落ち着いた街 31 「佐原駅周辺案内」

利根川にかかる水郷大橋を渡ってすぐの幸田橋バス停で下車しました。ここから国道356号線を利根川の堤防沿いに西へと歩くと、水神社があります。ここを訪ねようと少し歩き始めたのですが、少し暗くなってきたのであきらめました。

改めて地図を見るとその水神社の先が「石納(こくのう)」で、利根川左岸にもある地名でした。旧河道で袂を分つような歴史があったのでしょうか。

 

佐倉駅へ向かって歩くと、途中、大きな水路がありました。すぐ先の山に水路が消えています。水面が穏やかなので水はどちらに流れているかわからないのですが、地図で見ると水郷大橋の少し手前で大須賀川と合流しているようにも見えます。

 

JR成田線の北側の街は平地が続き、国道沿いに発達した比較的新しい街の印象でした。

 

陸橋を渡ると南側は一変して古くからの街になり、駅舎周辺も観光向けに整備された雰囲気でした。

 

駅の前に「佐原駅周辺案内」がありました。

散歩をすると、最近は必ずこうした地図を写真に撮るようにしています。駅前や観光案内所の地図はその地域の歴史や生活がわかるので観ていて楽しいですし、散歩の記録を書くときに見直すと見落としていた大事なことが書かれていたりします。

 

佐原駅周辺案内図」は一見、どこでも見かける普通の地図でした。

翌日歩く場所を見てみると、パソコンのマップには載っていなかったような細い水路名の表示があるだけでなく、暗渠化された水路名と暗渠化された年度まで書き込まれていました。

 

先ほどの途中の水路が両総用水だとわかっただけでなく、「昭和27年完成」であること、そして水色の小さな矢印が書き込まれていて水の流れがどちらなのかもわかりました。

大須賀川へと流れて合流しているのではなく、利根川から取水した水をはるか九十九里平野へと導水していたのでした。

そういえば2018年に歩いた干潟駅のあたりに利根川からの用水路があったと思い出したのですが、あれは大利根用水でした。

 

房総半島の太平洋側へと導水するのですから、利根川の水の歴史は本当にダイナミックですね。

 

 

そして地図にはところどころ大小の水色の場所があります。

どうやら水田地帯が描かれているようで、そこからの用水路が街の中をどのように流れているかまでわかりました。

 

やはり水郷の街ですね。

こんなに水路名と歴史が網羅された地図は初めてで、翌日の散歩に心が弾みました。

 

 

ところで、「さはら」だと思い込んでいたら「さわら」でした。ほんと、日本語は難しいですね。

 

 

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食べるということ 86 生玉ねぎの伏兵

わけがわからないタイトルですが、先日も「やられた」と思いました。

コンビニやスーパーでサラダのパックを買うと、生玉ねぎが紛れ込んでいるものがあります。

大根の千切りのような顔で混ざり込んでいて、でももっと小さく薄い小片なのに、食べただけで「やられた」と思うほどその存在感は強烈です。

 

新玉ねぎのスライスは嫌いではないし、これから誰にも会う予定がなければ食べられないこともないのですが、出かける前の忙しい時のために購入したサラダに入っているとなんだかその日1日が台無しになるような気分になりそうですね。

 

購入している時には生玉ねぎが入っていないかどうか確認するのですが、字がとても小さかったり内容の記載がわかりにくい場所に書かれていて見落とすことがあります。

買ってから気づいた時にはひとつも見落とさないようにと真剣に取り除いていますが、それでも破片が入っただけでああっとなります。

強烈ですよね、生玉ねぎのパワーは。

口の中にあの独特の匂いが残り続けることが苦手なのですが、人によっては体調にも影響するようですね。

 

玉ねぎのイラストでもいいので、「生玉ねぎが入っています」が瞬間でわかるような表示になるといいなと願っています。

あるいは他の野菜に混ぜ込まないで、上に乗せて存在をアピールしてくれればいいかもしれません。

 

生玉ねぎの伏兵(ふくへい)と、私は密かに警戒しています。

 

 

 

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新生児のあれこれ 62 馬の「新生児」

中神バス停から佐倉行きのバスに乗りました。すぐ隣りが「水神」バス停です。「すいじん」と読むようです。途中下車はあきらめて、何が名前の由来なのか見落とさないようにと車窓を眺めました。

小さな石の祠が見えたのですが、それだったのでしょうか。もう一度歴史民俗資料館に引き返したくなりました。

 

右手に利根川の堤防が見え始めると、道路の右手の電柱に表示されている住所は「千葉県佐原市」、左手は「茨城県稲敷市石納(こくのう)」で、あの利根川の旧河道と思われる境界線に近づきました。地図では国道125号線よりももっと南西に県境があるのですが、国道沿いの住所表記では二つの県の間を走っているようになっていたのはなぜなのでしょう。

ここから東へと大きく迂回するように国道51号線へと入り、大きな橋がかかる利根川を渡って佐倉市へと入りました。

 

