菠薐草

今日もまた呪文のようなタイトルです。
これなら勘で読めそうですが、書くのは難しいかもしれませんね。


先日、岡山を散歩していて、あちこちに緑の葉っぱが育っていました。
ここ2週間ほど、スーパーでもほうれん草が安くなり、1束80円ぐらいなのでとてもありがたく買っています。高い時には300円近くなりますからね。
ほうれん草は、祖父のことを思い出す植物のひとつです。
祖父の家で食べたほうれん草ですが、それを畑で見た記憶はなくなっていたので、あんな感じで育っていたのかなと懐かしくなりました。
そして祖父のことを思い出すとともに、半世紀前のほうれん草と現在のものとの違いをあれこれと思い出しています。


祖父の家でほうれん草を食べた記憶は、冬休みでした。
ほうれん草というのは、葉っぱの青さと根の部分の赤さのコントラストが見た目には美しいのですが、根っこに近い部分の味は子どもだった私には苦手でした。
そんな私に、根っこの部分だけ山盛りにしたお皿を持って、祖父は「おいしいな。根っこの部分は甘くておいしい」と食べて見せるのでした。
そして「ほうれん草は寒さにあたると、ますます甘くなっておいしい」というようなことを言っていた記憶があります。


最近は、テレビのグルメ番組などでみんなが何に対しても「あま〜い!(おいしい)」と表現するのですが、半世紀前には「あまい」は「砂糖などの甘さ」でしたから、食事で甘い味付けのものは気持ち悪い味に思えて、私はほうれん草の根っこの部分がますます苦手になったのでした。
今でも、料理を「甘い」と受け止めるのは苦手なのはこの辺りに理由があるのかもしれません。


ほうれん草は好きなのですが、今に至るまで、調理の際には「おじいちゃん、ごめんなさい」と心の中で思いつつ、赤い部分は捨てて緑の葉っぱだけを食べています。


<ほうれん草の半世紀>



半世紀前に食べていたほうれん草と、最近のほうれん草は少し変化したように感じています。
まず、あの苦手だった赤い部分が全体に小さくなったように感じます。子どもの頃は根っこの1cmぐらいはかなり濃いピンクで独特の味があり、そして2〜3cmぐらいはピンクから緑のグラデーションの部分があったような記憶があります。
最近は、ほとんど緑で、赤い部分もほとんどなくなったかのようなほうれん草が多く感じているのですが、真偽のほどはいかに。
そして、子どもの頃はほうれん草というとアクが強い野菜の代名詞のようなもので、必ず下ゆでしないと口の中がなんともイガイガした感じになりました。
最近は、そのままスープにしたり炒めても、アクを感じないので手間が少なくなりました。


あまりに身近な野菜すぎて検索することもなかったホウレンソウですが、ググってみるといろいろと勉強になりました。


まず、やはり「生食用など例外はあるが、灰汁が多いので基本的に下ゆでなどの加熱調理が必要になる」とあります。
子どもの頃から、「ほうれん草はシュウ酸が多いので結石の原因になる」と母親から聞かされていました。食べる頻度や量にもよるのかもしれませんが、やはり下ゆでをした方が良さそうですね。


アクの強さには、品種の違いもあるようです。
JA全農やまぐちの「正直通信」の「ほうれんそうのお話」にこう書かれていました。

ほうれんそうの品種には、東洋種と西洋種があります。東洋種は、葉が細くて先がとがっていて切れ込みがあるのが特徴。アクが少なくおひたしなどに適しています。西洋種は、歯が丸く切れ込みがなく、西洋種(*おそらく東洋種の間違い)より葉に厚みがあるのが特徴。アクは東洋種より強く、葉が肉厚なので炒め物などの高温で調理する料理に向いています。
現在お店に出回っているほうれん草の多くは、この2種類の特性を生かした交配種で、さまざまな料理にも合い、栄養価も優れています。


東洋種と西洋種の歴史についてはWikIpediaに書かれていました。
葉が厚くてがっしりした感じのほうれん草の方が、日本に昔からあるものだとずっと勘違いしていました。

