1785年7月 増水による氾濫

1789年 増水による氾濫。邑久(おく)郡福井村長船町の堤防が決壊

1871年5月 増水により各地で氾濫。津山市では、河原町、伏見町、材木町が浸水。長船町では堤防が決壊して邑久郡一帯が浸水。

1912年7月10日 岡山県東北部で集中豪雨。雄川橋、永安橋が流失。

1934年9月20日 室戸台風による氾濫

1945年9月17日 枕崎台風による氾濫

1963年7月10日 英田(あいだ)郡、勝田郡一帯で集中豪雨による氾濫

1979年10月19日 台風20号により氾濫、死者・行方不明者4名

(地名のふりがなは引用者による)

 

江戸時代に災害の記録を残すのは、相当な被害があったからでしょうか。

「水害により津山周辺の川筋が南へ変わる」と書かれていますが、具体的にどのような状況だったのでしょう。

 

 

岡山の三大河川のうち、高梁川旭川は、途中の川沿いに鉄道が敷かれたのですが、吉井川中流に鉄道が敷かれなかったのはなぜでしょう。

どのような生活や歴史があったのか、知りたいことがどんどんと出てきました。

 

 

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散歩をする 332 津山から姫路へ姫新線の車窓の散歩

地図では津山駅から70mほど北側に吉井川が流れ、その対岸に津山城や津山の中心部の街が広がっています。

 

吉井川の支流が右岸から左岸から何本も流れ込み、本流も蛇行し、四方八方から水色の線が描かれているのはあの三次(みよし)に似ています。

中国山地の背骨にあたる地域は、こういう場所が多いのかもしれませんね。

この川の集まる雰囲気を是非、歩いて見てみたいと思っているのですが、今回は津山線姫新線の乗り換え時間の14分しかありません。

 

駅舎から吉井川は近いので見えるかと期待したのですが、駅北側の風景には川の気配が感じられなかったのが不思議に感じました。

 

 

姫新線の車窓の風景*

 

9時56分発の姫新線に乗りました。

そういえば、津山線はボックス席の列車でした。関西では進行方向に向かって二人がけの席がほとんどだと思っていました。

姫新線はどちらの座席だっただろうと、ふと記憶が怪しくなっています。もうかれこれ3ヶ月前の散歩の記録ですからね。

 

津山駅を出て、東津山駅の手前で吉井川を渡りました。広くゆったりした川でした。

ここから兵庫県との県境の手前の美作土居駅まで、吉井川の支流沿いを走り、支流を横断して行くようです。

この時のメモは以下のようなことを書き残していました。

勝間田まで谷津と水田

勝間田、美しい、広い水田

美しい川

大きな病院二つ

クリ、カキ、小さな実

「大きな病院二つ」が見えたのは林野駅の付近で、川を挟んで総合病院がありました。

地図で確認すると、線路の反対にも病院があるようです。

どんな医療の歴史がこの地域にあるのだろう、そんなことを思ってメモしたのだと思います。

 

緑の中に佇む白鷺、美しい

美作江見あたりも美しい

山野川、T字に合流

上月手前、水がきれい、水田にも柵

山にはさまれて吉井川の支流沿いに、ここにも田植え直後の水田の風景が整然と続いていました。

前日の干拓地津山線の沿線の風景と少し違ったのは、水田の周囲に柵があったことでした。

 

川底まで透き通った水の流れが、車窓からも見えました。

 

 

佐用駅から姫路駅へ*

 

佐用駅で乗り換えました。試験中でしょうか、11時3分発の列車は高校生でいっぱいになりました。

どの駅で誰が降りるのかな、どんな生活なのかな、そんなことを考えて、私自身も高校時代はこんな感じで水田地帯を通学していたことが懐かしくなりました。

あの頃、もっと水田を観察しておけばよかったのですけれど。

佐用川へ

佐用、2両編成、片側一列

高校生

トンネル抜けた、川、岩、千種川上流

羽、水田

堤防からも柵、三日月

分水嶺

土手の除草の香り

 

佐用駅を出るとすぐに長いトンネルに入りました。

そこを抜けると、川岸に岩が目立つ場所が増えました。あの悪石地形と同じようなものでしょうか。

川が緩やかに蛇行しながらできたの地形が車窓からでもはっきりわかったのは、何もさえぎるものがない水田が広がっていたからでした。

 

