出産シーンを写真や映像で公開することの意味

前回、前々回の記事にコメントをいただいて、もう少しこの話題を考えてみようと思いました。ありがとうございます。
ただし、ちょっととりとめのない内容になると思いますが。


<感動する、感動を与える>


「感動」。
この言葉はそれこそ手垢がつくぐらい使われているので、感動って何なのだろうと考えるのも避けたい気持ちになります。
それでもふとしたことに心が震えたり、涙がでそうになったり、どこからこの思いがわきでてくるのか不思議です。



「感動する」。
それは、まったく自分自身の内側からの内発的なものかと思います。
たとえば新生児が声のトーンを変えて表現できることに私がとても感動して「新生児ってすごいですよね!!!」とお母さんたちに一生懸命伝えるのですが、肝心のお母さんたちはあまり関心をもってくれなくて空振りのことが多いです。
でもお母さんたちにはお母さんたちの表現しきれない気持ちがたくさんあるのだろうと思います。
同じ状況を見ていても、感じ方はさまざまですね。


「感動を与える」。
この場合には、人が感動しそうな状況に意味を持たせて感動させよう、何かメッセージを伝えようという意図があることを指すと言えるでしょう。


「感動する」と「感動を与える」は、ギブアンドテイクの関係のようで実は、全く方向が違うことではないでしょうか。


<「出産」を通して何を伝えたいのか>


私が時々行く書店の医学書コーナーには、周産期関係の医学書に混じって出産の写真集が置かれています。
人をひきつけるような新生児の表情、美しく写された妊産婦さんの表情、そういう写真も嫌いではありません。
でも、そういう本のメッセージである「いのち」(あえてひらがな)とか「自然な」「産む力」「生まれる力」といったものが、周産期関係の本に混じってあることが、なんだか違うと感じてしまうのですね。


ひとりひとりが生まれてくる瞬間に立ち会う仕事は、感動というよりも安堵感という言葉のほうがしっくりくるのです。


ここ1〜2年で話題になった出産関係の映画が2本ありました。
玄牝(げんぴん)」と「うまれる」です。
どちらも私は観ていません。
自分自身のその映画に対する評価は別にして、おそらく出産シーンなどでは涙がでてくるのではないかと思います。


それぞれの映画も感動を与えることにより、強いメッセージを伝えようとしているようです。
前者は出産の医療介入への批判であり、「あるがままに命と向き合う女たちの比類なき美しさ」というキャプションがついています。
後者は「子どもは親を選んで生まれてくるという胎内記憶をモチーフに、自分たちが生まれてきた意味や家族の絆、命の大切さ、人とのつながりを考える」
というメッセージがあるようです。


<強い感情は、新しい世界への扉>


感動であったり、反対に「世の中にはこんなことがあるのか」という驚愕、恐怖あるいは怒りのような強い感情というのは、それまでの自分が知らなかった世界へ大きく扉をひらくきっかけになるのだと思います。


私自身も、世界中の飢餓や戦争による難民のことを新聞や本で知り、内側からの強い感情がわきあがって来たことが海外での医療援助活動へのきっかけになりました。


最初は「何もできないかもしれないけれど、何かしたい」という気持ちだけでした。
でも強い感情に支えられている時というのは、次々と問題意識が広がっていくものです。
世界の中の経済格差、植民地や戦争責任という歴史、開発と人権、環境破壊、貧困と人権など、それまでの自分の生活の中ではほとんど考えたこともなかったことに関心が広がりました。


そういう時には、人が気づいていない問題の本質を自分だけがわかったような気になるものです。
本当は、社会にはとっくにそういうことに気づいて地道に生活をしている人がたくさんいるのですが、見えないものなのです。


若気の至りというか、若者の正義心というか、私は日本に帰国するたびに日本の社会がそういう問題に無関心で贅沢な生活をしているように見えていつも腹を立てていました。


世の中というのは無関心と悪に満ちた世界だと、ひとりで怒り、一人で心を痛めていました。
今から30年ほど前のこと。


出産というのは、実際に体験することはもちろん出産について考えるだけでも強い感情を呼び起こさせる機会だと思います。


ある人は健康、生きるとか死ぬということを深く考えさせられるきっかけにもなり、ある人は医療のシステムや社会の制度に関心を持つきっかになるでしょう。


そこに人生の不条理や社会の不備が見えて、何か世の中を変えていかなければという思いが出てくるきっかけになるのだと思います。


その力が良い方向に向けば、社会をよりよい方向に変えていく力にもなることでしょう。
でも方向を誤ると・・・。


1970年代から、出産をめぐるさまざまな動きが世界各国でありました。
出産の場の快適性に大きな改善をもたらす力にもなったと思います。
でも先に紹介した二つの映画のメッセージを読むと、私にはちょっと誤った方向に進もうとしているのではないかと心配になるのです。


そこに描かれている出産のシーンは、私が仕事としている出産の場とは違うものを写しているのではないかと感じるのです。
それは何なのか。
うまく表現できるかわからないのですが、ぼちぼちと書いてみたいと思っています。