院内助産とは 20  <助産師の病院嫌い その2>

医療の進歩、診断・治療技術の進歩、そして医療機器の進歩の中で、産科に限らずどの科でも、その恩恵の部分と反対に患者さんの日常生活への制限が増える部分との兼ね合いではおおいに悩むものです。


特に初めてあらたな技術が出始めた時には、まだ患者さんの快適性への配慮が少ない場合が多くなりがちです。


今、病棟で当たり前のように使われている心電図モニターも、1980年代初頭の病院ではとても貴重な機械でした。
そして感度も悪かったので、病室からナースステーションまでなかなか電波が届かずに、受信機の位置をあれこれ変えてみたりしてけっこう苦労した記憶があります。


最近では携帯の送信機を患者さん自身が持って自由に歩けますし、受信機もセントラルシステムになり、一度に何人もの患者さんの波形を常時観察することができるようになりました。


私の身内も最近、循環器系の病院に入院したのですが、「機械に縛られている」という不快感よりは「常時見守られているという安心感」があったようです。


医療の進歩の中で、医療機器などの拘束感、処置の不快感あるいは人間としての疎外感のようなものをどのように改善できるか。
それは、看護の大事な視点になるのではないかと考えています。


<病院の中に、「医療介入をしないことを前提にした場」を作るということ>


院内助産のHPを見ると、今までの病院での「無用な医療介入」への批判が書かれていることがあります。
たとえば、こんな感じです。

20世紀のお産は「安全性」をより重視した結果、正常に経過したお産でさえも多くの無意味な医療の介入が行われてきました。


私自身はまだ助産師としては20数年の経験しかないので、本当に「無意味な医療の介入」が多く行われてきたのかどうか言い切ることはとてもできません。
またそういう言説に根拠があるのかどうかもわかりません。



自分自身を振り返っても、駆け出しの頃はやはり判断に迷うことも多かったり技術的に未熟なので、どうしても医療介入の度合いが多いお産にはなりやすかったと思います。
正直なことを書けば、反対に自然な経過にこだわりすぎて医療介入の時期を逸したと反省したことも多々あります。


助産師一人一人の成長という視点からみれば、経験を積めば無駄な動きは少なくなり、結果無駄な医療介入を減らせることは確かにあるかもしれません。


あるいは産科学の進歩に伴って、あらたな考えや医療機器などが導入される際には、当初はどうしても産婦さんのアメニティの方が損なわれる可能性があります。
その後、徐々に全国の臨床の経験が生かされて改善されていきます。


医療を受ける側から見ると「無意味」「無駄」あるいは「不快」な医療介入であるとしても、そこにはなんらかの意味があることをわかりやすく説明する努力を求められているのではないかと思います。


そういう段階を経ることなしに、「医療介入がない」ことを是とし、さらに「医師が関わらない」ことを是とする場を医療機関内に作ってしまうことは、すなわち「今まで医師による無意味な医療介入をしていました」と言うに等しいのではないでしょうか?


産科以外の病棟では、その治療や医療機器が患者さんに必要であることを認めた上で患者さんへの負担軽減のために新たに看護が発展していくのに対し、なぜ産科においては医療の恩恵を客観的に捉えられずに否定的な表現をする助産師がでてくるのでしょうか。
そしてそういう助産師のほうが社会的には受け止められてしまいやすいのは、どうしてなのでしょうか。


そして現在就業している助産師は約二万八千人、そのうち9割近くが病院・診療所に勤務していますが、そのうちのどれだけの助産師が「無意味な医療介入が多い」と感じているのでしょうか。


いずれにしても出産に関する医療の必要性と快適性は、もう少し具体的に現状を把握した上で改善の余地はたくさんあるのではないかと思うのですが、あえて病院という医療の場に医療介入をしないことを良しとする場を先に作ってしまったことはとても残念に思います。






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