田植え直後の稲が美しい水田のそばでは、あちこちで土手の除草が行われていました。

その草刈りの良い香りが車内へと流れ込んできました。

 

三日月駅を越えてしばらくすると千種川の上流部分は南の方へと消えて、川のない風景が続いたあと、今度は北のほうから流れてきた栗栖川沿いになりました。

地図で見ると、その間わずか1kmほどで、ここが赤穂湾へ流れる千種川揖保川の支流の栗栖川の分水嶺のようです。

中国山地から湧き出た水は、複雑に曲がり、合流し、瀬戸内海のあちこちへと流れ込んでいるのですね。

 

ここからは揖保川支流沿いに姫新線が進みます。

揖保川、堤がある

竜野前、水路

余部、播磨高岡、水路があちこち残る、水田

開発、姫路のすぐそば、新幹線のそばに神社、水路、水田

 

車窓の風景を見ながら最小限の言葉でメモをしていくので、時間がたつと何のことだったのか記憶が怪しくなります。

「堤がある」

確か、揖保川を渡るときに、左岸側からの分水路のようなものが見えて石積みの堰が見えたのでした。航空写真で確認したら、やはりありました。

おそらく、揖保川左岸への水田を潤すために作られたものではないかと思います。

そこから姫路駅のすぐそばまで今も水路があり、ところどころ水田がありました。

歩いてみたくなるではないですか!

 

子どもの頃から白鷺城として知っていた姫路のあたりは、記憶では今のような都市なのですが、東海道本線と山陽本線を乗り継いで倉敷に行った頃は、市街地はまだ少なくて水田に囲まれていたのではないかとその記憶を確認したくなってきました。

 

 

岡山から津山へ、津山から姫路へ、なんとも美しい風景でした。

 

 

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行間を読む  127 姫新線

母の記憶を訪ねようと思いたちましたが、昨年は、津山は乗り継ぎの関係で断念しました。

 

今回も姫新線への乗り継ぎで駅のホームに降りただけで残念ですが、いつかこの街を歩こうと地図を眺め始めた頃は、津山を流れるのは旭川だと思っていました。ちょうど旭川河口の北側に位置していますから。

ところが、よくよく見ると新幹線で岡山県に入ると渡る吉井川の方でした。

津山に一泊して、その吉井川のそばを歩く計画がありますが、また次回ということになりました。

 

姫新線を初めて知ったのが、2019年に伯備線に乗って新見を通過した時でした。

山の中に入っていく単線を走る列車が見えました。それが姫新線だと知り、姫路まで行くことに驚きました。

実際には途中の佐用駅で一度乗り換えるのですが、なぜ姫路と新見駅を結ぶ鉄道があるのか、いつか乗ってみたいと思っていました。

 

地図を見ると、高梁川のそばにある新見駅から山間部に入り、冨原駅で旭川支流沿い、中国勝山駅旭川の主流沿いに走り、美作追分駅のあたりで旭川と吉井川の分水嶺になって、そこからは県境の美作土居駅まで吉井川のいくつかの支流を越えるという、岡山平野をつくった三大河川の上流を横断しています。

 

Wikipedia姫新線の歴史を読むと、1923年(大正12年)には作備線として津山駅美作追分駅間が開業し、1936年(昭和11年)にはほぼ現在の姫新線となったようです。

 

「概要」に、「山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡線」とあります。

2019年ごろにはじめて陰陽連絡線を知り、なぜそこに鉄道をつくり、どんな暮らしや歴史があるのか見てみたいと思っていました。

 

今回は津山ー姫路間なので、津山ー新見間はまたいつか制覇しようと思います。

 

 

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散歩をする 331 津山線と二つの川の風景

美観地区を歩こうと思いついて早朝に出発したら少し早く駅に着き、倉敷駅からは予定より一本早い7時19分の岡山駅行きの列車に乗りました。

 

ちょうど通勤通学時間帯で、ぎゅうぎゅうの混み具合でした。私が通勤に利用する路線は最近、リモートワークの影響か以前に比べればいくぶん混雑が緩和されているのですが、むしろそれよりも混んでいます。

しかも飛び乗ったのが弱冷房車でしたから、朝から街並を散歩したあとなのでどーっと汗が出てきました。

岡山駅で吐き出されるようにホームに出てやれやれです。でも日本各地、いろいろな通勤風景を見るのも散歩の醍醐味ですからね。

 