ホウレンソウの原産地は、中央アジアから西アジアカスピ海西部近辺と見られているが野生種は発見されていない。初めて栽培されたのはアジア、おそらくはペルシア地方(現在のイラン)だったと考えられている。ヨーロッパには中世末期にアラブから持ち込まれ、他の葉菜類を凌いで一般的になった。東アジアにはシルクロードを通って広まり、中国には7世紀頃、日本には江戸時代初期(17世紀)頃に東洋種が渡来した。伊達政宗もホウレンソウを食べたという。19世紀後半には西洋種が持ち込まれたが、普及しなかった。しかし、大正末期から昭和初期にかけて東洋種と西洋種の交配品種が作られ、日本各地に普及した。

日本では西洋種(葉が厚く丸みを帯びている)と東洋種(葉が薄く切り込みが多く根元が赤い)の2種類が栽培されているが、東洋種は病気、寒さに弱く虫がつきやすいため栽培が難しいという理由によりここ数十年の間に急速に西洋種もしくは西洋種の一代雑種に取って変わった。現在国内のスーパーで見かけるほうれん草は大半が西洋種であるが、東洋種の味の良さが近年見直されている。

祖父が青年になった頃に、交配品種が広がり始めたようです。



残念ながら、あの赤い部分の比率がどう変化しているかについては書かれていませんでした。
私が食べた祖父のほうれん草は、どんなほうれん草だったのでしょうか。

観察する  58   <自然の定点観測>

近所の庭の沈丁花を毎日のように眺めて通るのですが、今年は11月5日に小さな固いつぼみが出始めているのに気づきました。
大きさにして数ミリぐらいでしょうか。
いきなり一晩で数ミリになったとは考えにくいので、やはり毎日見ているようで見ていないものですね。


11月5日に気づいたということは、正確です。
気づいた時点で、iPhoneメモをしておきましたから。
それからは、どれくらいの速度でつぼみが成長していくものなのかを気にしているのですが、3週間ほどたった今も大きさはそれほど変わらないようです。
目視だけなので「変わらないようです」と曖昧な表現なのですが、本当は定規で測ったり写真を撮って見比べたいけれども、人様の庭なので躊躇しています。


昨年は近所の庭では沈丁花のつぼみが12月初旬ですでにふくらみ始めていると書いたのですが、今年は暑さのせいでさらに早くなったのか、それとも単に、昨年も11月から膨らみ始めていたのに私自身が気づいていなかったのか、植物の毎年の変化でさえ案外といい加減な記憶しかないものですね。
来年はぜひ、花が咲き終わったあたりから毎日観察してみようと思います。


<自然は刻々と変化する>


時々、ふらりと海を見に行きたくなるので、先日出かけました。
季節外れの海ですが、やはり同じような方が数人いました。
どーん、どーんと寄せては返す波を見ているだけで、飽きることはありません。
30分ほど経つと、波が1mほどさっきよりは近づいていていることがわかりました。
満潮の時間のようです。
数分ぐらいではわからない変化も、30分ぐらいすると結構はっきりしてくるものですね。


そのときに、ふと空を見上げたら、雲も刻々と変化していました。
横にすっと長細い雲だけだったのに、波に気を取られている数分の間に、積乱雲のような塊ができています。
よく見ると、雲の変化は1〜2分単位で、新たに小さな雲の塊ができてそこから形が変化しているようでした。


自然は刻々と変化している。
何をそんな当たり前のことに今さらという感じですが、目の前で新たに雲ができている様子にちょっと圧倒されました。
こうして現象を誰かがずっと見続けて、そして知識になっていく過程に圧倒された感じです。


ただただ事実を見続ける、定点観測は面白いものですね。
結論や結果を急がない忍耐が必要ですけれど。




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観察する 56   <花托から果托へ>

ひと雨ごとに気温が下がっていくこの時期は、夏が好きな私にはちょっと寂しい季節です。
まあ、今年はさすがに 暑さが災害になるほどなので、もう十分かなとは思いますが。


さて、学生の皆さんはちゃんと夏休みの課題を終えたでしょうか?
私は今年は是非、新芽からの蓮の成長を見届けようという目標を立てたのに、ほとんど実現できませんでした。
暑かったし、いろいろと忙しかったしと、自分に言い訳している大人ってダメですね。
まあ、今年は古代蓮を見に行ったので良しとしましょうか。


9月に入って、まだ蓮の花が咲いているらしいと知って、不忍池に行ってみました。一面、濃い緑の大きな蓮の葉の中に、まだぽつんと蕾が残っていてそれもまた風情があります。


