ケアとは何か  26 <面会は非日常の時間>

10年ほど前に母が急性期病院に入院し、そのあたりから父も母も「入院」「入所」という生活になりました。
それ以来、高齢者の特徴ともいえる突然状態が変化して入院、転院、そしてどこの施設へ移るかといったことの対応だけでなく、そういう状況で死や病気、そして環境の変化への不安が強くなる両親を支えるために、面会が私の日常生活になりました。


「骨折した」「脳梗塞を起こした」といった連絡から、日常生活は一変します。
それまで1ヶ月に1〜2回の面会で日常生活のペースができていたところが、急変した時には週に2〜3回は往復し、そして少し安定すると週に1回になるといった感じです。
兄弟は手続きや支払いなどを担当し、私は身の回りに必要な物を準備したり両親の気持ちを支えるという感じでなんとか役割分担をしながら、そしてまた面会の回数が落ち着いていきます。


昨年、父を見送ったのですが、それまでは父がようやく落ち着くと今度は母に何か起こって呼び出し、といった感じでした。
「面会」ということが無縁だった10年前の生活を、もはや思い出せないぐらいの毎日です。


<面会は非日常の時間>


看護職として長いこと医療機関で働いてきたので、面会時間とか面会という言葉は日常的すぎる言葉でした。
スタッフ側にとっての面会とは、入院している人の人間関係の調整であったり、どの人がキーパーソンで大事なことを伝えたり買い物や洗濯をお願いするかといった点や、あるいは処置などが面会時間にかからないように業務の優先順位を考えようといった、自分たちのケアからの視点なのかもしれません。


もちろん、「家族や面会に来る人たちの気持ちや状況」という視点も、ケアには欠かせないことは教科書的には理解していましたし、看護職になって右も左も分からない頃に出会った植物状態、遷延性意識障害の患者さんに足が遠のいてしまったご家族との関係など、さまざまな当事者についてプロセスレコードによって理解しようという気持ちはありました。


ただ、私自身が面会する側になって、初めて見えてきたり感じたことが増えてきました。
冒頭で「面会が私の日常生活になった」と書いたことと矛盾するようですが、面会というのは非日常的な時間なのだということです。
たとえ、2〜3日の入院であっても長期であっても、あるいは回復する見通しがある場合でも高齢者や終末期の場合でも、面会に行くということは非日常の時間を抱えるということなのだと思うようになりました。


では、私はこの非日常の生活から解放されたいと思うかと言われれば、それは「母の死」を意味するので、むしろ面会は重荷としてのケアだと思うようにしています。


肉親という範疇ではなく、目の前の一人の人はどのような人生を送ってきたのか、目の前の一人の人は何を思い、どのように生きているのか、まだまだ知らないことだらけですし、血縁であっても手や口を安易に出せない存在である。
そんな葛藤を経験していくための発達段階といえるでしょうか。




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