いよいよ、昨日も乗ったローズレッドの車体の津山線に乗って、津山までの車窓の散歩です。

と書いたのですが、Wikipediaを読むとこれは朱色5号だそうで、「柿色」とも呼ばれると書かれていました。

 

 

*二つの水系を走る*

 

岡山駅からしばらくは旭川沿いに沿って走ります。

前日訪ねた法界院駅を過ぎると旭川右岸側に水田地帯が広がり、その次の玉柏駅を過ぎると、旭川沿いギリギリのところを川の蛇行に沿って走る風景に変わりました。

対岸に石積みの堤防が見えました。わずかの平地に水田がつくられ、牧山駅の付近では山に沿って美しい街が見えました。そこを過ぎると川から一旦離れて、また旭川が見えて視界がぐんと広がると野々口駅に到着し、遠いところに採掘場のような山が見えました。

 

帰宅してWikipedia津山線の歴史を読むと、「難所を避けて旭川沿いに建設された」区間だったようです。

法界院駅ー野々口間は難所の辛香峠を避け旭川沿いに建設されている。

「辛香峠」は「からこうとうげ」と読むそうで、旭川よりも西側の国道53号の通るあたりのようです。

津山線旭川ギリギリのところを通過するのを見てすごい場所に建設したと驚いたのですが、川と鉄道の歴史をまたひとつ知りました。

 

野々口駅を出るとまたしばらく旭川の美しい流れを右側の車窓に見ながら走り、金川駅に到着しました。

朝の津山線は予想以上に通勤通学の人が乗っていてどこに行くのだろうと思ったのですが、ここで多くの乗客が下車しました。「大日本印刷」の送迎バスが待機していたのですが、地図で確認すると少し戻ったところに工業団地がありました。

 

この金川には旭川旭川の支流が2本合流する場所があるので、車窓から見えるかなと楽しみにしていたのですが残念ながら見えませんでした。

ここから一旦、旭川支流沿いになり、この区間もまた水田や家並みが美しく、山には戦後植林された杉や檜と思われる木々が成長しているのが見えました。

山を越えるとまたはっとするような街並みがあらわれ、建部駅周辺では蔵と母屋が一体になった造りの家がいくつも見えました。

 

ふたたび旭川に近づき、中流なのに川幅が広くゆったりとした流れが見え、福渡駅に到着しました。

金川駅で6分停車した後は、乗客も少なく、皆さん車窓の風景は見慣れているせいか爆睡している人も増えましたが、その中で静かに勉強していた学生さんたちがこの福渡駅で一斉に降りました。

窓の外に岡山・建部医療福祉専門学校が見えました。心の中で「勉強頑張って!」とエールを送りました。

 

この福渡駅の少し先で旭川は西側へと向きを変え、津山線旭川の支流沿いに進み、小原駅の手前でこの支流からも離れます。

 

 

干拓地とは違う水田風景*

 

 

福渡駅を過ぎると、支流に沿って線路のカーブが続きながら、風景が刻々と変化していきます。

神目駅のあたりではわずかの平地に整然とつくられた水田が多かったのが、突然、棚田の風景になりました。

弓削駅のあたりではまた採掘場が見えました。魚の鴟尾のある家を見かけるようになりました。

 

誕生寺駅を過ぎると大きなため池が見え、そしてじきに小原駅に到着しました。

水道管が鉄道の上を走っている場所がありました。水源はどこなのでしょう。

地図で見直すと、旭川の小さな支流からつくられたため池で、その先の小原駅をはさんだわずか数百メートルが、岡山平野を作り出した三大河川の二つの川の分水嶺でしょうか、こんどは吉井川の支流になるようです。

 

分水嶺と思われる場所を過ぎると、下り坂になり、吉井川の支流沿いにまた水田が見え始めました。

白鷺がたくさんいます。6月下旬、田植えが終わったばかりのあぜ道に月見草が咲き始めていました。

 

魚の鴟尾と黒い瓦の家が増え、少し山陰地方を思い出すような風景になり、津山駅に到着しました。

 

 

母の記憶に残る津山は、もしかしたら倉敷周辺とは違う水田の風景や山の中を流れる川の風景、そして倉敷よりもさらに長い年月をかけて人が生活を築いてきたことをどこかに感じたからではないか。

