行間を読む 150 宇部線と小野田線

宇部線小野田線に乗ってみたいと思ったのは、海岸線を走る路線であるとともに、子どもの頃からの記憶にある地名を実際に訪ねてみたいという理由でした。

 

JR宇部線は、新山口駅から宇部駅までUの字を描くように通っていて、その途中の居能駅から小野田駅までJR小野田線が支線を含めてYの字のようにあり、内陸部では宇部駅小野田駅山陽本線でつながっています。

ちょっと複雑なこの回廊のような鉄道網は、小野田セメント宇部興産がヒントなのだろうと思いつつ、ずっとそれ以上の歴史を知ろうとしないまま来てしまいました。

 

2019年に武甲山資料館を訪ねたことがきっかけで、伊吹山や大垣の金生山など採掘場のある地域の歴史が気になり始めました。昨年訪ねた大船渡には駅の対岸に、太平洋セメントの工場と引き込み線が見えました。

 

セメントとか石灰とか、生活に欠かせないのに、本当に知らないことばかりです。

 

小野田線宇部線とセメントの歴史*

 

Wikipediaを読み比べてみると、JR宇部線は1914年(大正3年)に開業、翌年1915年(大正4年)に小野田線が開業しているようです。

セメントの歴史からすると、現在は太平洋セメントに会社名が変わったそうですが、小野田セメントの方が先に、1881年明治14年)に設立されているようです。

太平洋セメント株式会社は、日本最大のセメントメーカーである。1875年(明治8年)に設立された官営深川セメント営業所の流れを組む。

 

それに対して、宇部興産は現在はUBE(ユービーイー)になっているようですが、江戸時代には山口藩石炭局、明治には炭鉱、1923年(大正12年)に宇部セメント製造会社が設立されたとありました。

 

*鉄道の今昔*

 

宇部線小野田線のどちらの概要にも、かつては石灰石や石炭輸送で賑わっていたことが書かれています。

 

私が乗った日は平日の日中でも結構乗車していたのですが、産業や交通事情の変化で採算性の問題もあるようです。

宇部線については「宇部新川ー新山口駅間では、宇部市営バスを利用する方が早く到着できる場合がある」(Wikipedia宇部線」「概要」)、あるいは「宇部線の方が運賃は安いが、バスの方が運行本数が多い」(同、「並行する交通」)とあります。

比較的早い時期に電化された路線の一つであるが、全線が単線で地盤が悪いこともあり運行速度が遅く、宇部新川ー新山口間では、宇部市営バスを利用する方が早く到着できる場合もある。

 

読み飛ばしてしまいそうな一文ですが、「地盤が悪いこともあり」が指しているのが開作による土地が多いということなのだろうと理解しました。

 

 

宇部線小野田線気仙沼線のようなBRTにする計画もあったようです。

2018年度に宇部市JR西日本が中心となって、宇部線と共に小野田線バス・ラピッド・トランジット(BRT)に転換する可能性について検討を始めた。しかし、宇部市が試算したところ、宇部線にBRTを導入した場合の概算整備事業費が約153億円となることが判明した。そのため採算性に厳しく早期の実現は困難であるとしてBRTは凍結され、JR西日本と沿線自治体(宇部市山口市山陽小野田市)の4者勉強会は休止となった。

Wikipedia小野田線」「概要」)

 

それぞれの地域の地理や歴史そして生活があるので、難しいですね。

 

実際に、宇部線小野田線の車窓の風景を見ることができて、こうした歴史を読み返すときに理解しやすくなりました。

 

 

*おまけ*

 

Wikipedia小野田線」に、「選択乗車の特例」が書かれています。

居能駅小野田駅間は小野田線宇部線山陽本線との間に選択乗車の特例(旅客営業規則第157条)があり、一方を経由する乗車券を持っていれば他方の経路でも乗車できる。途中下車の禁止されていない乗車券であれば他方の経路上でも途中下車が可能である。

 

今回の乗車券は気ままに途中下車できるように、都内から小倉までの連続切符をみどりの窓口で購入していたのですが、宇部線から小野田線に乗り継ぐことを伝えた時に、窓口の方がしばらく何か調べていて、「もし途中下車する駅で何か言われたら、大丈夫であることを伝えてください」とおっしゃっていたことがこのことだったようです。

今読んでも、なんだかよくわからないのですが、一枚の乗車券にも複雑な規則の歴史の積み重ねがありますね。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

散歩をする 340  宇部線と小野田線の車窓の散歩

名田島開作をぐるりと回って、11時27分に新山口駅にバスが着きました。

すっかり本降りですが、ここからはしばらく車窓の風景が目的です。

 

JR宇部線とJR小野田線、まだ開作という言葉を知る前から、ただひたすら海を眺められる日本各地の路線の一つとして、いつか乗ってみたいと地図を眺めていました。

宇部線の発車まで30分ほどあります。おなかがすきました。駅そばを食べたい気分ですが、お店はありませんでした。

新山口駅はおしゃれな白の壁のビルですが、ホームの屋根は黒のトタンの落ち着いたデザインで、通路から新幹線が見える場所にあちこちベンチもありました。非常食として買っておいたおにぎりを食べながら、雨を霧のように飛ばして通過する新幹線を眺めました。

 

宇部線の車窓の風景*

 

12時1分、宇部線が出発しました。

沿線の土は、秋穂漁港のあたりとも違って、黒っぽい土のようです。

遠くに、緑色の麦畑が広がっているのが見えました。この辺りも、家々の屋根は黒でした。

深溝のあたりまでは開作のような平地が続いています。ちょうど行き違い列車との待ち合わせで停車したので、遠くに堤防が見えて畑が広がっている風景を眺めることができました。その向こうが周防灘のようです。

 

ここから周防佐山駅までは小高い場所になり、また下って、阿知須駅のあたりでは新しい住宅地が増え、海岸近くにきらら博記念公園ドームの屋根が少しだけ見えました。ここからの方が近いのですが、対岸の名田島開作からの方がドームの全貌が見えました。

また切り通しを抜け、起伏が激しい路線です。海が近いはずなのに気配もありません。

 

床波駅のあたりで荒人神社の大きな屋根が見えました、地図ではあいだに沢波川があります。

近くの道路には「大波の時通行止め」という表示がありました。穏やかな瀬戸内海というイメージとは違う、海の姿があるようです。

 

常盤駅のあたりから、魚の鴟尾(しび)をつけた家が増え、瀬戸内海の背景になんだか似合っていました。

山口宇部空港が見え、そこを過ぎると上りになり宇部岬駅に到着しました。地図ではわからない高低差でした。

市街地の中の宇部新駅に12時49分に到着しました。

 

 

小野田線の車窓の風景*

 

宇部新駅で13時10分発の小野田線小野田行きに乗り換えです。発車まで20分ほどあるのに、次々と乗客が乗って座席はほぼ満席でした。

ロングシートなので車窓の風景を見るために、また最後尾で立っていくことにしました。

 

居能駅のあたりでは工場地帯が広がり、厚東川(こうとうがわ)の対岸には広い水田地帯と工場地帯があり、ここが妻崎開作でした。

帰宅してからこうして記録をまとめているうちに、周防灘台風のさいに堤防が決壊した川がこの川であったこととつながりました。

 

開作を左手に見ながら進むと小野田線が支線と分かれる雀田駅に到着し、小野田駅方面にも工業地帯が見えてきました。

小野田港駅のあたりは、セメント工場の敷地が続いています。

ああ、こんな風景だったのかと、子どもの頃から耳にしていた場所を確認しました。

 

13時31分、南中川駅に到着しました。

私の他に2人ほど下車し、雨の中どこかへ歩いて行かれました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

散歩をする 399  秋穂漁港から新開作、そして新山口駅へ

今回の計画を立てるのに、一番初めに目に入ったのが椹野川河口に広がる干拓地でした。

地図を見ただけで、南北に広大な水田地帯が広がっていることが想像できる場所で、その真ん中に貯水池のような場所と、東西南北へと用水路が描かれていました。

その貯水池のような場所を見てみたい、拡大すると近くに「新開作」バス停がありました。

 

「まさにこれだ!」と、最初は新山口駅からこの開作を訪ね、そのあと山口駅の方へと足を伸ばす計画を考えました。

ところが、次々と瀬戸内海沿岸に「開作」が見つかり、どこを訪ねようかとあれこれとつなぎ合わせてできたのが、今回の防府駅からバスで秋穂漁港入り口行きに乗る計画でした。

 

秋穂漁港から新山口駅行きのバスも1時間に一本程度ありますから、バスの時刻表と次の列車の時刻表を何度も眺めて、秋穂漁港から新開作バス停の辺りまで歩き、そこから新山口駅行きのバスに乗ることにしました。

 

秋穂漁港の西側に「黒潟南」という田園地帯があり、その外側を弧を描くように道が通っています。地図で見るだけで、集落をつないでいて開作との境界がよくわかる道です。

計画の段階では気持ちが大きくなって、いつも歩き切れないほどの距離になるのですが、途中にいくつもバス停があるのでなんとかなりそうです。

 

 

*秋穂漁港から原の前バス停まで*

 

漁港から少し歩いたところに、「あいお観光マップ」に書かれていた車えびの養殖場がありました。

秋穂は、塩田跡地を利用して、世界で初めて車えびの養殖を事業化した「車えび養殖発祥の地」です。秋穂地域内には、車えびを提供する飲食店や車えびを販売する店舗が多数あります。

 

エビの養殖というと東南アジアの「社会問題」としてしか考えたことがなかったのに、まさか瀬戸内海が車えびの養殖の発祥の地だったとは、ちょっと冷や汗が出そうになりました。