佐倉にある水神社を訪ねる予定でしたが、日が沈みかけたので断念してホテルにチェックインしました。

と、今日のタイトルと関係がない話ですね。

 

ホテルで千葉テレビをつけていたら開田高原の木曽馬の番組で、この日は美浦トレセンに続き馬に縁がある一日です。

 

 

*馬の出産*

 

木曽馬は、数年前に横浜の馬の博物館で見た野間馬と同じ日本在来馬のようです。

 

その番組は馬の出産、母馬の死亡、そして生まれて数日で子馬も死亡した記録で、こんなことをメモしながら見ていました。

馬の出産、チアノーゼ、頭から出た

17歳の馬、子宮脱で母馬死亡

他の馬の母乳をあげようとしたが、馬が授乳を拒否

「人工哺乳はやったことがあるが人間がしんどくなる」

「冷凍母乳を飲ませる、初乳を飲ませなければ生きていけない」

チューブで哺乳、250ml

体重測定、37キロ、木曽馬としては大きく体力がありそう

4日後死亡。冷凍母乳が足りなかった。免疫が不十分。

 

ヒトも胎児から新生児へと境界線を越える時には、真っ青というか紫色(チアノーゼ)の状態で生まれてきますが、馬も同じだと見入ってしまいました。

 

JRAの「馬の資料室」というブログの2015年2月15日の記事に、「4年前にAPGERスコアと呼ばれる子馬の評価方法が発表されました」という記述を見つけました。

ヒトの新生児の状態の評価方法として1953年に提唱されて現在も使われているアプガール・スコアが馬にも適用されているようです。

 

 

*馬の「新生児」期*

 

ところで馬も胎児・新生児と呼ぶのかと思ったら、その「馬の資料室」では「胎子」「新生子」という言葉が使われているようです。

 

いつでも蘇生術が必要な状況が出産で、子馬は生き残ったけれど母馬は死亡した。

ヒトの子宮内反症と同じような病態でしょうか、馬にも出産時の同様の死因があることを知りました。

 

母体から無事に独立しても生き延びるのが大変なのは、馬もヒトも同じですね。

ただし、ヒトの場合初乳は大事でも胎内で免疫を受け取っていない牛のように「初乳を飲ませなければ生きられない」ということはないので乳児用調整乳で育てられるようになりましたが、馬も牛と同じく、体力がありそうな出生時体重でも冷凍初乳が足りなくて死んでしまうことがあるようです。

 

「新生児期」、ヒトの場合は4週間ほどの時期ですが、母胎から独立して生き延びるための複雑な機能が発達する途上の時期であり、まだまだわかっていないことだらけだとちょっと仕事モードになって番組を観たのでした。

 

 

 

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米のあれこれ 51 「稲敷の干拓地」

稲敷市立歴史民俗資料館で購入した資料に、「稲敷干拓地」の説明が書かれていました。

 

 戦前の干拓事業の事業主体は多額の資金が用意できる個人がほとんどであり、戦時体制による資源・労働力不足で事業が停滞しがちだった。戦後になると外地からの引揚者、農村の次男三男救済、食糧難の解消などのため干拓は急速に進み、法改正などもあり国や県がその計画を代行事業として継続することが主流となった。

 霞ヶ浦一帯には戦前・戦後にまたがり多くの干拓地帯がある。市内にも大規模な干拓地域が複数あり、平で広い美田が広がっているが、その干拓事業には先人の多くの時間と労力がかけられた末、完成している。

 

 

*「稲敷市内の主な干拓」*

 

八つの干拓地の説明がありました。

 

<甘田入(あまだいり)干拓

 大正10年(1921)に竿代文蔵(須賀津)が起工式を行ったが着工は遅れ、大正15年(1926)に植竹庄兵衛が工事請負人となり昭和7年(1932)に一応の完成を見る。

稲敷市の北部の霞ヶ浦沿岸のあたりに「西の洲甘田入土地改良区」とあるので、そのあたりでしょうか。

 

<野田奈(のだな)川干拓

 昭和6年(1931)に関谷友吉を中心として霞ヶ浦公有水面埋立の免許を得て翌年に工事着手。昭和10年に三度の洪水にみまわれ堤防が崩れるなどするも、関谷友吉にちなみ字名に

「関谷」と命名された地名が残る。

野田奈川は見つかりましたが、関谷がどのあたりかはわかりませんでした。

 

<江戸崎入(えどさきいり)(稲波いなみ)干拓

 榎が浦と呼ばれた入り江を干拓したもの。昭和14年(1939)に事業家の植竹庄兵衛が着手。昭和23年には県の代行事業に、のちに国の代行事業となる。完成したのは昭和32年(1957)だが、それ以前の昭和20年代から入植者の受け入れを行っている。

稲敷の稲波を訪ねた時も、実はなんと読むのか正確には知らなくて、「いななみ」かと思っていました。学芸員さんに「いなみ」と教わったのでした。

 

