院内助産とは 28  <分娩における『主導』権>

助産師側が助産師外来や院内助産を説明する際には、「自立した助産師」とか「助産師が主体的に」のように自立や主体的という表現が好まれて使用されています。


それに対して、「院内助産とは 2 <院内助産の目的と定義>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120706で書いたように、2011年(平成23年)に日本産婦人科学会・日本産婦人科医会から出された「産婦人科診療ガイドライン 産科編2011」の中では「助産主導院内助産システム」という表現が使用されていました。


<主体的と主導の違い>


主体的の意味は「自分の意思・判断に基いて行動できる」ですが、それに対して主導は「中心となって他を導くこと」です。


産科医側は助産師側の好む「自立」や「主体的」を使わずに、院内助産に対してあえて「主導」という言葉を使用したのだろうと私は推測しています。


産科医側の「主導」という表現には、助産師側からの「産科医はお産には手も口も出さないで」という雰囲気を感じていることが感じ取れるのです。


その微妙な雰囲気は、自分も通ってきた道なのでこれではないかなと思うことがいくつかあります。


<「胎児娩出」に立ち会う人>


出産を専門用語にすれば「胎児娩出」という味気のない表現になりますが、人に限らず生命の誕生の瞬間というものはたとえ写真や映像であっても、そこに深淵に引き込まれるような特別の感情を持つのではないかと思います。


ましてその瞬間に立ち会う仕事となれば、自分自身で何か神聖で特別なことができる人であると思い込みやすいかもしれません。



旧約聖書にも「助産婦」が登場するように、生命の誕生に関わる女性の専門職として長いこと人類の中では「胎児娩出」に立ち会う人であり、地域の中で尊敬もされ一目置かれる立場であったようです。
20世紀半ばまでは。


20世紀というのは、生命の誕生に立ち会う特別な職業であるという助産婦のプライドを打ち崩す時代でした。


より安全な妊娠・出産のための知識や技術を持つ産科医や医師が増えて地域の出産の責任を負える時代になったのは、人類の長い歴史の中でみればほんとうにごく近年のことに過ぎないといえます。


今なお一部の助産師が助産師だけでお産を取り扱うことを求め続けるのも、歴史の中でみれば助産師の大きな転換期を受け止めきれずにいる流れではないかと思います。



<出生証明書は誰の名前にするか>


「生命の誕生」に立ち会う人としての主導権。
それは分娩に医師が立ち会うかどうかということもありますが、それ以外にもそんなことまでこだわらざるを得ないほど助産師のプライドは高く、20世紀に失ったものは大きいのかと驚くことがあります。


それは出生証明書を医師の名前で出すか、助産師の名前にするかということです。


病院や診療所であれば、たとえ助産師が分娩介助をして「胎児娩出」をしたとしても当然、その施設の責任者として産科医の名前で出生証明書を出すものだと思っていました。
たとえ、医師が分娩立会いに間に合わなかったとしても。


ところが、「病院・診療所で助産師が分娩介助をしても、医師の名前で出生証明書が書かれている」ことに疑問を出す人たちもいます。


半世紀前の自宅分娩の時代には、助産婦が呼ばれても間に合わなかったお産なんてたくさんあるわけです。分娩介助をしていなくても、自宅に赴いた助産婦の名前で出生証明書を書いたことでしょう。



出生証明書というのは分娩介助をした証明ではなく、「医師または助産師が分娩に立ち会った場合、その子がその母から出生したことを証明する文書」(「助産師業務要覧」日本看護協会)だからです。
(実際には、出生証明書の記載者は、医師、助産師そしてその他ということになっています)


助産師にとって急激な変化によって失った時代をなんとか取り戻そうという動きは、まだまだしばらくは収束しそうにないのかもしれません。


分娩における助産師の「主導」とは何か、もう少し続きます。




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