あそこの島にはこういう人たちがいて、こういう生きざまで暮らしていました。こういう形の魚をとっていました。その魚はどこどこに運ばれていました。ということを、とにかく見て歩く。

鶴見良行さんの声が聞こえてきそうです。

 

その養殖場からは緩やかに上り坂になり、集落の細い路地へと入りました。

漁港のあたりは人がいなかったのですが、けっこう車は通ります。

乗っているのは70代から80代近い高齢のご夫婦が多い印象でした。どんな生活があるのでしょう。

 

JAの建物のあたりからまたゆるやかに降ると、そこには道をはさんで二つ、大きな溜池がありました。

その先に、広い広い畑が広がり、滋賀のあたりで見かけた緑色一色の世界です。一面、柔らかな麦の穂が風に揺られて幻想的でした。

その向こうに、低い山々が見えます。印旛沼や倉敷周辺の風景に似ています。

 

このあたりで雨が少しづつ強くなり始めました。

交通量が多い真っ直ぐな道が続きますが、畑のそばを歩く人は私一人です。右手は緩やかな斜面で、農家の立派な家がぽつりぽつりと建っていました。開作を目の前に、どんな歴史が語り継がれているのでしょう。

 

南部海岸道路という大きな道路を渡ると、そこからは風景が変わり、道も山の方へと入りました。

バス道路沿いに蛇行しながらゆっくりと上っていくと、小高い場所に二島小学校の校舎がありました。校門の入り口には、地元の方が植えた花がきれいに咲いていました。

ここから県道61号線を道なりに歩くと新開作バス停ですが、とうとう本降りの雨になりました。

 

小学校から少し北へ歩くと、道が下り坂になり、その先に広大な干拓地が広がっていました。

地図で確認すると、あの目指していた水色の貯水池まではまだ小一時間ほど歩く必要があり、絶対に無理でした。

さらに雨脚が強くなり、一つ手前の「原の前」バス停から新山口駅行きのバスに乗ることにしました。

 

「原の前」バス停の前にも溜池があり、雨の中アオサギがたたずんでいました。

この辺りはキャベツ畑のようです。

西側に堤防が見えて、その向こうはあの広大な開作の水路のようです。

 

*原の前バス停から新山口駅へ*

 

傘も服もびしょ濡れになるほどの雨になり、赤いコミュニティバスが遠くから近づいてくるのが待ち遠しいほどです。

 

やれやれと乗り込んで、開作が見える席に座りました。

ぐいと堤防の道へと上がると、南若川の向こうに干拓地が広がり、河口付近まで見渡せました。

そのさらに西の方に、大きなドームが見えました。もしかしたらあれが、阿知須のきらら博記念公園の建物かもしれません。何年か前に競泳の国体会場だった記憶があります。

川や海の対岸が見えるののが干拓地ですね。

ここが名田島開作です。

 

このあたりも一面、麦が植わっていました。新開作バス停のあたりには住宅がありましたが、目指していた水色の場所は、ただただ麦の中のようでしたので、計画変更して正解でした。

 

しばらく麦畑や農家の集落を走ると、高いビルが見えてきました。いったん山の斜面のような場所へとバスは向きを変え、今度はまた西へと向きを変えて椹野川を渡り、11時27分に新山口駅に到着しました。

 

昨年、佐賀への往復で通過した場所でしたが、こんな風景だったとは。

ずっと車窓に集中していたはずなのですが、何も見えていなかったのかもしれないですね。

まあ、新幹線だと1~2分もかからないで過ぎていたので仕方がないですけれど。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

記憶についてのあれこれ 173 山口駅と新山口駅

山口県をあちこち見て歩きたいという計画はいくつかあって、2019年に宍道湖から米子までを訪ねた時に、ぜひ出雲から先の山陰本線に乗ってみたい、そして山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡線を乗り尽くしてみたい、できれば一筆書きで行けるところまで行ってみたいと、あれこれと地図を眺めていました。

 

各路線ともなかなか本数が少ないので2泊3日では周り切れそうになく、仕事を辞めたらいつかという楽しみにしてあります。

それまでに、三江線のように廃線になる路線がないといいのですが。

あっという間に車社会になったので、運転しない(できない)と公共交通機関がない場所を訪ねることは夢のまた夢という感じになってしまいますね。

 

山陰地方は大きな河川が少ないのですが、どうやって水を得ているのだろう、小さな川はどんな感じだろう、そして海岸線をただひたすら海を眺めて列車やバスに揺れる。

すっかりその魅力にハマってしまいました。

 

30年ほど前に訪ねた萩・津和野のあたりも、地図を拡大すると歩いてみたい水色の線がたくさんあります。

あの時とは違う視点で、その地域を歩いてみたい。

いろいろな夢があります。

 

 

新山口駅の歴史*

 

ところで新幹線が止まる新山口駅の方が山陽本線で、県庁所在地の山口駅の方が奥まったところに陰陽連絡線の山口線の駅としてあるのはどんな歴史なのだろうと気になっていました。

 

30年前に訪ねた時はどこから萩・津和野に向かったのか全く記憶がなく、山口駅新山口駅も記憶にありません。「山口県」というのはまさに山だらけの県だとつい最近まで思うくらい、その地形も頭に入っていませんでした。

 

地図で開作を探した時に、真っ先に目に入ったのが、新山口駅の近くでした。

防府駅から北西へと向かう山陽本線が、椹野川を越えるとぐいと南西へと向きを変え、山陽本線宇部線に分かれます。

 

椹野川(ふしのがわ)、これまた読めない名前でしたが、その河口には広大な開作が広がっていました。

 

新山口駅の「歴史」がまとめられていました。

1900年(明治33年)、旧吉敷郡小郡村の玄関口となる小郡駅として開業し、1975年(昭和50年)3月に新幹線も同駅で開業した。2003年10月1日に現駅名「新山口駅」に改称した。

 

これに対して山口駅の方は「1913年(大正2年)2月20日国有鉄道山口線の駅として開業した」(Wikipedia)で、小郡駅より後に鉄道が通ったようです。

 

椹野川の河口と宇部線沿線の開作によってできた土地に鉄道が敷かれ、新山口駅を通る鉄道の方が時期が早かったのだと、パズルが解けるように理解できました。

 

そして私には小郡駅の方が、子どもの頃から記憶にある駅名でした。そうだったのか、小郡駅新山口駅になったのかと、今回の遠出の記録をまとめているうちに理解できたのでした。

ただ、「こごおり」と読み方を間違えて覚えていました。「おごおり」だったのですね。

読み仮名を正確に知らないまま漢字だけで覚えてしまうので、ほんと、日本語は難しいものです。

 

 

「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら

実験のようなもの 11 うまい話はない

「貯蓄から投資へ」「一億総株主化」とかニュースで耳にするようになり、半世紀ほどの記憶を行ったり来たりしています。

 

ああ、そういえば「個人年金」なんて言葉が出たのはいつ頃だったか確認したら2001年のようですね。

当時40代になる前でしたが、やはり将来の年金額に不安があって少しでも足しになるのならと気持ちが向きましたが、「運用」とか「投資」という専門用語にビビってやめたのでした。

 

それまでは銀行に貯金することで誰かが使って、その利潤を社会に還元してそれを利子として受け取っていると思っていたのに、貯蓄額は増えても利子がどんどんと減っていく時代に入り、とてもとても「自己の責任において運用の指図」なんてできるわけないですからね。

 

 

確定拠出年金を読むと「2020年3月末時点で加入数は156万人」だそうで、「増加傾向」と言ってもそれだけの人だけしかやっていなかったのですね。

年金運用の3階建部分であるこの制度における個人向けの運用が、いわゆる「iDeCo」(イデコ)である。拠出額が大きく所得税率が高い国民ほど節税効果も高まるため、「iDeCo」により最もおいしい果実を得られる国民は高額所得者である。超高額所得者は年金自体が不要であり、低所得者にとっては国民年金の半額免除や全額免除のような救済措置もなく3階建部分の「iDeCo」のために拠出する資金がほとんどない

Wikipedia、「確定拠出年金」「特徴」)(強調は引用者による)

20年前に知りたかった情報ですね。

 

2009年から「ねんきん定期便」が送られてくるようになり、想定していた額の3分の2ほどであったことに愕然としてこの個人年金に心が動かされたのですが、その頃は、あまりそういう商品(保険)の情報がなくなっていたように感じました。

よほど貯蓄がある人でなければ手を出せないリスクがあって、あまり積極的に宣伝されなくなったのでしょうか。

 

 

*その費用が気にならない人は?*

 

私自身が株とか投資に手を出さないのは、半世紀ほど前の母の投資信託の記憶があるからかもしれません。

当時はまだ普通預金の利率も高かったのでその利子を利用したのかもしれませんが、いつの間にか信託銀行との取引はしなくなりました。年金の足しになるなら、きっと投資を続けていたのではないかと思うのですけれど。

 

そんな両親を見て、まあ地道に厚生年金を払い少しずつでも貯蓄をするしかないと悟りました。社会保険制度が始まった時代の両親ですが、「年金だけは続けたほうが良い」と言ってくれたおかげで、両親が介護が必要になっても、親の年金のおかげで私も仕事を辞めることなく厚生年金を掛け続けることができました。

 

最近ではその銀行預金の利子が下がり、「家賃の引き落としにかかる手数料>>>>>定期預金の利子」という理解できない状況になっています。

 

「イデコ」では「年間口座維持費用 792~円」「現金の受取り費用 440円〜」と諸経費が取られるようです。

こうした額が気にならない人向けとも言えるかもしれません。

 

 

*リスクの意味が違った*

 

株や投資というと「リスク」がありそれに絡む事件もニュースで耳にしますが、金融庁の「投資」を読んでみました。

リスクとは

投資には「リスク」があります。一言で「リスク」といっても、「リスク」にはさまざまな種類がありますので、それがどのような内容なのかを正しく理解しておくことが重要です。

投資における「リスク」の代表的な例を見てみましょう。これらの「リスク」はいわゆる「危険」や「損失」のことではなく「可能性」のことを意味している点に注目してみてください。

 

「株式変動リスク」「借用リスク」「流動性リスク」など書かれていましたが、これ以上は目が滑って内容が頭に入ってきませんでした。

 

 

「危険」や「損失」のことではなく「可能性」のことを意味している。

あの実証実験に似て、やはり経済というのは仮説をそのまま社会で実験して、その失敗がどのように社会に影響を与えたか、どうやってより良い方法にするのかという仕組みが構築されていない分野なのだと思えてきました。

 

「うまい話はない」と自衛するしかないのかもしれませんね。

 

 

「実験のようなもの」まとめはこちら

失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら

事実とは何か 90 「台風情報がほとんど住民に伝わらなかった」

山口県下の開作を襲った周防灘台風についてWikipediaを読むと、その被害は甚大だったようです。

 

台風の影響で、周防灘・有明海八代海・鹿児島湾などで高潮が発生したが、中でも周防灘で発生した高潮は、台風の通過が大潮の満潮と重なったことからひときわ規模が大きくなり、沿岸部での被害も特に甚大となった。反対に、有明海側などでは大潮の干潮時と高潮の発生が重なったため、それほど大被害にはならなかた。また、周防灘の沿岸には干拓地が多く、工業都市が海岸低地に発達していたことや、過去の災害経験が少なく防災設備力が不備であったこと、太平洋戦争中の気象報道管制下であったため台風情報がほとんど住民に伝わらなかったことなどが、高潮被害を拡大させた原因になったと言われている。さらに山口県では、県西部を流れる厚東川での堤防の決壊により、被害が拡大した。

 

周防灘台風による死者・行方不明者の数は合計で1,162人にのぼり、うち被害が最も大きかった山口県内での死者・行方不明者が794人(559人負傷)と大半を占めた。加えて、全壊家屋33,000戸、流出家屋3,000戸、船舶の流出・沈没4,000隻となった。しかし、これほどの大被害がもたらされたにも関わらず、この台風について大きく報道されることはなかったほか、中央気象台が精力的に行なった調査報告である「秘密 気象報告第6巻」は、一般の人々の目に触れることもなかった。この調査報告は、台風研究(特に高潮について)において有力な資料であるにも関わらず、「秘密 気象報告」があることすら知られていなかったため戦後になってもあまり利用されなかった。

(強調は引用者による)

 

 

戦時中の機密事項でさもありなんと納得しそうになったのですが、第二次世界大戦後でも1950年代までは死者数が多い台風被害があり、その後激減した時代に入ったことを考えると、たとえ情報が伝えられたとしてもなすすべもない状況や時代だったのではないかと、ちょっと引っかかりました。

 

 

*戦時下でも台風情報が伝えられていた*

 

Wikipedia「周防灘台風」の脚注に、気象予報士饒村曜(にょうむら よう)氏の「伊勢湾台風以来の高潮被害となった17年前の八代海等の高潮とその後の対策」(YAHOO! JAPAN ニュース、2016年9月24日)と「気象報道管制の誤解 太平洋戦争中でも台風情報はラジオ放送されていた」(同、2017年8月13日)がありました。

 

後者の記事では以下の文章から始まっています。

太平洋戦争中でも国民に台風情報

 太平洋戦争が終わった8月15日前後に、マスメディア等で様々な特集が組まれています。

その中で、太平洋戦争中の気象報道管制で「住民に気象情報が全く伝わらないため被害拡大」と、よく云われ、多くの人がそれを信じています。

 しかし、昭和17年8月の周防灘台風では台風という言葉は使っていませんが、台風情報がラジオや新聞で報道されています。

具体的なラジオや新聞の報道内容が続いています。

 

ただし、戦時下の報道管制があったことも書かれています。

 天気予報などの気象情報は、戦争遂行のためには必要不可欠な情報です。このため、戦争になると、少しでも自国を有利にするため、自国の気象情報を隠し、相手国の気象情報の入手をこころみます。これは、昔の話ではなく、今でも状況は同じです。世界各地の気象情報が自由に入手できるというのは、平和の証なのです。

 真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では8日の午後6時、表1)。

(中略)

 こうして、気象無線通報は暗号化され、新聞やラジオ等の一般広報関係はすべて中止されました。

ただ、例外として、防災上の見地から、気象情報管制中であっても、暴風警報の発表は、特例により実施されることになっており、全てが禁止されていたわけではありません。

 

そして戦時中の特例暴風警報は、「原因を言わず、危ないということだけを国民に知らせる」ものであったそうです。

 

