自然なお産と写真・映像 <「真」が写っているものなのか>6/29追記あり

前回の記事で、病院で生まれた赤ちゃんの写真が皆顔をゆがめて泣き叫ぶ表情が写し出されていたと書かれていたことを紹介しました。


写真。「真を写す」と書きますが、写真って何なのでしょうか。


<写真は何を写しているのか>


お手軽にウィキペディアからの引用ですが、「写真論」として書かれていたものからいくつか引用します。

・写真の企図のもっとも雄大な成果は、私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚を持つようになったということである。
・写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分のものにするということである。
・写真は事実をゆがめているかもしれない。
しかしなにか写真にあるようなものが存在する、あるいは存在したという推定は常にある。
・写真は絵画やデッサンと同じように、世界についてのひとつの解釈なのである。


つまり、写真の構成を意図してカメラを向けた時点で、それはすでに撮る人の編集の意図に沿ったものになるということではないでしょうか。


何気なく見ている空の雲も、ある人がある意図を持って撮影すればとても大きなメッセージをこめた表現となるように。


もしその病院で「怖い表情で泣き叫んでいる赤ちゃんだけが写っていた」としたら、そこには撮影者の意図がそのようなシャッターチャンスを逃さないようにしたとも言えるのではないかと思います。


病院でうまれた子か自宅でうまれた子か写真を見ただけでわかるというのは、着ている産着などだけでも推測可能でしょう。自宅でうまれた子に病院で使っているような白い産着やバスタオルは使わないでしょうから。
表情の違いで推測したのではないのではないでしょうか。


<写真や映像の中の虚像と実像>


私は小説やドラマよりはノンフィクションやドキュメンタリー番組の方が好きです。


たとえばスクランブル交差点を映像で撮ったとき、ひとりひとりはその大勢の人間の中のちっぽけなひとりにしか映し出されません。
ところが、ドキュメンタリー番組では、その無名のひとりをズームアップして人間の奥の深さを表現しようとするところにとてもおもしろさを感じます。
となりを歩いている風采のあがらないおじさんやおばさんも、もしかしたらすごい人かもしれないと思えてきます。


ところが写真や映像というのは、本当は意味の深い場面でも反対に無彩色であるかのように描き出せる冷たさもあると思います。


特に出産に関係する映像は、編集意図と演出方法によって時には虚像と実像が反転したようなものを作り出してきたのではないでしょうか。


1990年代初めに当時まだ出産シーンが映像としてテレビで放映されることが珍しかった時代には、病院での出産シーンに感動した人も多く、繰り返し同じ映像が放送されていた記憶があります。


その後、助産院や自宅分娩がクローズアップされるにしたがって、かつて人々を感動させていた映像は今同じものを見れば「無影灯のまぶしい分娩台で、点滴をしながら医療介入の多い病院のお産」と感じる人が多いかもしれません。
また、病院では病院側で準備した同じ分娩衣を着て、白かピンクのリネンで皆同じような背景に見えてしまうことでしょう。


その点、助産院や自宅では背景に豊かな色彩があり、一人一人がとても個性的にも見えることでしょう。


同じように赤ちゃんを抱いてうれしそうな表情をしたお母さんでも、映像を通すとそこには事実とは異なるストーリーで演出されてしまう可能性があります。


前回の地方の病院で吸引・クリステレル分娩で出産されたお母さんが、赤ちゃんが無事でどんなに満ち足りた思いだったとしても、ある意図を持った人のカメラを通すとそこには恐怖に満ちた赤ちゃんが映し出されてしまうというのは、とても冷酷なことです。


私にすれば吸引・クリステレル分娩を乗り越えたというだけで、本当によくがんばりましたねとお母さんと赤ちゃんを抱きしめてあげたいくらいですが。


前述のウキペディアの写真論には以下のようにも書かれていました。

・写真を撮ることによって、世界に対する常習的な覗き見関係が成立し、あらゆる出来事の意味を平均化するのである。


出産シーンというのは本当に感動するものだと思います。
でも人はあるシーンを見慣れると、さらに刺激が欲しくなるのではないでしょうか。
感動をさらに演出しつづけていく中で、もしかして虚像が人の心に残されてしまったのではないかと心配です。


<自然なお産の不自然な撮影>


出産中の産婦さんというのは、不思議なデリケートさがあることをよく感じます。
たとえば、ご家族が「早く生まれないか。何時ごろか」と期待に満ちて興奮して待っていらっしゃる間というのは不思議と陣痛が遠のいたりします。


またどんどんと陣痛が強くなってきたので分娩室に移動した途端に、なぜか急に陣痛が遠のいてしまって拍子抜けすることもしばしば体験します。
あるいは、そろそろ生まれそうかと産科の先生が見計らって分娩室に来てくださった途端、急に陣痛が来なくなってしまったり、不思議なことがよくあります。


できるだけ産婦さんが出産に集中できるという環境は大事だと、私も考えています。


以前勤務していた病院にもテレビの取材が入ったことがあります。結局使われませんでしたが。
その時に出産場面の撮影に協力してくださった産婦さんも、途中まで順調にきていたのですが、いよいよ分娩室に入ってビデオの準備を始めた途端に陣痛が止まってしまいました。
あと1時間ぐらいで生まれると予測を立てた私も、内心真っ青になりました。
そこから3〜4時間ぐらいして、みんなが待ちくたびれた頃に急に進みだして生まれましたが。


前回の記事で紹介した方のサイトでも、お産が止まって撮影できずに待っていた様子がかかれたものがありました。


写真や映像の専門家であれ家族であれ、カメラやビデオで待ち構えているというのは、出産の場には不自然な要素になり得るのだと思います。


そろそろ、出産シーンを写真や映像に残すことに意味があるのか、問い直してもよいのかもしれないと思います。


<2012年6月29日 追記>
たくさんの方の貴重な出産時の思いをコメントでいただき、ありがとうございます。
上記の最後の2行がちょっと言葉足らずでした。


ご家族が写真やビデオを撮ることは全然かまわないです。
映画やドキュメンタリーのような商業的用途や、学校や母親学級で使用する教育的用途など、公開を前提とした写真や映像に対して問い直してはどうかという意味でした。


特に「自然な出産」の文脈では、撮影というのはとても不自然であると言いたかったのです。