<本新島(もとしんじま)干拓

 昭和17年(1942)に斉藤藤次郎が埋立免許を取得しているが着手されないまま戦後となり、昭和20年(1945)に株木政一が埋立免許を得る。その後国委託事業隣、昭和23年(1948)以降は県が代行して干拓を進め昭和32年(1957)に竣工する。

歴史民俗資料館があった八千石の北東に「本新」という場所があるので、この辺りでしょうか。

 

これ以外に、「大重地区(昭和38年、1963年)」「余郷入(鳩崎)(昭和41年、1966年)」「西の洲(昭和42年、1967年)」「羽賀沼(昭和48年、1973年)」があるようです。

 

あの美浦(みほ)トレセンの近くで見た馬の蹄鉄のような形の水田地帯は昭和41年に完成した干拓地だとわかりました。

 

 

*「最後の干拓地」*

 

Wikipedia「霞ヶ浦」の歴史の「現代」に、中止になった計画もあったことが書かれていました。

なお、太平洋戦争前から霞ヶ浦干拓が進んできたが、最後の干拓地であった高浜入干拓は米の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動に遭い、漁業権の補償金が支払われたまま1978年に事実上の中止が決定している。

 

私が高校生の頃の時代の変化です。

祖父母の世代がちょうど干拓が盛んに行われた年代にあたりますが、祖父母の世代もまた驚異的に変化する時代にさまざまな葛藤を抱えていたのですね。

 

霞ヶ浦の水害*

 

上記の野田奈川干拓に「昭和10年に三度の洪水」とあり、霞ヶ浦の水害は記憶にないので不意打ちでした。

 

Wikipediaの「霞ヶ浦」の「歴史」に近代の水害が書かれていました。

明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。しかし、足尾鉱毒事件の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。しかし、1938年6月に「昭和13年の洪水」と言われる霞ヶ浦の近代治水史最大の大洪水が発生する。さらに1941年には「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。

 

どのような規模の水害だったのでしょう。

干拓の歴史をたどることで、また次々と知りたいことが出てきます。

 

 

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生活のあれこれ 18 当時の生活が感じられそうな地図

稲敷市立歴史民俗資料館の「平成二十八年度 冬季企画展 稲敷の景観ー変化する道・水辺・交通ー」稲敷干拓の歴史が書かれていたので2ヶ月前に購入したのですが、こうした資料は散歩の記録を書く時にようやく真剣に内容を読み始めます。

 

最初の数ページに古い地図があったことも購入の決め手になったのですが、そのままになっていました。

改めて見直して、息を呑むような精緻な地図です。

 

明治の稲敷ー迅速測図でみる地形の変化ー

 

 明治維新後の明治10年に起こった西南戦争において、軍事に利用可能な地図の必要性を認識した陸軍参謀本部が、明治13年から明治19年に作成したのが「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」である。日本における初めての広域測量の成果として著名であるこの原図は、関東平野のほぼ全域と房総・三浦半島を範囲として、等高線などによる地形表現の他、巧みな色彩が用いられるフランス式の彩色図である。欄外には土地を代表する風景や著名な建物、または軍事上の必要から河川断面や橋の構造のスケッチが水彩により施され、一般の地図よりも多様な情報が盛り込まれている。

 しかし間もなく軍制がフランス方式からドイツ方式に移行し、ドイツ方式による一色刷の「迅速測図」が公刊されたため、フランス方式の「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」はその高い完成度にもかかわらず、日の目を見ることなく保存されてきた経緯を持つ。

 次項より掲載するのは、財団法人日本地図センター発行「明治前記手書彩色關東實測図 第一軍管地方二万分一迅速圖原圖覆刻版(1991)」から稲敷市部分をつなぎ合わせたものである。

 

2018年に地図と測量の科学館で行われた「近代測量の幕開け」展で見たフランス式からドイツ式への歴史とつながりました。

 

現代の地図も何時間見ていても飽きないのですが、その場所がどんな風景でどんな生活があるのかを想像することは難しいものです。

意図的か政治的かあるいは技術的な問題か、はしょられていたり、不正確だったりすることもあります。

 

その点、フランス式というのは現実の生活を知らなければ再現できないジオラマやボタニカルアートと同じで、切れ目なくその場の状況が描かれています。もちろん全てを書き込むことは不可能ですが。

近代的な地図は正確な測量による科学的手法によって作られているのですが、むしろ絵画のようなフランス式の地図の方が「そのものの特性を変えない」という意味では科学的のような面もあるようながしてきました。

 

「フランス式からドイツ式へ」の最後で、こんなことを書いていました。

歴史にもしはないというけれど、もしフランスが勝っていたら、もしそのままフランス式地図が作られていたら、風景や人々の生活も描かれる地図が残されていたかもしれませんね。

 

最近はさらに、人々の生活を想像しやすいフランス式の地図をそのまま採用していたら、その生活や風景を一瞬にして破壊してしまう行動へ向かう雰囲気をもう少し抑えることができたのではないかと妄想しています。