1960年代から70年代でも、暴風雨の中では停電や新聞の遅滞は当然のようにあったので、「情報が伝えられなかった」というよりは、「情報は出したが、うまく伝わらなかった」あるいは「情報は伝わったが、なすすべもない状況だった」という方が正確なのかもしれないと、この脚注の記事を読んで思いました。

 

 

脚注には、山口県文書館の「周防灘台風ー公文書にみる被害と復興ー」があり、以下のように書かれていました。

 先述の『秘密気象台報告』第6巻では、この台風が襲来した際の警報発表・伝達経緯が検証されており、結論として、中央気象台から出される特例暴風警報が遅すぎたこと、暴風による通信途絶があったこと、地方の測候所が独自に出せる地方暴風警報と特例警報の情報が異なり混乱を招いたことに加え、「山口縣の如く測候所所在地に縣應庁所在地の異なるところは警報傳達に幾分連絡の缺けたる點があった」と指摘しています。

 

 

*微妙なニュアンスが陰謀論を広げ、回収不能となる*

 

「秘密気象報告」というと、なんだか「政府は都合の悪いことを隠している」「世の中にはもっと違う真実がある」と思いたくなりますね。

詳細はよくわからないのですが、「政府は隠していた」というニュアンスでこの台風についても長いこと語り継がれていたのでしょうか。

 

ところがその報告にはうまく伝わらなかった原因が分析されて書かれていたのに、なかなか戦後も利用されることがなかったということのようです。

 

山口県公文書館の資料が出されたのが2015年(平成25)5月のようですから、一旦広がった受け止めかたが訂正されるには、途方もない時間が必要ということかもしれませんね。

 

とりわけ今のような「未曾有の」と言える状況では、情報につまずきそうになるので気をつけなければならないと思いながら読みました。

 

 

 

「事実とは何か」まとめはこちら

失敗とかリスクに関する記事のまとめはこちら

記録のあれこれ 121 周防灘台風と開作

秋穂(あいお)漁港の近くにあった高潮来襲記念碑が開作記念碑の2倍もの大きさだったことがちょっと気になって検索したら、この高潮来襲記念碑についてもいくつか先人の記録がありました。

 

「防長散歩中心案 郷土史研究」というブログに「秋穂 高潮来襲記念碑」(2018年1月17日)という記事がありました。

潮来襲記念碑

 昭和十七年八月二十七日

 塩田七十六町歩 全滅

 死者 町内  二名

    県内 七百数十名

 

 

 高潮の被害を後世に伝え、干拓地に住む者に警告を伝えている。

 昭和十七年の水害で厚東川は厚南側、藤曲側それぞれ決壊し、藤曲現在の居能交番の前あたりに実家のあったお母さんは小学生低学年で水害に遭遇し、家の鴨居まで水が来たよ。お父さんが高いところの家まで連れて行ってくれて助かったとよく言っていました。

 

実際にご家族がこの水害に遭われたようです。

 

*周防灘台風の被害を伝える石碑*

 

昭和17年(1942年)の周防灘台風による高潮だと知りました。

一般社団法人中国建設弘済会の「昭和17年周防灘台風【昭和17(1942)年8月27日~28日】」という記事に、この災害を伝える各地の石碑について書かれていました。

潮来襲記念碑(山口県山口市秋穂町東海岸通)

山口市秋穂では死者2人、負傷者8人、家屋の流失418戸、半壊208戸、浸水856戸などの被害が発生しました。海岸通りに建立された碑の背面には、塩田76町歩余全壊などと刻まれています。

 

大風水害受難之碑(山口県山口市名田島)

椹野川河口近くの山口市名田島では、死者32人、家屋の全壊流失68戸、半壊109戸、浸水122戸などの被害を受けました。平成2年に建立された碑の側面には当時の水位が刻まれています。

 

新地開作大風水害受難之碑(山口県山口市佐山渚)

山口市の佐山渚・新地地区では12戸が全半壊、田畑が海水に飲み込まれました。被災50年を機に建立された碑の背面には当時の水位も刻まれています。

 

厚南大風水害受難追悼之碑(山口県宇部市妻崎開作)

水害高潮記念碑(山口県宇部市妻崎開作)

宇部市厚南地区では、高潮に加え、厚東川の堤防決壊により死者・行方不明は300人余りにも及びました。妻崎神社境内には、50回忌にあたる平成3年に建立された追悼の碑と、昭和62年に設置された最高潮位2.3mを示す記念碑が並んで立っています。

 

風水害救援感謝碑(山口県山陽小野田市中川2丁目)

各地から寄せられた衣類などの救援物資(宇部市藤山小学校)

小野田地域では、死者・行方不明者約120人をはじめとする大きな被害を受けました。宇部・小野田では人々の衣類が流され困窮していたところへ全国各地から多くの衣類などが寄せられました。被災1年後、支援に対する感謝を伝えるため救援感謝碑が建立されました。碑の沓石の高さが災害時の高潮の潮位を表しています。

