助産師だけでお産を扱うということ 1 <日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃>

助産師教育ニュースレター 5 <世界の動向をどのように伝えるか> - ふぃっしゅ in the waterで、妊産婦死亡率(対出生100万人)980、乳児死亡率(対出生1000人)114という中央アフリカ共和国について助産師教育ニュースレターで取り上げられていたことを書きました。


日本の場合、妊産婦死亡率の最も古い統計は1900年(明治33年)のようですが、妊産婦死亡率は436.5でした。年間6200人、229人に一人の割合で女性がお産で命を失っていたようです。
(「周産期における救急医療について」http://www.jaog.or.jp/know/kisyakon/16_081110.pdf)


その後、1955年161.7、1960年117.5、1965年80.4、1975年27.3、1985年16.1、1990年8.2、そして2005年には5.7まで減少しています。
日本産婦人科医会「母体安全の提言 2010」の中で、妊産婦死亡率が大きく減少した理由として、自宅分娩から施設分娩へ、輸血体制の整備そして周産期医療整備対策事業で総合周産期センターを中心にしたネットワークが整備されたことの3点をあげています。
http://www.jaog.or.jp/diagram/notes/botai_2010.pdf


「WHO、乳児死亡率、新生児死亡率、国別順位(2011)」を見ると、日本の2011年の乳児死亡率は2、新生児死亡率は1です。
http://memorva.jp/ranking/unfpa/who_2011_neonatal_infant_mortality_rate.php
ここまで母子の出産時の安全性が改善されたことは、出産が医療機関で行われたこと、医師の管理の下に行われるようになったことは明らかです。


前述の助産師教育ニュースレターで紹介されている中央アフリカ共和国のように、妊産婦死亡率、新生児死亡率そして乳児死亡率が高い国は、出産を含む一次医療(プライマリーヘルスケアー)を助産師、看護師あるいは無資格のヘルスワーカーやTBA(伝統的産婆)などが主に責任を持っている国々です。
医師のように高度な専門教育を受けられる人が限られている国では、そうならざるを得ないということです。


<日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃>


日本でも中央アフリカ共和国のような状況だった時代はそんなに昔のことではなく、わずか半世紀前までは同じような状況でした。私が生まれる少し前の1950年代は、まだ自宅分娩が9割以上を占めていたようです。年間2000人以上のお母さんが出産で命を失い、1000人のうち50人ぐらいが1歳になるまでに亡くなっていました。


出産で異常が起きても医師を呼ぶことさえできない状況、また健康保険もなく医療を受けることが経済的に難しい時代だったのだと思います。


そんな時代に離島で出産介助をしていた助産婦の聞き取り調査をされている伏見裕子氏の論文は、「自宅分娩は温かいお産」「昔の助産婦さんの温かいお産」とは違う視点での歴史を伝えてくれるものでした。
女性学年報 第31号2010「産屋と医療ー香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリー」、第32号2011「戦前期の漁村にみる産屋習俗の社会事業化ー香川県「伊吹産院」を中心にー」。
(女性学研究会HPはhttp://www.jca.apc.org/wssj/)


医師不在の離島での出産介助では、仕方がなく縫合や促進剤の使用や出血などの異常にも一人で対応するときがあり、「逆子や双子も取り上げることはあったが、できる限り病院で産むように勧めていた」(第31号、p.108)とのことです。

しかし、縫合や鉗子など、本来助産婦に許されていない処置を行うのはNさんにとって大きなストレスであり、そうした器具は1967年に島を離れるときに処分したとのことである。

Nさんは、もともと病院勤務を経験したのち、伊吹島で開業して非常に苦労したため、大阪で開業することは全く考えなかったと言う。Nさんは、「病院の方がいい」と繰り返し語っている。

伏見さんの論文についてはまたいつか、掘り下げて紹介してみたいと思っています。


<母子保健センター>


1950年代から急速に自宅分娩から施設分娩の流れになった中で、出産のための医療施設の整備が遅れていた農山漁村を中心に、1959年(昭和34年)から厚生省と各自治体によって助産婦による助産を進めていくための母子保健センターが各地に設置されました。
これは当時の自宅分娩や無介助分娩を減らす目的でした。
その後、急速に日本の医療が拡充し、昭和40年代半ばにはすでに助産部門を閉鎖する施設が出始めました。
私が助産婦学生時に使用した教科書には、以下のように書かれています。
「母子保健ノート2 助産学」(日本看護協会出版社、1987)

昭和40年ごろから助産部門に対する産婦人科医からの非難や、嘱託医との助産上のトラブルなど、医療施設との関係が問題となり、昭和42年「母子健康センター設置要綱」が大幅に改訂され、保健指導を主とし、助産は付帯事業とするよう重点の置き方が変った。(p.530)