隅々まで細かく地図を描くためには、その地域をくまなく歩き、そこに住む人とも関係ができていなければできないことですしね。

 

伊能忠敬「自分の体を使って測ることは測量の基本です」には、他の意味もあるかもしれないですね。

 

 

 

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記録のあれこれ 140 稲敷市立歴史民俗資料館

本当に歴史民俗資料館があるのだろうかと思うような、新利根川と広大な水田地帯という圧倒される風景のど真ん中で下車しました。

 

中神バス停から1.5kmほど東は霞ヶ浦への入江で、そこからさらに2.5kmほど南東に常陸利根川があります。

周囲には「新田」がつく地名があり、資料館があるあたりはその名も「八千石」でした。

 

バス停からは新利根川の対岸に歴史民俗資料館の建物が見えて、ホームページの「アクセス」では20分になっていましたが10分もかからなそうな距離です。

ところが歩き始めてその意味がわかりました。新利根川にかかる橋のたもとまで北側へと大きく迂回する必要があったからでした。

橋の真ん中では360度、視界をさえぎるものがない田園地帯と遠くの山並みが見えます。橋を降りたすぐそばに「農林水産省十余島用水機場」という大きな施設がありました。

 

田植えから稲刈りまでの時期はさぞ壮観な風景だろうと想像しながらまっすぐの道を歩いていると、「想定浸水深 3.4m」の標識があり、赤い印は電柱の見上げる高さです。

よくよく読むとすぐそばの新利根川ではなく、「この標識は利根川がはん濫すると最大3.4m増水する可能性」と書かれています。

利根川左岸の堤防から3kmほど離れています。

 

 

稲敷市立歴史民俗資料館*

 

あまり想像したくない洪水のことを考えているうちに、図書館と歴史民俗資料館につきました。

大きくて立派な建物で、入り口には第7代横綱「稲妻雷五郎」の展示がありました。

 

中の展示は写真撮影ができなかったので記憶が薄くなってしまったのですが、霞ヶ浦周辺の変遷がわかる航空写真がありました。

ここから南東2kmほどの利根川左岸の堤防のあたりに、「野間谷原」という千葉県の飛地があります。想像していた通り、かつての旧河道だったことがその展示でわかりました。

 

資料館発行資料に「写真で見る干拓史」がありました。残念ながら完売のようですが、諦めきれずに職員の方に声をかけました。やはり残っていないようです。

「平成二十八年度冬季企画展 稲敷の景観 ー変化する道・水辺・交通ー」に「稲敷干拓地」の説明があると教えてくださり、購入しました。

 

干拓について素人の関心だけれど今回は江戸崎から稲波を歩いてきたことを話すと、この地域のことをいろいろと教えてくださいました。

「桜川、漁業権がある頃は大きなタイが海から来た」「桜川の干拓、他の地域に比べて貧しかった」

「1963年に治水と塩害防止を目的として竣工した常陸川水門」による淡水化(Wikipeida「霞ヶ浦」「地理」)の頃の変化でしょうか。

桜川で地図内を検索すると、資料館から北西1.5kmぐらいの場所で現在は内陸部に見えます。

 

稲波、受刑者を干拓時に使って亡くなった。

利根川開削時、マムシヒルなどがいる泥沼のような中に入っての作業で大変だったらしい。

利根川の左岸と右岸で言葉が違う。宗教も天台宗真言宗の地域に分かれる。

2011年の大震災では近くの牧場が液状化の被害を受けて大変だった。

 

これからあちこちの「水神」を訪ねる計画を話すと、「水神社はあちこちにある。それぞれの家で氏神の担当がある」と利根川沿岸の水神についても教えてくださいました。

途中バスの車窓から見えた「十三塚」についての南北朝の頃の話から現代の話まで、尽きることなくあっという間に30分ほどが過ぎました。

もしかして学芸員さんですかと尋ねるとそのようで、お忙しい中お時間を頂いてありがとうございました。

 

そしてこの稲敷市立歴史民俗資料館を訪ねて良かったと一番印象に残ったのが、この資料館を建てられた方が後世に「水田を造る大変さを伝えるため」であったというお話でした。

 

帰りに、外に展示されていた黒いオブジェのようなものに近づいてみました。

ディーゼルエンジン」「大須賀第2機場揚水ポンプ」、これもまた水田の記録の一つだったようです。

 

ディーゼルエンジン

 この大型エンジンは、昭和28年に完成した本新排水機場の2基の排水ポンプの補助動力として、昭和29年に設置されたものです。

 ◯◯(字が消えて読めない)干拓は、霞ヶ浦の水面より土地が低いため、つねに排水をする必要があり、台風等による停電や、モーターの故障時にモーターに代わり使用されていました。