 

 

今回の遠出で歩いたり、車窓から見た地域でした。

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

 

散歩をする 398 防府駅から秋穂漁港へ

8時5分にチェックアウトし、ただひたすら開作をみる2日目の最初の計画はバスに乗って海岸線の開作を見る予定です。

 

駅に着いた時には、まだぽつりぽつりぐらいの雨で、なんとかこのまま天気がもちますすようにと思いました。

防府は街路樹が美しい街でした。バス停のベンチの横にも木が植えられ、石で飾られた小さな水の流れがありました。

 

8時半ごろにはバスを待つ人の列もありましたが、あっという間に人がいなくなり、9時5分発の秋穂漁港入り口行きのバスは私一人を乗せて出発しました。

 

佐波川河口の開作を見る*

 

市街地を出て桑山の西側に広がる平地のあたりに来る頃には、航空自衛隊の離発着訓練でしょうか、何機も飛行しているのが見えました。

 

佐波川が近づいてきたので、車窓の風景にさらに集中です。大きな橋を渡りました。地図で確認すると、「西開作」から「川開作」という地域へかかっているようです。

橋を越えたあたりには、西側から佐波川に流れ込む横曽根川との川合に、三角形の干拓地があります。そこを見逃さないようにと思っていました。

山陽本線の向こうに見事な水田地帯と川開作地域の落ち着いた家並み、そして遠くに堤防が見えました。

 

横曽根川を渡る橋から上流は、川だけでなく何本かの水路が合流している場所のように見えました。

ここからバスはゆるやかに上ったところにある水田地帯を通って、少し内陸部にあるJR山陽本線大道(だいどう)駅の近くの街中を通って、大海湾に流れ込む佐波川河口の右岸側の水田地帯へと戻っていきました。

 

住所は「台道」のようですから、干拓前は「台地のような場所」だったのかと想像しました。

古くからの農家でしょうか、立派な家がありました。

 

 

防府を訪ねる前に地図で見ていた、防府の西側の水田地帯を見ることができて満足しました。

ずっと乗客一人のままでした。

 

*秋穂漁港入り口へ*

 

干拓地と思われる水田地帯が途切れると海岸沿いにバスが進み、左手にずっと瀬戸内海が見えるようになりました。

いつの間にか、防府市から山口市になっています。

 

海岸沿いに漁港や小さな直売場があり、海沿いに建つ住宅をうらやましく眺めていると、初めてもう一人バスに乗ってきました。

大海(おおみ)、そして少し山側へと道が続き、青江というバス停を通りました。昔はこの辺りも海にだったのでしょうか。

一人降りて、また一人乗ってきました。このあたりでは、どんな生活があるのでしょう。

 

青江バス停の手前に溜池がポツポツと見えて、田植えが終わった直後の小さな水田がありました。

このあたりから溜池が増え、切り通しを越えたところにはもっと大きな溜池もありました。

途中の交差点から南へ曲がり、古くからの路地をバスが走ると、終点の秋穂漁港入り口に到着しました。下車したのは、私一人でした。

 

目の前は本当に漁港で、工事の人以外は誰も歩いていない漁港周辺を歩いてみました。まだ、雨はぽつりぽつりです。

 

漁協の建物がある方向へと曲がる時に、大きな石碑がありました。

近づいてみると「高潮来襲記念碑」とあり、裏に昭和17年と掘られていました。

その横には大きさが半分ぐらいの石碑がもう一つあり、「藤田開作竣工記念碑 明治二十八年着工 大正二年完工」とありました。

 

この辺りも開作だったようです。

 

漁協に大きな案内地図がありました。

山口市あいお観光マップ」とあります。

「あいお?」

ああ、「秋穂」は「あいお」と読むのかと、ここで初めて気付いたのでした。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

シュールな光景 26 現実と超現実と

防府で一泊し、開作を訪ねる散歩の二日目は小雨から本降りの雨になりそうです。

 

山口放送の「きょうの天気」は、県内を「北部」「西部」「中部」「東部」に分けていました。そしてそれぞれの地域の波の高さが一緒に映っていました。確かに、山口県というのは日本海から瀬戸内海と、ぐるりと海に囲まれています。

それぞれの地域の天気予報と生活のつながりが見えてくるので、興味深いですね。

 

ニュースでは、マレーシアのロヒンギャ難民脱走のニュースがありました。

2月24日に始まった侵略戦争からわずか35日後には、東欧から極東の国へ難民の方を受け入れる時代がくるとは1980年代に難民という言葉にであった頃からは想像もできないことでしたが、日本からは近くてもなかなか介入できない難民問題が世界中に山積みですね。

そして「難民」という言葉の意味も、こんなに広がる時代になるとは。

 

次にニュースは「45年前の今日、スケトウダラ船団が下関から出港した」という話題になりました。

「200海里の年、そのため今も沿岸漁業は最盛期の10分の1の漁獲量」とのことでした。

 