面白いのは、この時期にはさまざまな段階の蓮の花托を一緒に見ることができることでした。
こちらの記事で紹介した「季節の花300」の「花托ができるまで」の定点観測の写真にあるような、それぞれの日数の花托があちこちにあります。
色も大きさも、中の種の形や大きさも、そして花托の向きもそれぞれが違っているのですが、しばらく見ていると、だいたいどれくらいの時期のものなのか法則性のようなものが見えてくるようです。


2週間後、1ヶ月後と、この蓮の花托がさらにどのように変化していくのか、今度こそまた見にきたいと思いました。


<花托から果托へ>


Wikipediaハスの説明には、「日本での古名『はちす』は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのを通説とする」とあります。
花托の形そのものが本当に蜂の巣にそっくりですし、その中で種が大きくなっていくのも蜂の子に似ています。
あらためて、なるほどと思う説明です。


ところで、昨年はまだハスとスイレンの違いもわからないぐらいで、「花托」という言葉も初めて記憶されたくらい蓮について知らないことばかりですが、あの蓮の花の台座のような部分は「花托から果托へ」と変化するそうです。


花托について検索していたら、日本蓮学会というサイトがありました。学術的というより蓮好きの方々が作ったもののようです。
その中に「蓮の花の各部 5、『花托から果托へ、そして蓮の実へ』」という記事がありました。

蓮の花は開花から4日目に花弁が散り、花托になりますが、黄色系統のものは、雄しべが残るものがあります。散った後の花托は緑で、直径が5センチほどですが、受粉した雌しべは緑色からしだいに熟して茶褐色に変わり、20日ほどで受粉した雌しべは茶褐色の「蓮の実」になります。「花托」は「果托」に書き改めています。「果托」の直系も10センチから15センチほどに大きくなります。


すごいですね。蓮の花の変化はなんとなくのイメージで気にしていなかったのに、こんな詳細もきちんと観察されて分類されているのですから。


ところでWikipediaの「ハス」にはカンボジアの子どもがまだ青い果托を持っている写真、おそらく売り歩いているのだと思いますが、この日本蓮学会の「メシベとハスの実の話」の中にも「カンボジアの子どもたちは、まだ花弁がついているままの花托の実をとりだして食べていたので、私も真似をしてみたら、とても甘かった」と、青い花托を割った写真とともに書かれていました。(サイトの上の「蓮の豆知識」をクリックすると、その記事が出ています)


まだ花托も青く、種も外から見たら小さくて先端しか出ていない時期なのに、中にはかなり大きな種ができていて、その周りをふんわりと柔らかい組織で包まれています。
なんて不思議な植物なのでしょうか。
わずか2〜3週間なのに、花托から果托へとダイナミックな変化がその中で起きていたのですね。


そして最後は、シャワーヘッドのような果托が下へ向いて、種が池の中に落ちていく。
すごいですね、合理的というか。


なんで今まで知らなかったのだろう、気づかなかったのだろうということが多すぎて、定点観測してみたいことが山積みです。




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散歩をする 77 <モミの木があった>

酷暑の中の散歩のペース配分が、少しわかりました。
駅から徒歩数分以内の場所で森がある場所を訪ねて、歩くのは1〜2km以内ぐらいなら危険ではなさそうです。


そこでバスの車窓から見える、あの場所を訪ねてみようと思い立ちました。
以前、渋谷から新宿まで歩いた時は、途中、山手通りから下った春の小川沿いでしたが、今回はその川を見下ろす尾根側です。


代々木近辺や明治神宮周辺は20代の頃から電車で通過することが多かったので、駅名には馴染みがあります。
参宮橋、代々木公園、表参道、外苑前、明治神宮前、そして比較的新しい駅名は北参道でしょうか。
こうした駅名は、明治神宮と代々木公園を中心につけられて、私の頭の中の地図に記憶されていていました。


ある時、ふだんあまり使わないバスに乗った時に山手通り沿いに深い森があって、急な階段を上ったところに神社があることがわかりました。
代々木八幡宮と書かれているのを見て、初めて「代々木八幡駅」と繋がったのでした。
それまで、「代々木八幡」も明治神宮に関連した地名だと思い込んでいたのです。
あっという間に通過する電車の車窓からは、ほとんど見えない高台の場所にある神社なので、気にもとめていなかったのでした。