大須賀第2機場揚水ポンプ

 このポンプは、昭和27年に農林省により、水田の用水を汲み上げるため、大須賀第2機場(幸田)に設置されたもので、平成3年新たな土地改良事業により新農場が完成するまで、40年にわたり周辺700haの水田に用水を供給してきました。

 

 

資料館のそばの新利根川右岸に小さな神社があります。立ち寄ってみました。

御由緒などはなく、堤防より一段低いところに小さなお社がありました。そして堤防に赤い鳥居があって、新利根川へと参道がありました。

舟で参拝していたのでしょうか。

 

水田地帯の真ん中にある歴史民俗資料館と学芸員さんからのお話、なんとも充実感に満ちてバス停へと戻りました。

 

 

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散歩をする 414 古渡から中神へ

稲波の干拓地内の道から霞ヶ浦の見える国道125号線から古渡(ふっと)橋を渡るまでは車やサイクリング車が多い道で、この先狭い歩道を歩くのはちょっと怖いなと思っていると、途中の角をほとんどの自動車が曲がっていなくなりました。地図で確認するとその先の県道206号線への抜け道があるようです。

みなさん、どこへ行くのでしょう。

 

車がほとんど通らなくなった国道125号線は、昔からの街道を思わせる雰囲気でした。

12時48分に古渡バス停に到着したのでバスが来るまで27分ありますが、周囲には腰掛ける場所がなさそうです。

「古渡」、名前からしてどんな街か気になったのですが、江戸崎から休むことなく歩いてきたので周囲を散策する余力がなく、立ったままそばの梅の木のつぼみを眺めて過ごしました。

 

「古渡」を検索してみると、「こわたり」「ふるわたり」「こと」などさまざまな読み方があるようです。

「こわたり」だと「古く外国から渡ってきた品物」(コトバンク日本国語大辞典)、「こと」だと「ふるびた渡し場」(同)で、読み方が違うと意味も違うようですが、「ふっと」の説明は見つかりませんでした。

場所的には霞ヶ浦に面した渡し場のように想像したのですが。

 

 

*バスに乗って中神バス停で途中下車*

 

13時17分、佐倉行きのバスが到着しました。ここから国道125号線沿いにバスは走り、その名も「幸田(こうだ)」という利根川左岸の水田地帯のあたりで東へと曲がってしばらくすると新利根川沿いに水田地帯を走って、また南へとぐいと国道が曲がるとあたりに「水神」という地名があります。

最初、水神地区を歩いてみたいと思ったのですが、その手前の中神バス停のそばに稲敷市立歴史民族資料館があることに気づき、訪ねてみることにしました。

 

ところで国道125号はどこからどこまで行くのかと思ったら、なんと「千葉県香取市から茨城県を経由して、埼玉県熊谷市に至る」とあります。昨年12月に訪ねたあの利根川中流のあたりまでつながる道の歴史はどんなことがあったのでしょう。

 

バスは、山間部のような場所へと入って行きました。国道ぞいに細長く集落があり、黒い瓦屋根の立派な日本家屋があちこちに見えました。どんな歴史や生活があった地域なのでしょう。

途中、「十三塚、殉職」という文字が見えました。帰宅したら調べてみることにしましょう。

華やかなお寺や神社があり、長い歴史があったことを感じさせる風景が続きます。

左折して下り坂になると、新しく開けた住宅地が増え、また下ると目の前に水田地帯が見えて幸田地区になりました。「福田」「町田」と田がつく地名が近接しています。

 

用水路のような川のそばを走ると、しばらくすると右手から悠々と流れる新利根川が近づき、そのすぐそばを走りました。

まっすぐ幅の広い川が見渡す限りの水田地帯に通っています。

 

「新利根川」、てっきり近代の水路かと思ったら江戸時代の「新川」でした。

印旛沼手賀沼干拓の際、利根川の水位を下げる為に江戸時代寛文年間に付け替えた利根川の新川である。開削作業は1662年(寛文2年)に起工、上流側(押付側)から工事が進められ1666年(寛文6年)に竣工した。しかし流路が直線になり、また水深が浅い為流速が速いことから水運のために使われるようになっただけでなく、流域の沼地が水害を被るようになったため、竣工から僅か3年後の1669年(寛文10年)に新たに小貝川に水門を設け沿岸の海岸用水路として使われるようになった。

 

以来、360年ほどの間、小貝川から取水した水が流れ続けているようです。

なんだかまた圧倒される風景のど真ん中に中神バス停があり、下車しました。

 

 

 

*おまけ*

 

「寛文年間(1661~1673年)」を散歩や遠出をするようになってよく見かけるようになりました。

過去の記事の中でもこんなことを書き留めていました。

千葉県、干潟駅周辺の干拓

倉敷、玉島地区の干拓

野火止用水の水路橋

佐世保、佐々川の新田開発

八戸藩から江戸への廻米

備前の井田(せいでん)制

深良用水

高泊開作

 