タンパク質が足りない時代から、栄養を気にしなくて良い時代になりました。

爆発的に増えた人口のお腹を満たし、さらにその誰もが経済的な豊かさを求めるようになったという時代に、遠洋という相手国の沿岸・沖合への漁業が盛んになり、200海里という規制ができた。

1977(昭和52)年の200海里問題は日本だけでなく、規制で守られるはずだった相手国の零細漁業に大きな影響を与えたこともあった。

この45年前の船団が送り出されたニュースに、90年代に行き来していた東南アジアのある地域の漁師の人たちのことを思い出しました。

 

後からなら理想的なことはいくらでも言えるかもしれませんが、これもまた答えのないその時代の葛藤でもありますね。

 

遠出の宿泊先での朝は、ニュースの話題からゆっくりといろいろなことを思い返す時間でもあります。

 

 

*美しい棚田、現実か超現実か*

 

チャンネルを変えると、美しい棚田が映りました。

 

田んぼでの農作業や、斜面の道を歩いて家に戻る映像に、東南アジアで二週間ほど滞在した村を思い出し、まるで自分がそこで歩いているようです。

田んぼで養殖している鯉を捕まえて、しょうがや紫蘇の葉で料理していました。

ほんと、家の周りにあるものであんなに美味しそうな料理ができる生活、うらやましいものです。

 

ちょっと違和感があったのが、レポーターの女性がひらひらのスカートで田んぼのそばを歩き、素肌を出して山の中を散策したり、美味しい料理を食べすぎたからとジョギングのウエアに着替えて走るシーンがあったことです。

感染症も心配ですしね。

そして「古い家への憧れ」があるその女性が、最後は「廊橋」という屋根付きの歴史のある橋の中で、地元の人と胡弓を演奏するシーンで終わっていました。

 

なんだかシュールと感じたのですが、どうやらその地域出身の女性が音楽大学に入学し、自分の故郷に戻ってきたというストーリーと編集でした。

 

シュールな映像に感じたけれど、これがここ半世紀ほどの世界中の近代化に人が葛藤している現実なのかもしれませんね。

驚異的な変化の時代に、新しいものと古いものとの間で揺れている。

私の人生もまさにそんな感じかもしれない。

朝からそんなことを考えていました。

 

さあ、これから小雨の中、開作をまわります。

 

 

「シュールな光景」まとめはこちら

数字のあれこれ 79  100m

このところ、2対1か3対1ぐらいの割合で長水路(50m)プールで泳いでいます。

1月に久しぶりに泳いだ時には泳ぎきれないのではないかと思った長さですが、慣れてきたら短水路(25m)が短くて物足りない気分になり、長水路プール>短水路プールと行く頻度が逆転しました。

 

多少混んでいる日でも、距離が長い分、渋滞が少なく連続で泳げるので泳ぎやすいですね。

延々と天井を見ながら、背泳ぎで泳いでいます。

 

ついつい考えてしまうのが、本当なら昨年は福岡で20年ぶりに世界水泳が開催される予定だったのにということです。

そしてオリンピックが1年ずれ、世界水泳も1年ずれて今年になるのかと思っていたら、いつの間にかハンガリーでの開催になっていました。

新型コロナウイルス感染拡大をきっかけに、競泳の録画予約を忘れるようになったくらい、情報に疎くなりました。

 

トップスイマーが目の前で長水路で泳ぐ姿は圧巻なので、世界水泳を会場で見たかったなあ。

世界記録が出たら、本当に鳥肌が立ちますからね。

 

ただ、まだ世界記録は出続けているけれど、そのうちに水着の開発や泳ぐ技術だけでは記録更新も限界に近づくのでしょうか。

 

で、ふと閃きました。

「100mプールがあったら」と。

100mと言わずに70mとか80mでもいいのですが、距離が伸びた分泳ぐペースが変わり、違った泳ぎ方が生まれるかもしれませんね。

50mプールに慣れてきたので、もう少し長いプールで泳いでみたくなりました。

どんな感じでしょうか。

 

そういえば馬のプールもあったけれどどれくらいの長さだったっけと思ったら、30mから50mとヒトと変わらない長さでした。

 

試しに「世界で一番長いプール」で検索したら、チリの「サン・アルフォンソ・デル・マル」というリゾートにある屋外プールで、「長さ1km(0.62マイル)で、海水を含む2億5千万リットル(5500万英ガロン、6600万米ガロン)の貯水量があり、最新部で深さ3.5m(11フィート)である。」(Wikipedia)とありました。

 

写真ではその長さが実感できないのですが、真っ直ぐな1kmのプールをターンの機会もなくただただ泳ぎきるには、相当の忍耐力とペース配分の能力が必要そうですね。

 

プールの超長水路化は起こるだろうか、という妄想をしながら泳いでいるこの頃です。

 

 

「数字のあれこれ」まとめはこちら