バスの車窓から見える代々木八幡宮は、真夏でも涼しそうな鎮守の森が別世界を作っているように見えます。
今回は、代々木八幡宮駅から歩いて見ました。


<「代々、木があった」ではなかった>


地図で見ると代々木八幡駅からわずか2〜3分のところにありますが、実際には、駅を降りると急勾配の坂道をまず登らなければなりません。
それでようやく、山手通りと同じ高さに到達します。
その坂道を登っただけでも、熱中症に対する警告が出されている時期にくる場所ではなかったと、ちょっと反省しました。
でも、そんな暑さの中で駅の改修工事や道路工事をされている方々がいて感謝です。


参道もまた急勾配の石段で、下を見ながら登りました。石段の終わったところからも、まだ坂道が続きます。
それでも森の中なのですっと風が通り抜けていき、幹線道路沿いにあることも忘れるぐらいの静けさでした。


「渋谷の記憶」には、1956年(昭和31年)の代々木八幡宮周辺の写真があります。こんもりとした森の中を山手通りが通っているように見える写真です。
きっと、「代々(だいだい)森があった」から代々木なのだろうとイメージしていました。
明治神宮代々木公園あたりが一世紀前には野原だったのは、代々木練兵場を作るために森林を伐採したのだろうと。


ところが、もう一度「明治神宮の森」を読み直すと、こんな箇所がありました。

 代々木の地は、江戸時代には彦根藩主井伊家の下屋敷があったが、明治17年に御料地となったものである。この代々木御料地は、ほかの候補地に比べれば樹木数は多かったが、敷地の大半は畑地や茶畑、草原、沼地で、林地は全体の5分の1程度しかなかった。

 なお、「代々木」という地名は、この地にあった一本のモミの木に由来するとのことである。この地は、元は不毛の原野であったとのことであるが、代々、一本のモミの木が立っていて、幕末にあった木は、江戸の町の目印になるほどの大木であったという。そして、この代々のモミの木から「代々木」という地名がついたといわれている。


境内から下って、参宮橋駅まで歩きました。
傾斜のある土地を利用して、瀟洒な住宅が続いています。
大きな木が茂った場所もあり、真夏の歩道に木陰ができていました。


江戸時代の住民いえ一世紀前の住民も、現代の風景を見たら、大きな神社や公園、そして街路樹で緑豊かな別世界に驚くことでしょうね。



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境界線のあれこれ  85 <鎮守の森の自然と人工>

鎮守の森という言葉は子どもの頃から馴染みがありますが、よくよく考えると私にはほとんどわかっていない言葉です。


私にとって鎮守の森の最初の記憶はもしかすると伊勢神宮かもしれません。
4歳の頃にフェリーに乗って参拝したのですが、ガーナ・チョコレートの鮮やかな赤い箱と対照的な黒い夜の海、そしておそらく漆黒の森ともいえるような境内の印象が記憶に残っているのではないかと。まあ、後付けの記憶かもしれませんが。


その次の鎮守の森の記憶は、山間部へ引っ越した時に見た大きな浅間神社でした。
鬱蒼とした大きな木に囲まれた境内には、冷たい湧き水があって、夏は子どもの遊び場になっていました。


裏山の「自然な森」が日常の遊び場だったので、神社の森というのはよく整備された、むしろ人工的な森だと感じていました。


そして、その神社の人工的な森の代表が明治神宮 なのかもしれません。


最近、用水路のある場所を散歩するようになって、Wikipedia鎮守の森にあるような「水田に囲まれた鎮守の森」が目に入るようになりました。


こういう鎮守の森は、その場所自体を神体として崇める、より「自然な鎮守の森」と言えるのでしょうか。


<鎮守の森と人の手>


Wikipediaの「鎮守の森」の「植生」を読むと、ますます自然と人工の境界がわからなくなりました。


鎮守の森が守られたとしても、その周辺の開発によって「鎮守の森だけが孤立して残れば、元々は広く連続していた植生が小さくなるから、それによって個体群を維持できない種も出てくる」といったあたりまでは理解できるのですが、「人間の手による撹乱」の以下の部分を読むと、「自然を守る」ということを本当に理解するのは難しいものだと思いました。