そのさらに一世紀後「1772年(享保7年)新田開発奨励策」が奨励され、新田開発が本格化した(Wikipedia、見沼代用水より)へとつながっていくことが、おぼろげながら私の中の年表に整理されてきました。

 

 

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水のあれこれ 284 うねる

抵抗のない泳ぎを試行錯誤していくうちに、「うねる」とか「うねり」という感覚が最近わかってきました。

 

体幹のローリングとともに、泳いでいる時に上体が少し上に向くような角度で水から少し出た状態だと水の抵抗が少なくなる感じです。

独学ですが水泳の本を読んだり、解説者の方々の説明を聞いたりしていた時に、どこかに記憶に残っていました。

 

競泳選手の泳ぎを見ていて、まるで船首が少し波の上に出て水をかき分けていくような泳ぎ方だなという印象があったのですが、なかなかそのコツを掴むまでには時間が必要でした。

というのも、うねりに乗りながら泳ぐにはそれなりのスピードも必要というあたりでしょうか。

 

ところで「うねり」を漢字で書くとどうだったっけと検索して驚きました。

「畝り」なのですね。

てっきり水に関係していて「さんずい」がつくような気がしていました。

うね・る

《名詞「うね(畝)」の動詞化》

デジタル大辞泉

 

「畝」は中学校三年生で習う漢字だそうです。

どこかでその学習の記憶が途切れてしまっていたのでしょうか。

 

大昔の人たちが、畑のと山波や海や川の波を結びつけてとらえるようになって、共通した概念になっていったのはいつ頃からだったのでしょう。

そんなことを考えて泳いでいたら、何だか手足がギクシャクして変な泳ぎになってしまいました。

 

 

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境界線のあれこれ 105 水の中の男女差、公平と自由

つい最近、2位、3位の選手よりもひときわ大きい体格の競泳選手が1位で表彰台に乗っている写真を見かけました。

2年ほど前から話題になった選手でしょうか。当時、アンチ・ドーピングという正義と信念の運動も吹き飛ぶぐらい、こういう方法での競技への参加について今後どうなるのだろうと思っていました。

 

 

*水泳の男女差はどこからくるのだろう*

 

男性から女性になって女性の競技に参戦するなんて「究極のドーピング」だと、最初の頃は思っていました。

競泳大会の結果を見ると、男女の記録の差は歴然としていますからね。

数年ぐらい前から、4種目を男女2名で組んだチームで競う男女混合リレーが取り入れられたのですが、これくらいが競泳の「男女差」に挑戦する限界だろうと思っていました。

 

ただし選手ではないごく普通に泳いでいる人たちを見ると、水の中ではあまり男女差や年齢差、そして体格差でさえ感じないことが多いです。

 

がっしりとした大柄な体格の筋骨隆々で陸上では太刀打ちできなさそうな男性が全力でキックしながら泳いでいる横を、中高年の女性がスーッと追い越していくこともあります。

あるいは背丈も違う大人がガシガシと泳いでいる横を、おそらく選手コースで水泳を習っている小学生がスイスイとアメンボのような軽さで抜いていきます。

このあたりは、泳ぎの技術かもしれませんね。

 

性別も年齢も体格も関係なく、水の中では自由度が高いことも私が泳ぎ続けている理由の一つです。

 

では、選手レベルになると何が違って、男女の泳ぎの差が出てくるのだろう。

最近、そんなことを考えながら泳ぐことが増えました。

 

*競泳レベルでの男女差はどこからくるのだろう*

 

Wikipediaリア・トーマス選手の「水泳選手としてのキャリア」に、ホルモン補充療法を始めてからの状況について書かれていました。

テストステロン抑制とホルモン補充療法を続けるうち、トーマスの身体からは筋量や筋力が失われていった。性別移行のための治療を受ける前と比較して、500ヤード自由はベストタイムから15秒以上も遅くなった。遠距離での競技成績は2019年がピークであり、2021-2021年シーズンの記録は低迷した。短距離種目では、2021-2021年シーズンの序盤ではタイムが落ちたものの、その後2021年には100ヤード自由形でほぼ自己ベスト記録を達成し、50ヤードでは個人の自己ベストをだした。

 

2018-2019年シーズンでは男子チームに所属し、個人成績は200ヤード自由形で554位、500ヤード自由形で65位、1,650ヤード自由形で32位だった。2021-2022年シーズンでは女子チームに所属し、200ヤード自由形で5位、500ヤード自由型で1位、1,650ヤード自由形で8位になった。

 

女性になっても男性だった時期よりも自己ベストが出たり、全米の男女別の順位の変化を見ると女性としてはこれだけ上位になるのかと驚きましたが、圧倒的に強いというわけでもなさそうですね。

