医療介入とは 22 <ドップラーとCTGのトリビア>

トラウベで胎児心音を聴取する時代からドップラーで聴取する時代への移り変わりというのは、もしかしたらただ単に機械化されたとか便利になったという次元の話ではなく、胎児の存在そのものへの受け止め方が社会の中で大きく変化したということではないかと思えてきました。


とりわけ、胎児の生死の境界が明確にされたともいえるかもしれません。


日本でいつ頃から携帯用ドップラーや分娩監視装置を使い始めたのでしょうか?


<携帯用ドップラーの歴史は?>


携帯用ドップラについては、アトムメディカルのこちらを。
http://www.atomed.co.jp/product/cat_obstetrics/detail/25


私が看護学生として産科実習をした1970年代終わりの頃、その病院では分娩監視装置を使用していました。
それが当時の全国のスタンダードだと思っていましたが、先日の「医療介入とは 20」で紹介した資料を読んで、あの病院はかなり進んでいたのだとわかりました。引用部分を再掲します。


「日本ME学会・産婦人科学会合同委員会および周産期ME研究会制定の産婦人科ME規格」 前田一雄氏 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmbe/49/2/49_2_297/_pdf

1960年代に出産の半数が病院・診療所で行われるようになっても、携帯用ドップラーや分娩監視装置は実用化されていなくて、トラウベでの聴診が主であったことでしょう。
臨床での実用化には、1980年代までかかったようです。

1980年代には(中略)、弱い連続超音波を用いるドプラー自己相関分娩監視装置が広く利用されています。

もう少し、具体的に日本で使用され始めた時期や販売台数とかわからないかと調べてみましたが、資料になるようなものは見つかりませんでした。


「鑑定からみた産科医療訴訟」(我妻尭氏、日本評論社、2002年)の「第一章 分娩監視装置」の中に、興味深い部分が何箇所かありました。

 当時は、ドップラー胎児心拍検出装置も未だ開発されておらず、胎児心拍は昔ながらのトラウベ聴診器で聴診し、時々内診して子宮口が全開すると分娩室担当のレジデントに連絡して分娩室に移送して娩出させた。(p.31)

これは日本ではなく、1963年から留学した米国のジョンスホプキンス大学付属病院での話のようです。この頃、その大学病院では、陣痛計の開発のための研究が先に行われていたようです。


 昔は、トラウベというまっすぐで棒状の聴診器を使用して、胎児の心音を直接きいていた。
 わが国で、これを電気的に測定して心拍数を数えたのは今から約40年前に、現在の皇后陛下(当時の美智子妃殿下)が皇太子殿下(当時の浩宮)を出産される際に、東宮職にあった小林隆東大教授が高性能のマイクロホンを妃殿下の腹部に当てて胎児心音を電気的に測定したことに始まる。胎児心音の周波数は低いのでマイクにフィルターをかけて低い周波数の音だけを強調するようにしてあったが、それでもマイクが腹部皮膚と触れ合う摩擦音が雑音として聴取された。(p.35)

皇太子殿下は1960年生まれなので、アメリカに先駆けて胎児心音聴取を皇族に対して試してみたということになりますね。

その後、超音波ドップラーを利用した胎児心拍計が開発されて胎児心拍の検出が極めて容易になった。(p.36)

具体的に、いつ頃からドップラーによる心音聴取が一般的になったかには触れていないのですが、先日の資料の中では「診断用超音波の安全性は1970年初頭までは確立されず、ドプラ胎児心拍検出器についてさえも胎児診断用の可否が論じられ」ということなので、実際に使用され始めたのは1970年代ということでしょうか。


その1970年代を体験された小児科医の先生の回顧のインタビューを見つけました。
「科学的思考のススメ」
http://tokyo.schoolbus.jp/~tokyomd/gogatsusai2003/book/gogatsu.pdf
東大の医学部の4年生が五月祭で毎年発表する企画があるそうで、その2003年のもののようです。
(300ページ以上にもなるPDFですのでご注意ください)


