完全母乳という言葉を問い直す 22 <授乳と社会支援>

今の日本の社会で、赤ちゃんを育てていらっしゃるお母さんたちの多くに必要なもの、それは「人の手」ではないでしょうか。
いぇ、本当に猫の手も借りたいというほどに。


母乳であれミルクであれ、授乳というのは時間がかなりかかるものです。
一人で家事も育児もしなければいけない状況では、どこかで時間を埋め合わせなければ24時間では足りないのです。


<赤ちゃんの「置き去り防止センサー」>


授乳が終わって赤ちゃんが気持ちよさそうに目を閉じます。
そんな時に「寝たようだから、次になに(家事)をしよう」と思っただけで、本当に思っただけで赤ちゃんというのは目を開けてしまいます。
ベッドにおいてはぐずられて、また抱っこの繰り返しで一日が過ぎていくこともあるでしょう。


あるいは洗濯をしようと部屋から離れただけで、眠っていたはずの赤ちゃんが大泣きしたり。
トイレにもお風呂にもおちおちと入っていられないぐらい、赤ちゃんと言うのは周囲に人がいなくなると「危険だ」と呼び始めます。


というわけで、私が勝手に名づけたのか「赤ちゃんの置き去り防止センサー」です。


「寝て欲しい」「あれもやらなければ」と思っただけで、赤ちゃんはその気持ちを察したかのようにぐずぐずとして「私が寝たらお母さんどこかにいっちゃうでしょう?」「一人にしたら危険だからね」とお母さんのアンテナを向けようとしているのではないかと思うのです。
エビデンスレベルがとても低い個人的な考えです)


新生児訪問をすると、「いつもはずっとぐずぐずしているのに、今日はどうしちゃったのかな」「あのぐずぐずを見て欲しかったのに」と言われることが多いほど、人がくると赤ちゃんと言うのは静かになります。
お母さんの「今は自分ひとりではない」という安堵感が伝わるのかもしれませんね。


おそるべし、赤ちゃんの「置き去り防止センサー」です。
きっとこれも赤ちゃん自身が自分の身の危険を守るための能力なのではないでしょうか。


赤ちゃんが見守られているという安心感を感じられるためには、人手があればあるほどよいのだと思います。
そしてお母さん自身が、ちょっと赤ちゃんの世話から解放される時間も必要だと思います。
また、経産婦さんであれば、上の子を外に遊びに連れて行ってくれたりする人が必要です。


<人の手がある社会とは>


私が暮らした東南アジアのある国では、地方だけでなく核家族化の進んだ都市部でも人の手がたくさんありました。


狭い家なのに、いつの間にかどこからか親戚とか遠い遠い親戚という女性が来て子どもたちの世話をしているのです。
お母さんはといえば、「母と子の絆」なんて感じられないほどあっさりと子どもから離れて働きに行ったり、外でおしゃべりしたりのんびりと過ごしています。
規則なんてあってないような社会ですから、ふらっと戻ってきて母乳をあげて、またどこかに行ってしまったりしています。


また男性も女性も小さいこどもたちのあやし方がとても上手です。
ちょっとぐずりそうになると、誰か彼かすぐにあやして赤ちゃんの気を紛らわせています。
ですからあれだけ子沢山の社会でも、子どもが泣き叫んでうるさいということは不思議とありませんでした。
東南アジアの男性は一見マッチョで強面なのですが、その男性が老いも若きも皆ベロベロバーに一変する様子に、私は最初の頃本当にびっくりしたものです。


子どもが好きで、子どもたちが大切にされている社会という一面もあると思います。


でも、そのあやしたり世話をする「人の手」になっている人はどういう人たちでしょうか。


途上国では、男女ともに現金収入を得られる仕事につけるのは大変なことです。
食べて生きるためには、少し現金収入がある家に家事労働を手伝い居候になるしか選択の余地がない人が大勢います。
子どもたちの世話や家事の手伝いに来ている「遠い親戚」の女性は、学校に通うこともできず仕事もなく、食い扶持を求めている10代の少女たちでした。


日本ではどうでしょうか。
食事を出してくれれば居候をして赤ちゃんの世話や家事を手伝います、なんていってくれる人を探すのはまず難しいですよね。
逆に、日本ではそうした貧困格差がなくなってきた社会ともいえると思います。(もちろん新たな貧困格差はありますが)


<ドゥーラとは>


ダナ・ラファエル氏は繰り返し彼女の著書の中で「ドゥーラ」として、母親の周囲の支援の大切さを語っています。

まだギリシアにいた頃、女性の親戚や近所の人が「ドゥーラ」として新しい母親の家を訪ね、皿洗いを手伝ったり子どもをお風呂に入れたりし、赤ちゃんがふっくらとしていてかわいいなどと言って母親を元気づける習慣があったというのです。
英語にはこのような援助を行う人に対する呼称がないため、この時期以降私はこうした人々を「ドゥーラ」と呼ぶことにしました。


最近、分娩時のドゥーラや産後支援のドゥーラを耳にすることが増えました。
ただし、おしゃれな、洗練されたあらたな資格として話題にしたりするのであれば、それは違うと私は考えています。


誰か特別な人がドゥーラとなるのではなく、授乳中のお母さんというのは人の手が必要な存在であるという社会の認識が先にくるべきものだと思うからです。


それは授乳中のお母さんから、さらに、障害を持った方、高齢の方、認知症を持った方などなど、見守り人の手が必要な人への理解の一歩になることでしょう。


母乳育児に限らず、育児支援というのはテクニックやアドバイスももちろん大事ですが、まずは社会的支援に切り込んでいかないとお母さんたちには厳しい茨の道になってしまいます。
今の日本で、誰がどのようにドゥーラ役を担いあうことが可能でしょうか?




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