境内には野生でない植物の植栽が行われることが良くある。また、森林内で木が倒れた場合に、それによって生じた隙間(生態学用語で言うギャップ)を、スギやヒノキなどを植え込むことで埋められることもよくある。近世の段階で、境内における林野資源の利用が進んでいたという報告もある。近年では、森林の下刈りや落ち葉掻きを行う場所もあるが、このような手入れは薪炭林や人工林ならいざ知らず、自然の森林でこれを行えば荒廃を進行させるものである。


何かを植えたり放流することで「自然が守られる」という単純な話ではないよ、ということでしょうか。


「鎮守の森があると涼しい」だけではダメですね。
自然というのは難しい言葉ですね。




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散歩をする 76 <鎮守の森>

昨年の夏は雨が多く、比較的気温が低い日が多かったのですが、今年は尋常ではない暑さですね。
連日35度近い気温が当たり前になってしまいました。
エアコンをつけた室内にいても頭がぼっとして、何もしたくない気分です。


かれこれ2週間ぐらいこんな天気だったのかなと東京の気温を見直すと、なんと6月25日に30度を超えて以来、7月5日と6日の2日間をのぞいてずっと30度以上でした。
こんなに暑い夏は記憶にありませんね。


通勤だけでも体力を消耗する感じです。
熱中症にならないように気をつけているのですが、なんとなく腓腹筋のあたりがいつもつりそうな嫌な感じがあります。
休日には出かけたいという気持ちがあっても、外を数分歩いただけで気分が悪くなりそうですし、泳ぎに行っても体力が消耗しているのか、いつになく手足の動きがバラバラになって疲れます。


梅雨が明けたら、利根川江戸川、あるいは荒川のあちこちを歩こうと思っていたのに、この暑さの中を散歩するのは無謀ですね。
救急搬送されて、「医療従事者なのに」という顰蹙を買う最悪の状況が目に浮かぶので、涼しくなるまで本格的に歩くことはお預けです。


行けないとなおさら行きたくなるもので、「散歩に行きたい」と地図を眺めている毎日です。
散歩って、温暖な気候だからできるのだと改めて思うこの夏です。


<羽田神社>


そんな暑さですが、地図を見ていたら子どもの頃の神社の境内の涼しさを思い出しました。
そうだ、冷房の効いた電車に乗って、駅の近くにある神社を訪ねようと思いたったのでした。


多摩川のもっとも下流にある橋、大師橋が目に入りました。
近くに羽田神社があります。
京急大師線で川崎側に行き、大師橋を歩いて渡って、京急空港線で戻る。
歩く距離はわずか1kmぐらいで、いつもの散歩の1〜2割ですから楽勝だと出かけました。


京急産業道路駅を降りるとわずかにビルの日陰になるところがあるくらいで、日傘を差しても溶けていきそうな日差しです。
日差しを遮るものが何もない大師橋の真ん中まで歩いたところで、後悔しました。
でも引き返すのも地獄ですから、羽田空港から離陸する飛行機を眺めて気を紛らわしながら渡りました。


普段なら散歩の序盤で足取りも軽いはずの距離ですが、橋のふもとから神社までのわずか150mが遠く感じられたこと。
さらに、羽田神社に着いた時に、私がイメージしていた鎮守の森らしきものもないことに愕然としたのでした。


ただ、境内の奥に羽田富士という富士講があり、その周囲に木が植わっていました。
大した本数でもないので涼しさは期待しないで中に入らせていただいたところ、周辺とは数度ぐらい違うのではないかと思う涼しさでした。


木があることが、こんなに涼しい場所を生み出してくれるとは。


羽田神社の由来を読むと、鎌倉時代にはこの辺りに建てられたようです。
多摩川の堤防からほど近い場所ですが、地図を見て小高い場所だろうという予想に反して、ほとんど高低差も感じられませんでした。
あの袂をわかつ洪水のおこる場所で、どうやってここを選んだのだろう。
羽田富士は明治初年に造られたそうですが、その前の鎮守の森はどんな感じだったのだろう。


知りたいことが色々と湧き上がって来ましたが、あまりの暑さに、電車に乗ったのでした。
本当はもうひとつ穴守稲荷神社も訪ねる計画でしたが、断念しました。




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イメージのあれこれ  18 <自然な森林と人工の森林>

幼稚園児から高校生まで四方を山に囲まれた地域で過ごしたので、人工林と自然林の違いを見分ける能力がある、とつい最近まで思っていました。


子どもの頃の遊び場であった裏山も、少し離れて見ると杉やヒノキの植林された場所と雑木林の境界線がきっちりとわかりました。
そのようにほとんど人の手が入っていない森林と植林をした人工林があって、さらに1990年代頃からよく耳にするようになった 里山の3つが私の中の「森林」のイメージでした。
そして、その奥深い森林はずっと大昔から大切に守られてきたものだと。


