完全母乳という言葉を問い直す 21 <授乳に関する科学とは>

母乳については「素晴らしい」という言葉では表現しきれないほどの巧妙さ、複雑さがわかってきましたし、反対に母乳のデメリットになり得る点もわかってきました。


それまでは個人的な感覚で「よい」と思っていたことがきちんとあきらかにされていくという、地道な研究の積み重ねによる科学的な手法の恩恵を私たちはたくさん受けています。


たとえば母乳ではどうしても不足してしまうビタミンKがあります。
半世紀前までは、出生直後の新生児や1ヶ月をすぎた乳児が胃や腸から出血したり脳の中で出血して亡くなる原因がわかりませんでした。
この病気にビタミンKが関与している、そのことがわかるまでにどれだけの研究があったのだろうと思うと本当に気が遠くなります。
そしてビタミンK2シロップが安全な医薬品として赤ちゃんの口に届くまでに、果てしない研究の積み重ねがあったのだと思います。


日本では1989年からビタミンK2シロップを新生児に投与する方法が取り入れられてから、多くの赤ちゃんが助かりました。
そして母乳栄養も安心して続けられるようになりました。


<授乳についての科学とは>


母乳のメリットについての「科学的根拠」は数多くの論文も出されています。
でもそれは「授乳」に関する科学的な根拠とは別ではないかということです。


母乳のよさ、すばらしさはわかっていても、半数以上のお母さんたちはミルクを併用しています。
あるいは歴史を振り返って、「人類は哺乳類だから母乳で育てるのは当たり前」ということは本当なのかという疑問もあります。
それほど母乳は赤ちゃんにとってすばらしいもので、誰もが母乳だけで育てられるのであれば、20世紀前半までの日本の乳児死亡率の高さはなぜなのでしょうか?


この点について、ダナ・ラファエル氏は「母親の英知 母乳哺育の医療人類学」(医学書院、1991年)の中で以下のように書いています。

母乳は最高です。それに異論をはさむ人は少ないでしょう。
しかし、多くの国で離乳食の質と量を高め、西欧文化が発明した保健衛生施設をつくった後、母乳哺育からミルク哺育へと切り替えると乳児の死亡率は下がります。
子どもの命を救う魔法はミルク哺育にあるのではなく、子どもの健康を守るのにどれだけお金を使えるかにかかっているのです。(p.165)

母親あるいは父親にすれば、できるだけわが子に良いものを与えたいと思います。
今日本の社会の中で、子どもをより健やかに育てるためには何を選択したらよいのか。
授乳に関する科学的な思考というのは、このように社会的視点に立つこととも言えるでしょう。


<それをした場合としなかった場合の比較をすること>


WHO/UNICEFの「母乳育児を成功させるための10か条」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120522は、もともと開発途上国の乳児死亡率を下げることを目的に作られました。
そしてその後、6ヶ月は母乳で、できれば2歳まで飲ませるようにという方針が出されました。


多国籍企業開発途上国にミルクの販売促進をし、そのために不衛生な調乳によって乳児死亡が増えたのかという点に関しては、不明な点が多いということは以前も書きました。
それでも途上国でミルクや食糧を十分に買えない貧困層の人たちは、できるだけ長く母乳を続けることにより乳児死亡率を下げることは効果があるのではないかと私は考えています。
乏しい食糧を大家族で分け合って食べている状況では、乳児は母乳の供給が途絶えれば一気に栄養不良に陥るからです。


では、水も食糧もある程度豊かに手に入る日本ではどうでしょうか?
医療も十分に受けられる日本の社会で、「半年は母乳だけで、できれば2歳までは母乳で」という方針は、それをした場合としなかった場合にはどのような違いがあるのでしょうか。
そういう疑問に答えを出していく作業が、「授乳の科学的根拠」ではないかと思います。


あるいは出産直後からの「母と子の絆」が強調され、カンガルーケアをすれば母乳分泌の促進になったり、1歳までの「母子愛着行動」が高くなるという研究があると言われれば、お母さんたちの中にはそれをしなければと大いに不安になる方もいらっしゃるでしょう。


でもそれをしていなくてもなんら変わりなく母乳を続け、あるいはわが子を大切に育てている方がたくさんいることはどうなのでしょうか。


<赤ちゃんにやさしい病院の現状と課題>


「小児内科」2010年10月号によれば、赤ちゃんにやさしい病院の認定を受けた施設は2010年の段階で全国に60ヶ所あるようです。
赤ちゃんにやさしい病院(Baby Friendly Hospital,BFH)というのは、WHO/UNICEFの母乳育児を成功させるための10か条を基本に授乳支援をしていることが認められた病院です。


いろいろな文献で、このBFHでの退院時、1ヵ月健診時の「完全母乳栄養」率の高さを目にしていましたが、母乳支援で最も大事な社会的支援が明確にされていない中で、実際にどうなのだろうと思っていました。


「小児内科」2010年10月号では、以下のように書かれています。

次第に浸透する母乳育児支援や母乳育児社会にもかかわらず、その一方で、BFH施設においてさえも母乳育児の確立や母乳育児の継続が難しい母子が増えてきた。
それは初産年齢の高齢化、少産ながら多胎児の出生、治療による妊娠と分娩様式の多様化と在院日数の短縮化、核家族化、ITによる情報過多、そして女性の社会進出による晩婚化などが関係していると思われる。
しかし大きな要因は、核家族化による母乳育児文化の伝承が途切れたことであろう。
今後、ハイリスク妊娠とハイリスク分娩の母子の増加が予想され、従来型の母子支援だけでは、母乳育児の実践が困難な状況になる可能性もある。

30年前に比べて、「母乳」「混合栄養」を合わせた3ヶ月健診時の母乳育児率は10%近く増加しています。
核家族化による母乳育児文化の伝承が途切れた」のではなく、産み育てる女性の社会的環境が大きく変化しているにも関わらず母乳育児を選択している人は増えていると言えるのではないでしょうか。


もしBFHの方法で母乳育児の確立が難しいケースが増えているとするのであれば、それはどのような要因で、今後はどのように軌道修正していくとよいのでしょうか。
メリットもデメリットもきちんと検証し、社会に情報を開示していくことが、完全母乳を推進してきた側がしていかなければいけないことではないかと思います。

科学的な態度というのは、過ちをも認めるということだと思います。




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