そんなことを思いながら、念願の津山線の車窓の風景が終わりました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

行間を読む 126 津山線と姫新線

少し間があきましたが、ただひたすら川と水田を見に倉敷を訪ねた記録の続きです。2日目は早朝の美観地区を歩いてから倉敷駅に向かいました。

 

ここからは川沿いに津山線に乗り、津山で姫新線に乗り継いで姫路まで中国山地の真ん中の川と水田を見る車窓の散歩です。

 

1960年代終わり頃か1970年代に入る頃、小学生の頃に家族旅行で宍道湖や出雲大社に行きました。

祖父母の家の周辺の平野しか知らなかったので、中国山地の山の風景に入っていくことがなんだか心細かった記憶があります。

 

あの時は、父が購入した小さな国産車で旅行しました。今思い出しても座席も硬く狭い車内で快適とはいえませんでしたが、両親にすると「重い荷物を持って、子どもの世話をしながら列車の乗り換えをしなくて済む」ことが夢のようだというマイカー時代の幕開けでした。

 

記憶と時代の変化をたどると、あの頃が地方の鉄道も全盛期だったのかもしれません。

あの備後落合駅で見た写真のように活気があり、人や物流が鉄道網によって広がっていったのが1950年代60年代だったのですが、子どもの頃の私は鉄道に乗る機会が少なくほとんど記憶に残っていません。

 

数年前から岡山周辺の地図を眺めるようになって、中国山地の背骨に沿って走る鉄道が気になり始めました。そしてまるで肋骨のように、山陰と山陽を結ぶ鉄道がいくつもあります。

これに乗ってみたい。

一昨年は伯備線に、昨年は芸備線に乗りました。

 

 

*中国鉄道本線の歴史より*

 

小学生の頃の山の中の寂しいところを通っていたような記憶とは全く違って、田畑が広がり、大きな家々がどっしりと見えました。

そして、ずっとずっと昔から続いていることがわかる街並みを歩きました。

岡山がまだ岡と山がほとんどで平地が少なかった時代は、ここが人と物の交通の要所だったこととつながりました。

 

Wikipedia津山線の「歴史」にこんなことが書かれていました。

「国有化以前」

 

岡山県の県庁所在地である岡山と美作地方の中心都市の津山とは明治維新以降人や物の往来が増加していた。古くから両都市を結ぶ津山街道(現在の国道53号とほぼ同じルート)があっが、辛香峠などの難所があった。また、当時の岡山県の南北交通で主流であった舟運(高瀬舟)を使おうにも岡山は旭川水系、津山は吉井川水系であり、旭川を北上して福渡から津山街道に入るか落合までさらに北上し院庄から津山に入るなどの方法しかなく、人やものの往来に困難をきたしていた。このため最新の交通手段である鉄道の敷設が企画され、1896年4月30日に中国鉄道が設立された。

(強調は引用者による)

 

同年に岡山ー津山ー勝山ー根雨ー米子の免許が下り、早くも7月には起工、1989年12月21日に「中国鉄道本線」として岡山市駅ー津山駅(現在の津山口駅)までが開業した。津山駅以遠は建設を断念し免許は失効、のちに国により姫新線伯備線として建設された。開業区間にはほぼ津山街道に沿う形ではあるが、法界院駅野々口駅間は難所の辛香峠を避け、旭川沿いに建設されている。建設は国の技術によらなかったため、曲線やトンネルの断面などが独自の規格となっている。現在でも曲線半径が綺麗な数字になっていないのはこのためである。

 

ここを読んで、津山線姫新線という鉄道がなぜあの山間部を通っているのか、少しわかりました。

 

この箇所を読むと当時まだ岡山の海岸線に鉄道を通すのは難しかったのかと思ったのですが、Wikipedia山陽本線の歴史には「1888年兵庫駅明石駅間が開業し、翌年に神戸駅竜野駅も開通。以降順次以西へと路線が伸びて、1901年に馬関駅(現在の下関駅)まで開通」とありますから、120年ほど前の岡山は山側と海側にほぼ同じ頃に鉄道が通ったようです。

 

この1900年前後の、鉄道と沿線の風景や生活はどんなに変化した のでしょうか。

祖父母が生きていた時に、もっと話を聞いておきたかったとつくづく思います。

 

 

 

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