ところが、一世紀という時の長さだけでも悠久の森の姿ができることを知る機会が増えました。
私から見れば、明治神宮の森は縄文時代ぐらいからあったと思ってしまいますからね。


森林の歴史についてほとんど知らなかったことが気になっていたところ、偶然、富士山麓の森林について知りました。


<「ほぼ木が生えていない自然をどう守っていくか」>


たまたまテレビをつけたら、「カンブリア宮殿」の「観光新時代スペシャル!進化する富士山麓観光&人気の安くて自由な旅」を放送していました。
あまり観光地とかには興味がないのでチャンネルを変えようとしたら、富士急行と富士山麓の歴史話に惹き込まれていきました。


1926年(大正15年)に富士山麓電気鉄道として設立された富士急行創始者富士五湖の名付け親であったとか、1935年(昭和10年)に富士ゴルフ場を作った頃は「ほぼ木が生えていない自然をどう守って行くか」と植林を始めたことが紹介されていました。
当時の写真が映されていましたが、更地のような場所、おそらく富士山の溶岩が転がって草木も生えなかったような場所に人の手で苗木を植えていました。


現在、山中湖周辺は深い森林に覆われています。
半世紀前の私の子どもの頃も、すでに深い森でした。
富士山麓というのは、あの青木ヶ原のような森林にぐるりと囲まれていて、それは何世紀もかけて噴火の後の地面に自然に森林が出来たものだと思っていたのでした。


「自然な森」って一体なんなのでしょうね。


林野庁の資料から>


富士山麓周辺の森の歴史を探していたところ、林野庁が2013年(平成25年)出した白書と思われる「2. 我が国の森林整備を巡る歴史」という資料が公開されていました。


その資料の「明治維新から戦前まで」にこんな箇所があります。

森林整備については、国有林において、明治22年(1899年)から大正11(1922)までの「国有林野特別経営事業」では、国有林野を払い下げた費用により無立木状態の荒廃地への植栽が積極的に行われた。

昭和4(1929)年には「造林奨励規則」が制定され、民有の無立木地への植栽に補助金が支出されるようになった。

もしかするとこんな時代背景の中で富士山麓の荒廃地に植林が進められて、一世紀後の現在、風光明媚な観光地を楽しむことができたのかもしれませんね。



さらに、「戦後森林の荒廃と復旧」を読むと、第二次世界大戦中に小学生も森林伐採に駆り出された時代背景が書かれています。

昭和10年代には戦争の拡大に伴い、軍需物資等として大量の木材が必要となり、これを満たすため未利用の森林伐採が行われた。終戦後も、主要な都市が戦災を受け、食料も物資も欠乏する中で、復興のために大量の木材を必要としたことから、我が国の森林は大量に伐採された。このような戦中戦後の森林の大量伐採の結果、我が国の戦後の森林は大きく荒廃し、昭和20年代及び30年代には、各地で台風等による大規模な山地災害や水害が発生した。



その白書の中に「第1回『植樹行事ならびに国土緑化大会』会場の様子」として、1950年(昭和25年)の山梨県の写真があります。
見渡す限り、木がない写真です。
1960年代に私が祖父母の家に遊びに行く時に見た裸山の風景は、やはり実際に見た風景だったのだと確信しました。



「自然な森」というイメージは、いかに頼りないものなのでしょうか。




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正しさより正確性を 11 <日本の森林の風景>

緑が豊かな熱帯雨林を想像して1980年代に東南アジアに赴任した時に、見渡す限り裸山の状態が続いていることに驚いたことは自然と人工的な自然ー東南アジアの熱帯雨林に書きました。


ただ、同じような風景を見たことがありました。
それは、子どもの頃、1960年代から70年代にかけて関西の祖父母の家に向かう車窓から見えました。
正確にどの辺りかは記憶にないのですが、たしか兵庫県のあたりでした。
山にぽつんぽつんと松が生えている山々がしばらく、続いていました。
当時、私は四方を森林に囲まれた山間部で暮らしていましたから、木がない山というのは想像もしたことがなかったので印象に残りました。


