新生児にとって「吸う」ということはどういうことか 5 <哺乳における探索行動>

助産師向けの雑誌は2誌あります。
そのひとつメディカ出版のPERINATAL CARE(ペリネイタルケア)2月号は「カンガルーケアのヒヤリ・ハットにさようなら」という特集ですが、その中に「うわっ」と感じた文章がありました。


ケーススタディ1 正期産児の場合」の「早期授乳支援」について書かれた部分です。

STS(注:早期皮膚接触)の際、児はすぐに乳房に向かうわけではない。覚醒すると、まず羊水の付着した手をなめる行動をする。そのために、手についた羊水はあえてふき取らないようにしている。次いで、足を蹴るような、あるいは踏ん張るような動きをして乳房に向かって移動する。新生児は成人より嗅覚が研ぎ澄まされており、母に抱かれことにより何らかのプログラムのスイッチが入り、乳房から漂う初乳のにおいやフェロモンに反応し、このような行動を示すと考えられている。

生体モニターのセンサーは、児の足底に装着し、脈拍やSpO2のモニタリングを行う。児が羊水のにおいを頼りに指しゃぶりすることを考慮し、あえて下肢につけている。

児が出生したら、保温したバスタオルで児の両手掌・手背を除いて羊水をふき取り、(以下略)。

最近カンガルーケアについて書かれたものを読む機会が増えて、その中に母親のおなかに腹ばいに乗せた新生児が乳首に向かって自分で移動しくわえつくことに感動したという話をよく見かけます。
また、上記のような話も「新生児は羊水のにおいを覚えていて、安心感を持つ」というエピソードとして紹介されます。


でも、なんだか違和感を感じるのはなぜでしょうか。


前者の話は、「新生児にはこんな能力がある」という感動の演出のように感じてしまうのです。なにもわざわざ乳首から離したところで抱っこしなくても、普通に抱っこすればちょうどおっぱいの近くに新生児の顔がきて吸い始めます。
あえて新生児が乳首まで移動するのを期待してみている大人の姿が、私には滑稽にしか見えないのです。


後者の話のように「新生児は羊水のにおいに安心する」と新生児の気持ちという確認の手段もないことを言い切れば、オカルトの世界になってしまいます。
「生まれた直後の新生児は羊水のにおいを懐かしがって手をしゃぶる」、そのことを確認するためにわざわざ手の部分だけ羊水を拭かないことを看護業務手順にしている病院があるということに驚いています。
いったい出版社は助産師向けにどのような情報が必要だと考えているのでしょう。


この手の話が感動とセットになって増えれば増えるほど、ひとりひとりの新生児のありのままを観察する目を曇らせることになるのではないでしょうか。


<哺乳における探索行動とは>


前回の記事で新生児は色の濃いものに反応しているのではないか、だとすると先天的に視覚障害がある場合には赤ちゃんはどのようにして哺乳を始めることができるのだろうかと疑問がわいたことを書きました。
手元にある新生児に関するいくつかの文献や医学書にも、答えは見つかりませんでした。
もし、なにかご存知の方がいらっしゃったら教えていただけたら幸いです。


ネット上で見つけた文献に、「探索行動」について参考になるものがありました。私は専門家でも研究者でもないのでこの文献自体の位置もわかりませんし、一部分だけを抜き取ることはあまりよいお作法ではないとは思いますが、考えるきっかけという意味の資料として残しておきたいと思います。


「障害のある子どもの"接近行動"の滞りとその促進に関する諸問題」
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第55集・第22号 (2007年)
(リンク先をうまく表示できませんでした。すみません。)

2.1
生命維持に関わる接近行動
快刺激に対する接近行動
不快刺激に対する回避行動
失われた平衡状態を取り戻して生体内を安定させるとともに、生体の生命維持を促進する役割を担っている。

この部分はメモ書きのように抜き取りましたが、出生直後の新生児に対して「母子相互作用」「母と子の絆」の文脈で「探索行動」が語られるときには「乳首に向かって自主的に吸い付く」積極的な行動のみが注目されがちですが、何かを回避することつまり「出生直後に吸わない」ことも回避行動として新生児にとっては大事なことであることの覚書のためです。


人も他の生命体と同様に、生得的に生命を維持するシステムを有している。たとえば吸啜反射や探索反射はいずれも接近行動と捉えられるが、それらは新生児が哺乳するためになくてはならない行動である。また生後間もない乳児であっても、自分に迫ってくる物に対しては回避行動を発現することがこれまでの研究によって明らかにされている。

新生児は、自分の感覚器官と運動器官をフルに駆使して、積極的に外の世界を探索し、興味深い対象を発見すると、それについての最大限の情報を得ようとするような、強い衝動を持っている。

探索行動においては、自らの感覚・運動を介して働きかけるといった能動的な感覚、運動の関与の重要性がこれまでに指摘されてきた。
鳥居(1982)は「どの感覚系に拠るにしても、人間が外界の事物や環境の情報を知覚し、認知する活動とは、基本的には能動的な情報探索・収集、活動」であることを指摘した上で、「有効適切な情報の、能動的な探索・抽出・操作活動が円滑に進行してゆく過程のうちには、いかなる場合にも眼や頭部のまたは手や指先や足などの、あるいは口唇・舌などの身体の各器官による十分制御された運動の成分がそこには必ず伴っている。

人の探索行動は、対象の定位行動、知覚的吟味、操作行動、遊びという一連の過程を経て展開するとされている。


視力障害のある赤ちゃんに接したことはないのですが、口唇口蓋裂の赤ちゃん達には何人も出会いました。
唇がお母さんの乳輪や哺乳瓶に密着しなかったり、吸啜する際に口蓋から母乳やミルクが鼻のほうへもれてしまったり、生命を維持するための哺乳自体が十分にできないのです。
最近は出生後早期から補助器具を使用したり手術が可能になりましたが、以前は麻酔に耐えられるだけの体重になるまで、お母さん、赤ちゃんの哺乳のためのまさに闘いが続いていました。


何度も何度も吸いつくことを繰り返す中で新生児なりに工夫をするのか、けっこううまく吸えるようになる赤ちゃんもいました。
限られた機能をまさにフルに駆使して、哺乳能力を獲得していったのです。
今思い返すと、それこそ探索行動の積み重ねだったのだと思います。
探索行動という言葉が乳幼児の生きる力と置き換えられるとすれば、試行錯誤の積み重ねであり、継続性のある行動だといえるでしょう。


そしてそれは、「出生直後の新生児はこんなことができる」とまるで試験のように試されるようなことではないと思うのです。
また「吸わない」という回避行動ができることも新生児の生きる力として、同じぐらいに重要な能力と認めてあげたいと思うのです。


次回は、なかなか吸わない赤ちゃんについて考えてみたいと思います。



新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら