新生児の表情 6 <生まれ方で変るのか>

1990年代に「自然なお産」「いいお産」などの言葉とともに出産の環境が問い直されていました。


私自身もそういう流れに一部は共感を持って自分なりの分娩介助のスタイルを模索していました。


でも病院での出産を鼻から不満足なものとして表現されてしまう数々の書籍や論文に対しては、どうしても納得できませんでした。
当時、総合病院で働いていましたが、お母さんたちともよい信頼関係を築いていたし、「ここで産んで本当によかった」と言っていただけて、また次の出産で産む場所として選んでくださる方もたくさんいました。


当時はバブルの前に建てた施設だったので、分娩室は分娩台2台がカーテン越しにあるようなところでした。大部屋だし、婦人科やその他の患者さんも入院されているし、決しておしゃれでもないし「家庭的」な居住空間とは言えないけれど、そのお母さんが何に困っていて何を必要としているか、スタッフ全員で一緒に考えようとしていた姿勢が「家庭的」と受け止めてもらえたのだと思います。


そんなに病院のお産が不満足に思われているのでしょうか。


そのうちに病院でうまれた子どもは表情が乏しいとか、信じられないことまで見聞きするようになりました。
とくに2000年代に入ってインターネットで情報の流れが変った頃から、そういう言説を読む機会が増え、そんなことはないのにと心が痛む思いでした。


当時の私は、今ほど新生児の表情の変化に関心もなかったのですが、それでもご両親が「うちの子は世界一かわいい」と親ばかになれるように、「うちの病院でうまれた子は皆かわいい」と思っていましたから。


<「同じような出産だったせいか、みんな同じような表情をしていた」>


これは、出産運動に影響を与えてきたお一人のサイトに書かれていた言葉でした。
その方を個人的に批判するのが目的ではないので、お名前は伏せておきます。
またそのサイトの文章を引用できないので、私のほうで内容をまとめたものになることをご了承ください。


文中に名称変更前の「助産婦」と表現されているので、おそらくまだ1990年代に書かれたものかと思います。


地方の総合病院で、出産時の写真を撮影させてもらっていた体験から書かれたようです。
現像した赤ちゃんの写真はすべて「顔をゆがめて泣き叫ぶ赤ちゃんだった」そうで、研修医やたくさんのスタッフに囲まれて吸引やクリステレルでお腹をおされている様子、あるいは出産後に助産婦が無影灯の下に赤ちゃんをかざすように高く持ち上げてお母さんに見せようとして赤ちゃんが大泣きしている様子とともに、「その顔が写真の中でなんとも恐ろしい表情」だったとしています。



そして、この病院で何人か赤ちゃんを撮影したけれど、どれも同じような出産のせいか、みんな同じような表情をしていた、という言葉になっていきます。


またアメリカ人の「風変わりな」助産婦がこの筆者の撮影した数々の写真をみて、「これは病院。これは自宅でうまれた赤ちゃん」とすべて当てたことが書かれています。
写真はほとんどバックに写っていない写真で病院か自宅か特定できるようなものではなく、「赤ちゃんの表情をみるだけでどんな生まれ方をしたかがわかる」とその助産婦が言ったことが紹介されています。


そして筆者は「その表情の違いは、お産のとき赤ちゃんがリラックスした状態だったかどうか、産後すぐに赤ちゃんが望むような対応をしてもらったかどうかによって違ってくるのではないか、と私も感じるようになった」と書いています。


同じ表情に見えるものを「いや、ひとりひとり違いますよ」と説得しても変えられるものではないことでしょう。


それでも、吸引分娩をする時の私たちの緊迫した気持ちをもし知っていただければ、無事にうまれた赤ちゃんがたとえ顔をゆがませているように写っていても、その場の安堵感も一緒に写っている貴重な写真であると思っていただけるのではないかと思います。


赤ちゃんの心音がガタガタと下がってなんとか吸引分娩でこの世に無事に送りださなければという時には、私たちの手足も震えそうになります。
最悪のことを考えて、恐怖にもおののきそうになります。
無事に赤ちゃんが生まれてなんとか産声をあげてくれると、本当にそういう過緊張の時には言葉を忘れてしまうのですね。
「あ、おめでとうって言わなくっちゃ」と我に返るほど、一瞬、呆然とした状態になります。


生きて無事にうまれてくれた赤ちゃんの表情、それはそれは何ものにもたとえられないほど輝いているものなのです、私たちには。
それ以上の感動が必要でしょうか。


そして新生児は、生まれ方や生まれた場所に関係なく、人と人との信頼関係の中で表情が豊かになっていくのだと思います。