<日本の山から木がなくなった時代があった>


先日の50年に一度の水害を母と話していた時に、戦争中に小学生だった母があの小田川のあたりへ木を切りに行ったことを話始めました。
初めて聞く話で、もっと詳しく知りたかったのですが、残念ながら学校で行ったということぐらいしか記憶に無いようです。


ニュースの映像やMacの地図の航空写真を見ても、現在は豊かに森林が山を覆っているように見えますが、もしかしたら終戦直後の1940年代半ばから、私の記憶にある1960年代、70年代ごろは、関西の山々は森林伐採によって木のない山が多かったのかもしれないということが気になっています。


80年代に私が東南アジアで暮らした頃には、むしろ日本の林業は山間部の過疎化や外国からの木材輸入で森林が放置され始めたことが問題になっていて、当時の私は「日本というのは他の国の環境破壊はするのに自分の土地の森は守るのか」と反感を感じていました。
子どもの頃に見たあの関西の裸山が、どういう意味を持っていたのかまでは考えることがないまま。


時代を行きつ戻りつ考えているうちに、私の「日本の豊かな森」のイメージは昔からあった森林だけではなく、1950年代ごろに伐り尽くされてそのあとに再生した山がけっこうあるのかもしれないと。
東南アジアの裸山も10年後には驚くほど木が生え始めていましたし、街路樹の成長の早さや、わずか一世紀で更地からまるで悠久の森の様相になった神宮の森を考えると、大昔からずっとあったように思っていただけで案外若い森林があるのかもしれませんね。


あちこちの自治体などから出されている街の風景の写真集を見る時に、今度はもう少し森林の変化に注目してみようと思いました。


裸山が続いていた時代であれば、ダムの意義も現代とは様相が違うことでしょう。




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トマト

トマトは小さい頃から身近な野菜でした、そう半世紀以上前から。


今も好きな野菜のひとつです。
子どもの頃は、こんな暑い日のおやつはトマトで、塩やウスターソースをつけてガブリと丸かじりしていた記憶があります。
トマトは野菜でもあり果物でもありといった感じ。


家族みんなで丸ごとガブリとしているのですから、1回に数個のトマトが消費されます。
最近では比較的安い時期でも1個90円前後はするので、当時はそんなに贅沢に食べていたのだろうかとちょっと怪しい記憶になっていますが、子どもの頃は八百屋さんの店頭に数個ぐらいが山盛りになっていて、それほど高い野菜だった記憶はありません。


20代のまだ少ない給料で生活していた頃も、トマトというと袋詰めになったものをどーんと買っていました。
最近の方が、むしろトマトは「高い野菜」という印象です。
散歩をしている途中、無人販売の畑で1袋100円とか150円で売られていると思わず買いたくなるのですが、歩くためには身軽な方が良いので断念しています。


Wikipediaトマトの「生産・需要」に、「トマトの作付け面積は、1985年頃から減少傾向にあり、ピーク時の75%程度にまで落ち込んでいる」「これは飛躍的な増加を見せた1960年代後半以前のレベルである」と書かれているので、もしかすると子どもの頃はちょうどトマトの生産量が急増して安く食べられる時期だったのかもしれません。
そして、私の20代を境に生産量が減少する時期に入ったようです。


ただ、おそらく品種が増えたり1年中流通し、多様な食べ方になっていったということであって、トマト離れというわけではないことでしょう。


<トマトはどこでもあった>


1980年代半ばに東南アジアで暮らすようになった頃、当時、今ほどエスニック料理は日本社会に広まっていなかったので、「現地の食べ物はどんなものだろう。慣れるだろうか」と不安でした。
ところが難なく食文化に順応した理由の一つに、トマトがあったからかもしれないと思い返しています。


最初に驚いたのはそのサイズでした。
ちょうど日本でもプチトマトが広がり始めていましたが、市場に売られているトマトはそのサイズだけでした。「日本ではこれはプチトマトで、普通のトマトはこれくらいの大きさ」と手で説明すると驚かれました。


調理方法にも驚きました。今でこそ、トマトを加熱することも珍しいことではないのですが、80年代の日本ではトマトは生で食べるもので、トマト味ならケチャップかトマト缶を使うのが一般的だったのではないかと思います。
細かく刻んでニンニクやタマネギと炒めてスープにしたり、卵焼きにしたり、現地の料理の虜になって行きました。
トマトのおかげです。