この母子保健センターについて、伊関友伸氏のブログに「産科医ら意見交換『安全なお産』考える 丹波『未来』新聞」の中に以下のような記事があります。
http://iseki77.blog65.fc2.com/blog-entry-4601.html

自宅分娩以上の安全を求め昭和30年代半ばから相次いで助産婦による母子健康センターを開設、自宅から施設へと分娩が移った。当初はセンターの利用者が多かったものの事故がおきるなど、より高い安全性を求め、診療所や病院など医師がいるところで出産するようになり、10年から15年ほどでセンターの助産業務は休止された。

助産婦さんが医師を呼んだが助けられないことがあった。助産婦さんは大分苦情を言われ気の毒だった。事故をきっかけに利用する人も減り、常勤の医師もいないので、役割が終わったとして町がセンターを閉めてしまった。

自宅分娩や無介助分娩から助産婦という有資格者による施設分娩へと貢献した母子保健センターも、より安全なお産という目標のためには医師のいる施設での分娩にバトンを渡す必要があったということだと思います。


助産所の盛衰とその実践>

助産師だけの分娩介助の施設に助産所があります。古い歴史を持っているように思っている方も多いと思いますが、歴史は浅いものです。
助産師基礎教育テキスト3 周産期における医療の質と安全」(日本看護協会出版社、2009年)では以下のように書かれています。

産婆の時代は自宅に出向いての出産介助が主流であり、開業しているといっても助産所という施設をもっていたわけではない。助産所での出産は1950(昭和25)年に初めて登場し、この時点での助産所における出産の割合は0.5%であった。その後、1960(昭和35)年には8.5%と徐々に増加したが、1970(昭和45)年の10.6%をピークに減少に転じ、1990(平成2)年には1.0%、2000(平成12)年には1.0%、2007(平成19)年では1.0%となっている。

母子健康センターと同じ時期に始まり、母子健康センターの役割が終わるのと同じように助産所もまた減少しています。


伊関友伸氏のブログの中で、産科医二人が助産所に対して以下のように考えを述べています。

また全国的な産科医不足のあおりで言われる助産所の活用について越川医師は、「経験から言うと最初はいい。しかし、一つ何かあると腰が引け、医者にどんどん負担がかかる。助産所助産師も助けに行く医師も両方しんどいのではないか。病院や診療所から独立した建物でやるのは無理」との見解を示された。

上田医師も助産所について、「なくなった母子センターの復活を考えるようなもの。人への安全の意識は変らない。ニーズがあり、どうしてもやれと言われるのなら院内助産所。離れたところではできない」と語った。


助産師だけでお産をとるということ>


日本の助産師の方向性を決めようとしている教育者、研究者はICM(国際助産師連盟)の国際基準に従うことが大事だと考えているようです。


でも世界中を見渡すと、分娩に立ち会える医師がいない国から日本のように産科医・小児科医という専門医が必ず立ち会ってもらえる国まで、助産師の活動範囲も責任もさまざまです。
ICMの大会や会議というのは、日本の周産期の歴史の中の明治から現代までの助産師がまるで一同に会したかのような様相ではないかと思います。


母子保健の指標となる妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率が高い国の助産師も、やはり目の前の母子が無事に出産を終えることを何よりも求めていると思います。
でも、限られた医療資源の中で、自分の持つ最大の力を発揮するしかないのです。


助産師教育ニュースレターNo.52 (2006.8.25)http://www.zenjomid.org/activities/img/news_52.pdfの喜多悦子氏(日本赤十字九州国際大学学長、医師)の巻頭言に興味深い話がありました。

ある国で出会った年齢不詳のTBAは、60年やっているけど、自分が扱った妊婦サンは、ひとりも亡くなっていないとおっしゃった。よくよく聞くと、亡くなったのは神の思し召しで、自分のかかわりではなかったそうだ

これと同じような体験を、短期間働いたアフリカのある国で私も経験したことがあります。
ある地域の状況調査で訪れたときにその村の助産師に「異常分娩はどれくらいあるか」と尋ねたところ、「異常なんてない」と言われたことがありました。


村の母子保健の責任を持つ者の、部外者に対する矜持であったのだろうと受け止めました。


1980年代ごろからの自然なお産を求める動きの中で、かつての産婆や助産婦による分娩介助が好意的に受け止められ、出版物となって広がりました。
けれどもそこにはたくさん語りきれていないことがあること、それは同じ仕事をするものだからこそわかることがたくさんあります。
助産師だけでお産を扱うということはどういうことかを考えるためには、その語りきれていない部分こそ助産師がきちんと自ら検証していかなければいけない部分だと思っています。


助産師だけでお産を扱うということ、不定期ですが考え続けていきたいと思っています。



助産師だけでお産を扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。