2022年、トーマスはNCAAディヴィジョン1の全米選手権で女子500ヤード自由形を4:33.24のタイムで勝ち、全競技を通じてNCAAディヴィジョン1で優勝した選手で最初の、トランスジェンダーであることをオープンにしたアスリートとなった。この大会でオリンピック銀メダリストのエマ・ワイアントはトーマスに1.75秒差の二位だった。ケイト・ダグラスがNCAAの記録を18回更新した一方で、トーマスはNCAAの試合では何の記録も更新することはなかった。実際、、トーマスが優勝したタイムはケイト・レデッキーが持つNCAAより9.18秒遅い。200ヤード自由形の予選で、トーマスは2位におわった。決勝では1:43.50のタイムで5位だった。100ヤード自由形では10位で予選を通過し、決勝では48.18のタイムでファイナリストで最下位の8位に終わった。

 

レデッキー選手は身長183cm、トーマス選手もほぼ同じくらいのようです。

筋力でも筋量でもない、男性から女性になってどのような泳ぎの変化になったのでしょう。

 

国際水連の決定*

 

昨年6月に国際水泳連盟が、この問題に対して境界線を引いたようです。

国際水泳連盟FINA)は19日、トランスジェンダーの選手について、男性の思春期をわずかにでも経験した場合は、女子競技への出場を認めないことを決めた。

FINAはこの日、世界選手権大会が開催されているハンガリー・ブタペストで臨時総会を開き、新方針を決定した。

性自認が出自の性別と異なる選手のため、大会において「オープン」というカテゴリーの設置を目指すことも決めた。

新たな方針は、FINAのメンバー152人の71%の賛成で可決された。FINAは、トランスジェンダーの選手の「完全参加に向けた第一歩に過ぎない」とした。

新方針に関する34ページの文書は、男性から女性になったトランスジェンダーの選手でも、「タナー段階2(身体的発育が始まる時期)以降の男性の思春期をまったく経験していないか、12歳前の、どちらかであれば、女子のカテゴリーの出場資格があるとしている。

 

国際水連トランスジェンダー選手の女子競技への出場を禁止」(BBCニュース、2022年6月20日

 

 

パンドラの箱を開けたのか、それともより自由で公平な世界へとまた人類は進化するのか。

人類というとらえかたの究極の理想に対して、さまざまな葛藤と反動で議論を重ねながら、どういう方向に進むでしょうか。

 

ただ、欧米のと一括りにしてよいのかわからないのですが、我こそは正義、あるいは自由は認められるべきのような推しの強さがどんどんと世界を変化させていきますね。

本当にそれで良いのだろうかと逡巡することも増えました。

 

そのうち、女性から男性になって男性の競技大会に挑む人も出てくるのでしょうか?

その方向の可能性は少なさそうですが。

 

「公平」とか「自由」ってなんだろう。

こういう葛藤を経て、また一世紀後には何か普遍的なことを得ていくのかもしれませんね。

 

 

 

「境界線のあれこれ」まとめはこちら

 

米のあれこれ 50 稲敷の稲波

稲敷の稲波」、目の前に黄金色の稲穂が広がる中にふと飛び込んでいく呪文のようですが、稲敷市稲波です。

地図で見つけてぜひ歩いてみたいという願いが叶いました。

正式には「江戸崎入干拓地」のようですが、「えどさき街並みの歴史その3 江戸崎の拡散・再興期」に説明がありました。

 

江戸崎入り干拓事業と植竹庄兵衛氏

 大正時代からは、食糧増産をねらいとした干拓事業が霞ヶ浦沿岸各地で始まり、江戸崎まちなか地区では、昭和11年群馬県出身の植竹庄兵衛による江戸崎入干拓が始まります。太平洋戦争をはさんで、江戸崎入干拓は国営事業として続けられ、昭和33年に完工しました。植竹氏の居宅だった「大日苑」は、干拓地を見下ろす高台に、時代を象徴する威容を誇って現在も建っています。

 

干拓地を見下ろす高台」に立つという大日苑に気づかなかったのですが、崖の上と下ぐらい水田地帯は低い場所にありました。

 

その説明の次に「小野川に架橋し線路を引き、土砂を対岸の羽生地区の捨て場までトロッコではこぶ様子が詳しく図説」された「当時の江戸崎入り干拓事業の施工工事の状況」を描いたものが掲載されています。

当時の干拓事業の様子がわかる、こうした絵は本当に貴重ですね。

 

 

*「稲波干拓・稲波干拓の歴史」より*

 

もう少しこの干拓事業について知りたいと思っていたところ、その稲敷市稲波でお米を栽培・販売されている「田んぼ屋」さんのサイトに詳しく書かれていました。

 

1) 江戸崎入干拓計画

準用河川小野川が霞ヶ浦流入する河口に榎が浦と称する225町歩の遊水地があり、早くから干拓適地として注目されていました。しかし、小野川の遊水池としての使命や沿岸農民の反対、軟弱地盤のため、昭和10年度に茨城県の県営干拓事業として着工したものの、予想以上の難工事となり、放置されていました。

 

その後甘田入干拓(旧桜川村)完成の経験を生かし、耕地整理法に基づく補助事業として、この工事を再開するため、昭和14年11月、植竹庄兵衛氏を代表とする、江戸崎入干拓耕地整理組合が結成され、官民多数が列席し、江戸崎農学校(現 江戸崎総合高等学校)に於いて華々しく起工式が行われました。

 

仕切り直しとなった干拓事業ですが、実際に工事を再開したところ、小野川ぞいの締切堤防は沈下に沈下を重ね、加えて選挙区の窮通はこの事業にも極端な労力難、資材難をもたらし、事業の進歩を阻害しましたが、当時の水戸刑務所所長はじめ、入植者等官民一致した努力と超人的な努力で昭和22年に堤防は一応締切られました。

 

昭和23年より、法律改正に伴って干拓事業は国の直轄事業となり、茨城県が代行して事業を行い、昭和33年に建設工事の全量完成しました。

 

この20年にも及ぶ工事期間に約1億800万円の国費が投入され、その甲斐あって、地区総面積227町5反9畝、内耕地面積は178町6反8畝が造成され、ここに富山県より36戸、ほか69戸、計105戸の新規入植者と、江戸崎町より270戸、桜川村より64戸の計334戸の増反者が土地の売り渡しを受け、営農に従事し、年間平均1万5千俵の米が生産されるようになった。

 

2) 昔の営農組織

昭和24年の本組合の営農組織は、6戸を一組とした組(班)を5組編成し、それぞれの組毎による組合分割共同作業で運営されていました。まだ農道はなく、排水路も未完成であり、水田とは名ばかりで、夜明けに星を載き、夕べに月を望みつつ、腰から胸まで泥田に漬かりながらと、現在では想像もつかないような重労働の連続でした。

 

同年秋は豊作と見られていましたが、キティ台風により稲作の大半が倒伏して、冠水し、結実不良や穂発芽となってしまい、被害は甚大でした。この惨禍の中、組合員は日没まで稲刈りを行い、刈り取った稲束を舟で運び、荷車に満載して一台に十数人が取り付き、『エイヤ、エイヤ』の掛け声はよる遅くになっても離れた住宅まで響いたとのことです。

 

 

4) 稲波誕生まで

足かけ20年に及ぶ干拓事業が完了し、翌年の昭和34年の農地売り渡しと同時に、この地の名称が「稲波」と正式に命名されました。それ以前は正式地名が無く、「干拓」「砺波」「佐倉川岸」「外浦」などと呼ばれていたそうです。ここ砺波干拓は富山の出身の人が多いのですが、富山の実家から送られてきた荷物が他の開拓地に行ったこともあったそうです。

 

稲波に正式に決定してからも地域にはなかなか浸透せず、小学校や中学校での地区名は「外浦」が使われていたそうです。地区名決定については、当入植組合は「砺波」を主張したが(富山県出身で砺波の人が多かったため)、他の入植組合から強硬な反対を受けたそうで、「稲の波のような地に」の願いと、字面から稲波(いなみ)も砺波(となみ)を連想できるという意見があり、現在の稲波に落着したそうです。

 

 

5) 稲波に残る富山

富山県からの入植者が多いことにより、富山から持ち込んだ今も残る風習の代表格に、跡取り息子が数え25歳と、42歳の厄年を迎える際の祝いの席があります。地域の人たちから見れば厄年を祝うこと自体が奇妙に見えるようですが、仏教が盛んな地域に共通な風習らしく、似たような行事は富山以外にもあるそうです。近所や、親戚、友人達と厄を分け合い、今後もお互いに健康に。という願いが込められた風習と思われます。結婚式に先立ち、仏壇にお参りする風習もこの地域の人達には珍しいことです。

 

富山弁は一世の人達の言葉の端々にまだ色濃く残るが、茨城弁とかなり交じり合っており、二世の年長者の口からも、時折富山弁の名残りを聞くことがあります。しかし、三世にとっての富山弁は郷愁を誘うことなく、他所の言葉のイメージだけの存在です。

 

食べ物では砺波出身の家庭ではカブラ寿司、新川地方であれば押し寿司を折りに触れて作ることがあります。そのほか、よごし(野菜の味噌和え、あるいは胡麻和え)やべっこう(しょうゆ味の寒天寄せと表現すべきか)も富山から伝わりました。山菜のゼンマイが食べられる事をこの地域の人達に教えたのも入植者たちでした。

 

 

6) オオヒシクイ

天然記念物のオオヒシクイが関東で唯一稲波干拓地に越冬のために、毎年冬に飛来してきます。古い観測では昭和50年に50羽のオオヒシクイが確認されていました。テレビや新聞でその姿が紹介されるようになってからは、大勢の人たちが稲波干拓を訪れるようになりました。

 

(通し番号は原文のまま、3は無いようです)

 

 

干拓地になるまで、そして干拓地として入植してからの生活を思い浮かべられるような大事な記録ですね。

地図で見つけた小規模な干拓地でしたが、ここまで歴史を知ることができるとは思っていませんでした。

 

 

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