そしてその東南アジアから、水もない、緑もない、そして市場に何もないソマリアへ移った時にも、トマトが味のベースになったパスタやピラフにどれだけ励まされたことか。
ほんと、トマトは偉大な野菜だと思いました。


<トマトの生活史を知らなかった>


先日、相葉マナブ君の録画を観ていたら、トマトは10mぐらいまで成長するという話をしていてびっくりしました。
実際に、ビニールハウスの中で、ロープを少しずつ上に伸ばしてトマトを縦方向に固定している様子がありました。


子どもの頃から畑にトマトがなっているのを当たり前のように見ていたはずですが、ジャックと豆の木のような成長をするなんて初めて知りました。
本当だ。Wikipediaの「植物的特性」にも、「1本仕立てで1年間の長期栽培を行うと、その生長は8メートル・10メートルにも達する」と書かれています。


いやはや、知らないことばかりですね。

散歩をする 72 <古代蓮を見に行く>

今日は、Lotusではなく、花の蓮の話です。


昨年、急にスイレン、そして水草が気になって、あちこちの植物園や公園を歩いて見ました。


蓮で検索すると、行田市にある古代蓮の里がありました。
古代蓮ってどんなのだろう、行田市ってどんな街なのだろうと気になったのですが、昨年はすでに蓮のシーズンも過ぎようとしていましたから、来年こそは是非行ってみたいと思っていました。


3月には枯れ草しか浮いていなかったのに、4月下旬には直径20cmぐらいに広がった若い葉と茎が増え始めていた不忍池の蓮ですが、なかなか定点観測に行くこともできないまま6月の中旬になってしまいました。すでに一面、大きな葉っぱで覆われています。
ただ、不忍池ではまだつぼみがちらほらあるくらいで、広い池で咲いているのは一つしか見つけられませんでした。
行田の方はいつから開花するのか気になって毎日のようにチェックしていたのですが、6月下旬に入ると一気に咲きはじめたようです。


梅雨の合間の雨が降らなさそうな日を選んで、朝の早い時間に出かけてみました。
高崎線は初めて乗るかもしれません。
群馬の方へ向かっている鉄道というと、なんとなく「上尾」あたりから山の方へ向かっている風景を想像していたのですが、行けども行けども高低差のない平坦な土地が車窓の外に広がっていました。
関東平野を実感しました。
そして事前に眺めていた地図でたくさんの河川がまるで動脈・静脈のようにつながりあっているように見えたのですが、それによってできた沖積平野なのだと初めて地図と知識がつながりました。
案外、自分の行動範囲は狭いのですね。
同じ関東でもさまざまな風景や生活があるのだと、実際に歩いてみることで知ることができます。


JR行田駅からは古代蓮の里までシャトルバスが出ています。
私ともう一人しか乗らなかったので、平日だから行く人も少ないのかと思ったのですが、園内には結構な人が訪れていました。
ただ、大きな池が3つぐらいあるので、人混みを避けて歩くという混雑感はありませんでした。


蓮にも「何分咲き」という表現はあるのかどうかわかりませんが、冒頭でリンクしたWikipediaの写真ぐらいの咲き方です。


池の周囲にはぼっと眺めていられるように、木陰の下にたくさんのベンチがあります。
家が近かったら毎日のように来て、一日中、蓮を眺めたくなりそうです。


園内には古代蓮会館があって、蓮の成長についてわかりやすい展示がありました。
あの花托からポロリと落ちた種の中には、すでに葉の形をしたものが縮こまった姿で存在しているというのが、この日の最大のトリビアでした。


Wikipedia古代蓮の里とハスの説明を合わせて読むと、ゴミ焼却場建設予定地だった場所に偶然、1973年に蓮が開花し、そして1988年から89年の「ふるさと創生一億円事業」によって1992年から整備されて1995年に開園したようです。


当時はばら撒きと批判が多かったふるさと創生事業だった記憶がありますが、そのおかげで40年ほど後にはこうしてたくさんの人が蓮の美しさを楽しむ場所が造られたのであれば、悪くはないかもしれませんね。


1000年とか2000年という時を超えて咲いている蓮の花に、人はどの時代も惹きつけられて来たのでしょう。
本当に美しい姿だと思いました。




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