私とニセ科学的なものについてのあれこれ

自分自身を振り返ってみると、科学的な思考とは程遠い世界で生きてきたと思います。
むしろニセ科学的なものに積極的に近づいていたといってよいほどでした。


小さい頃から、宗教的な家庭で育ちました。
生きるということはどういうことか、死ぬとはどういうことか、神とは何かなど、たくさんのことを小さい頃から考える機会を与えてくれた意味では感謝しています。


ところが、「神棚と仏壇のない家庭に育った子はよい子ではない」という不合理さも教える親でした。
受験勉強の合間に、お祓いと占いにも連れて行かれました。


病気や怪我をすると、病院よりは民間療法的なものを先に施されました。
ひどいかぶれをおこしても、庭の木の葉を煎じたものをまず試されました。病院も薬局もあるのに。
あきらかな骨折でも、まずは接骨院へ連れて行かれました。
「これをすれば健康になる」たぐいの本がたくさんある家でした。


極めつけといってよいのが、看護学生になって医学的な勉強をしている時に「病気と因縁」といった内容の本を送ってきたことでした。
いわゆる先祖のたたりや、自業自得で病気や怪我になるという話です。


でも私も都合のよい部分は信じてしまいました。
というのも、疾患もすべてが解明されているわけでも治療法が確立されているわけでもなく、病や老いや死に対して臨床で接すれば接するほど人生に対する怖さや不安を増していたからかもしれません。


でもやはり親というのは反面教師だと思います。
私は「神棚と仏壇がない家」の子どもに対する親の不合理な価値観のようなものから、もっと広い世界を求めました。


<不合理から合理的な思考へ>


それがキリスト教への関心になり、犬養道子さんの本との出合いで難民キャンプでの医療活動へと進むことになりました。
東南アジアに住み、キリスト教だけでなくイスラム教や少数民族の世界に触れて、神棚や仏壇がなくてもそこにはもっと人に寛容で豊かな精神的な世界があると、ようやく自分自身を解放することができました。


1980年代半ばの日本は、すでに先進国として強い経済力を持っていました。
「豊かな国が貧しい国を助けるのは当然」と、海外医療協力に参加しました。
意気揚々と東南アジアの国に出かけた私を出迎えたのは、「あなたのおじいさんやお父さんは、あの第二次世界大戦の時にどこで何をしていたのか」という戦争責任に対する問いでした。


戦争を経験した世代だけでなく私と同年代の人たちから、初対面でも行く先々で会う人会う人から問われました。
そして、「私のお爺さんは、日本兵に・・・」と。


戦争責任だけでなく、当時は日本を始め先進国の開発による「新植民地主義」への批判が高まっていました。
途上国の豊かな資源を巡って海外から大企業が進出し、土地や資源が経済力の強い一部の人のものになり、貧富の差が拡大していました。
内戦状態あるいは独裁政権の言論も弾圧された中で、自分たちの地域を守ろうとした人たちは反政府的と見なされて殺害されました。


そうした地域には、かならずといってよいほどアメリカや日本の企業が進出していきました。


私が豊かだと思っていた社会はこうした不平等の構造であり、貧困や人権抑圧の上に自分が豊かさを享受してきたことに衝撃を受けました。
犬養道子さんの本の中に書かれていた「知らないのは罪ではないが、知ろうとしないのは罪である」という言葉が、私の背中を押しました。


それから人権、開発、平和といった問題に関心がでて、そうした運動に関わるようになりました。


<正義感と理想>


「強い感情は、新しい世界への扉」であることを、6月30日にも書きました。
「出産シーンを写真や映像で公開することの意味」
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120630


強い感情に後押しされた時というのは情報や知識が自分でもおもしろいほどに増えて、社会の構造や問題点がまるでパズルを組み立てていくかのように見えてきます。


それまでは社会の中でちっぽけな自分でしかありませんでした。
でも自分が社会に何かを伝えなければいけないと活動することは、不平等や人権抑圧の上に自分が生きていたという罪悪感をちょっぴり打ち消してくれて、自分の存在意義を見出す満足感を得られるものでした。


ちょうど1980年代から90年代にかけて、経済的な発展だけを求めてきたことが世界の貧困や人権抑圧あるいは資源獲得の裏にある戦争の原因になってきたこと、豊かな生活のために環境破壊が進んだことへの批判から、違う社会をめざそうという動きがたくさん出始めました。


今あることに代わる別のあらたなものを求める、オルタナティブという言葉がさかんに聞かれた時代でした。


そういう共通の視点をもった人たちとの出会いや勉強の場は、とても楽しいものでした。
そのような活動を引っ張っていく人たちは、常に問題意識が高くて先駆的に映りましたし、実際にそうでした。
会社をやめ、安定した人生を捨て、既存の社会のシステムに依存しない生き方を模索している人もいました。


けれども、そういう市民運動的な場所に半身を置き、医療現場という現実の職場にも半身を置く私自身は、なんだか中途半端でした。


周産期医療のオルタナティブとは何か考えているそばから、どんどんと周産期医療は進歩し、機械化も進んでいきます。
気持ちはできるだけ「自然に、機械や薬に頼らないお産を」と思う反面、医療が進歩し優れた医療機器が開発されることでより安全な出産になっている現実がありました。


オルタナティブ、それは「代替」ではなく、まだまだ理想を追っている段階でしかなかったことに少しずつ目が覚めていきました。


<理想と現実>


市民運動の中では、政府や大企業のしていることは批判の対象になりました。
常に理想を求めている側ですから、批判や要求事項はたくさんありました。
そうして声を上げることが、社会を良くすることだとも思っていました。


ところが、1990年代後半頃からでしょうか。
自分にとって現実の仕事の場である医療も、社会から批判されたくさんの要求をされる時代に入りました。
「説明が足りない」「態度が悪い」「長時間待たされる」、あれが足りない、これが足りない・・・。
いやいや、ごもっともです。すみません。
でも、私たちも人間です。
常に30〜40人の患者さんを同時に見守り、予測不可能な急変にも対応して患者さんを守っているのです。


医療にも常に最高のパフォーマンスを求められる時代になりました。
たとえば出産においても、私たちにとっては今まで最大の目標だった「母子ともに無事に出産が終わる」だけでなく、その人にとって満足のいくものまで当然として求められるようになりました。


そんな時代になって、その医療の「不備」を補うかのように代替療法や補完療法という言葉が広がり始めました。
そう、医療のオルタナティブとして。


ニセ科学的なもの>


kikulogでは、ハッとさせられる言葉がたくさんありました。


「善意と正義感」「陰謀論」「ニセ科学は白黒つける」「ニセ科学は願いをかなえる」「個人的体験は効果を証明するものではない」などなど。


そして「人はわかりやすさを求める」。
あーーー、まさに自分がずっと右往左往してきた生き方そのものだと。


社会は複雑でそれぞれの専門分野の地道な仕事によって支えられているという当たり前の事実に、自分たちが批判される立場になって初めて気づきました。
でもちょっと問題意識をもっただけで、物事を単純化して相手の不備を批判していた自分。
わかりやすい情報だけを取り入れて、理想論に燃えやすい時にニセ科学は近づいてくるような気がします。


いわゆる市民活動や平和運動などとニセ科学が結びつきやすいのがなぜなのかも少しわかったような気がしました。
きっとひとりひとりは本当にいい人だったり、問題意識の高い人なのだと思います。
でも理想と現実の間で、うまく「折り合い」がつかずに「拙速」に答えを出しやすいからかもしれないと。
もちろん、このわかりやすさも危険ですが。


中学生ぐらいの頃にこのニセ科学についての考え方を知っていたら、こんなに回り道をしなくても済んだかもしれません。
まぁ、無駄と思ったこともこうして実感として身になれば決して無駄ではなかったと思うことにします。


ということで、私の人生の長ーい失敗談にお付き合いくださってありがとうございました。




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