院内助産とは 10 <助産師を見守る産科医の思いとは>

助産師に分娩経過の判断を任せる。


産科医の立場にしたら、これは相当大変なことではないかと思います。
私がもし医師の立場なら、無事に出産が終了するまで気が気ではないと思います。


自分自身を振り返って、助産師になって数年目から10年目頃が一番、「自然なお産」と「助産師だけで正常分娩は扱える」と張り切っていました。


ある程度お産がわかるようになり、産婦さんが「こうして欲しい」と思うことにも対応できる余裕ができた頃です。
また会陰裂傷をできるだけつくらないように怒責のコントロールの加減がだいぶわかるようになり、初産婦さんでも裂傷なしのお産ができるようになっていました。
アクティブバースとかフリースタイルとかではなく、腰痛などで体勢を変えて産みたい方には合わせることもできるようになっていました。

なにより励みになったのが、「また次のお産もふぃっしゅさんにお願いしたいです」と言ってもらえることでした。


「自然なお産」「待つお産」「会陰裂傷をつくらないこと」にかなりこだわっていました。
たしかに待つことでよい面もありました。
でも、もしかしたらあの頃の私は異常も見逃していた可能性もあります。
お母さんと赤ちゃんに、必要以上の負担をかけていた可能性もあります。
促進剤をつかえば何時間も長引かなくて済んだと思う方もいたかもしれません。
会陰保護にこだわらずに会陰切開を少し入れるだけで、軟産道の柔らかい組織や骨盤底筋群への負担を軽減できたかもしれません。


自分のイメージしていた分娩介助と自分の技術を磨くことに、今思えば周りも見えなくなるほど熱中していました。
お母さんに喜んでもらえることはやりがいでもありましたが、裏を返せば、それは自己実現の喜びでもありました。



自分はできる!と思い込みやすい時期だったと気付くまで、もう少し時間が必要でした。


お母さんと赤ちゃんが無事に出産を終えることができる安堵感、それが何よりの喜びであること。
それは一人の助産師の力ではなく、周囲のさまざまな経験を持った医師や助産師が影に日向に見守っているからこそ達成できることです。
そういう喜び、それはうまく表現できないのですが助産師自身のやりがいとか自己実現とは対極にある真の喜びではないかと思います。


そのことに気付くまで、もう少し自分自身の無力感に打ちのめされるような怖い経験が必要でした。


あの頃、私を見守ってくださった産科の先生方は、内心どんな思いで分娩室に呼ばれるまで待っていてくださったのだろうと感謝せずにいられません。


産科の先生が一人一人の助産師を信頼できるようになるまでには、その助産師がどのような考えを持ち、どれだけ正確に判断し行動できるかをある程度時間をかけながら見極めているのだろうと思います。





分娩の最後は立ち会うにしても、それまでの経過を助産師を信じて任せるだけでも大変だと思いますが、同じ院内にいながら分娩経過全てを助産師に任せようとされる産科の先生はどのような思いを持って院内助産に賛同されているのでしょうか。


想像するしかないのですが、そんな産科医の先生方の思いについて次回は書いてみようと思います。





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