その第3章が「アトムが夢みる未来医療」というもので、鉄腕アトムの生誕の年を記念して各科の先生方に30年前の医療の話を伺い、30年後を語ってもらうという内容があります。(p.51〜)


その中の「3.6 胎児を助ける出生前診断」の橋都浩平小児科教授(当時)のお話を引用します。(p.67)

ー30年前と現在の小児外科を比べて変ったことは?
 小児外科にとってものすごく大きいのは、出生前診断ですね。今はほとんどが超音波でされているわけですけど、ぼくが小児外科に入ったころは胎児の超音波検査なんでのはやられていませんでしたから、胎児ってのはほとんどブラックボックスだったんです。
性別はもちろん、生きてるか死んでるかぐらいしかわかんないわけですよ。
(中略)
だから出産のリスクはやっぱり今より高かったですね。胎児の心拍数や内診・触診ぐらいしか診断のよりどころがなかったわけですから。

この先生が卒業されて医局に入ったのが1971年のようです。
東大病院でさえ1970年代初頭というのは、ドップラーでの心拍数確認が取り入れられたぐらいだったということでしょうか。


この「科学的思考のススメ」、なかなかおもしろいので是非皆さんも読んでみてください。
第3章の5の武谷雄二産科教授の「女性診療科の細やかな医療」も参考になりました。また第4章の「一般市民による科学的思考」(p.144〜)ではマイナスイオンや健康食品などもとりあげています。こういう授業こそ助産師教育で必要だとつくづく思います。


<分娩監視装置の歴史は?>


分娩監視装置に関しては、アトムメディカルのこちらを。
http://www.atomed.co.jp/product/cat_obstetrics/detail/30


日本ME学会の前出の資料の中では、以下のように書かれています。

診断用超音波の安全性は1970年代初頭までは確立されず、ドプラ胎児心拍検出器についてさえも胎児診断応用の可否が論じられ、分娩監視装置へも利用されてなかったので(以下略)

そして1980年代には広く分娩監視装置が使用されるようになったとしています。


いつから、実際に国内で使用されるようになったのでしょうか?
残念ながら、「鑑定からみた産科医療訴訟」の「分娩監視装置」の章には、明確な年は見つけられませんでした。


ただ、「第2章 子宮収縮剤」の中で、昭和49年(1973年)に日本母性保護医協会が出版した研修ノート「分娩誘発」の子宮収縮剤の投与についての留意点の中に「3.このためには分娩監視装置を使用することが望ましい」とされていたことが書かれています。


この点について、以下のような説明が書かれています。

 研修ノートは、昭和49年当時既に子宮収縮剤の不適切な投与によると思われる過強陣痛に由来する胎児低酸素脳症脳性麻痺をさす)、子宮破裂などの医療事故紛争が多いことを憂慮して会員の注意を喚起するために作成されたものである。(中略)
 昭和49年当時は、分娩監視装置の価格が高く、その機能がそれほど優れていない機種もあったので、上記のように「分娩監視装置をしようすることが望ましい」という表現を用いたが、その後にこの装置は普及し、胎児の状態の観察にはなくてはならない機器になったので(以下略)


つまり、1970年代初頭にようやく携帯ドップラー、そして分娩監視装置が実用化されたけれども、分娩監視装置が広く使われるようになるまで10年ほどの時間が必要であったということのようです。


1950年代からは胎児の生存を確認するための技術開発研究が進められる一方で、1970年代は大学病院でさえもまだ胎児はブラックボックスとされていた時期があったわけです。
そして一気に、1980年代には分娩監視装置によって、胎児が生きているか死んでいるかだけではなく「元気かどうか」までわかる時代に入りました。


この間の、人々の胎児対する意識の変化というものはどういうものだったのでしょうか。
とりわけ、当時の助産婦はどのように受け止めていたのでしょうか。
それもまた、ブラックボックスの中なのかもしれません。