医療介入とは 30  <CTGの普及と助産婦の「自然なお産」の時間的なずれ>

1980年代というのは、わずか10年間の間に病院での医療が大きく変化した時代だったのではないかという印象を強く持っていました。
血管確保のところで静脈留置針の普及について書いたのも、そのひとつです。


分娩監視装置に関しても、病院や診療所での普及に大きな変化があった時代だと思っていました。


10月4日に記事に、かものたぬきさんが分娩監視装置の普及についてかいていある論文を教えてくださいました。ありがとうございます。


「超音波診断を含む妊婦健診の導入と普及要因」 鈴井 江三子氏
川崎医療福祉学会誌 Vol.14 No.1 2004 59-70
{http://www.kawasaki-m.ac.jp/soc/mw/journal/jp/2004-j14-1/j14_suzui.pdf]


「医療介入とは23 <CTGと助産婦 1970〜90年代の変遷>」で以下のように書きました。
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121001

特に1980年以前に助産婦になった方たちは、CTGについて学ぶ機会は少なかったのではないかと思います。

この中に書かれている分娩監視装置の普及状況から、当時の助産婦がどれだけ分娩監視装置を使っていたか、そしてその経験は同じ頃に高まっていった「自然なお産」の動きとどのように関連していたのかなど、考えてみたいと思います。
あくまでも、私個人の推測ですが。



<分娩監視装置の普及状況>


前述の論文の中で、分娩監視装置の普及状況について表とともに以下のような考察がされています。(p.66)

 分娩監視装置の普及状況(表2)をみると、病院における分娩監視装置の保有施設率は、1970(昭和45)年は8.7%、1978(昭和53)年は88.5%、1987(昭和62)年は90.2%、1990(平成2)年は95.6%であった。
つまり分娩監視装置の普及は、1978(昭和53)年頃から急速に普及し、1987(昭和62)年にはほぼ全施設の病院が、分娩監視装置を保有していたと考えられる。


ただし表をよく読むと、「9)産婦人科、ME問題委員会が、1978(昭和53)年に実施した分娩監視装置の普及結果を示す」と、1978年だけ数字の出展が違います。
この88.5%というのは、以下の調査の結果を示しています。

 1978(昭和53)年、日本産婦人科学会産婦人科ME問題委員会は全国の大学病院、国立病院、赤十字病院、公立病院の合計228施設を対象に、全国における分娩監視装置の設置状況を調査した。

つまり当時でもハイリスクなどを受け入れる比較的、規模の大きい施設の結果であって、それを「全体の88%」ととらえるのは正確ではないと思います。


おそらく1980年代半ば頃から、病院・診療所ともに急速に分娩監視装置が普及し始めたのではないでしょうか。
それでも、表2では日本の分娩の約半数を担ってきた診療所での分娩監視装置の普及率が1987(昭和62)年の段階でもまだ56.3%でしかなかったようです。


<分娩監視装置の普及と助産婦の意識>


1993(平成5)年の時点でも、普及率は病院でも92.6%、診療所では63.7%であったということは、助産師の中でも「分娩監視装置の判読について学ぶ機会がなかった」あるいは「学ぶ機会はあったが、必須のものではなかった」方たちが、相当数、分娩介助をしていたのではないでしょうか。


私は、助産師の中で医療介入に対する忌避傾向が強いのは、「正常なお産には医療介入はいらない」という面だけでなく、もしかしたらこの1980年代から90年代に医療機関でどれだけこの変化を実際に体験していたかどうかということが大きく影響をしているのではないかと以前から考えていました。



私がもし分娩監視装置がないところで分娩介助をすることになっても、ドップラーあるいはそれもなければトラウベで注意深く胎児心拍数を聴きながら分娩介助することはできます。


でもそれはやはり「分娩監視装置がない=胎児の状態を正確には把握できない」条件下の分娩介助にすぎないということです。
すこしでも分娩監視装置からの連続したデーターによって、ヒヤリとした体験や無事に胎児を世の中に送りだすことができた体験があれば、もう後戻りはできないことでしょう。


1990年頃からあとに助産婦教育を受けて臨床に出た助産婦は、分娩監視装置を使うことはほぼ必須として教育を受けたと思います。
このあたりが助産婦の分娩介助に対するターニングポイントの時期といえるかもしれません。
世の中では「自然なお産」を求める声が高まっているのに対して、実際に分娩監視装置で胎児の様子を知る機会があればあるほど「自然なお産」に惹かれるものはあるけれども怖いと感じるのもまた当然でしょう。


私自身がもし看護学校卒業後にすぐに助産婦になる道を選んでいたら、1980年代初めには助産婦として働き始め、分娩監視装置をほとんど使わない分娩介助で経験を積んでいた可能性があります。
たまたま少し遠回りをして1980年代終わりに助産婦になったことで、分娩監視装置を日常的に使う環境が当たり前になっていました。


あるいは、1980年代初めの頃まで病院で働きその後結婚・出産などで長く臨床を離れたあとに、1990年代にまた助産師として働き始めようと思った方たちにとっては、ちょうど臨床を離れていた同時期に周産期医療の現場は大きく変化したと感じたことでしょう。


新たな知識や技術、機械に慣れていく必要があるのは、ちょっと浦島太郎のような気持ちにもさせるものです。
「以前は、こんなに機械は使わなかった」というプライドが強くなるのも、しかたがないのかもしれません。


年代にすると私と同世代の50歳前後、そしてそれより上の世代がその分娩監視装置の普及をはじめとした周産期医療の激動の時代にいたことになります。


ちょうど世の中の「自然なお産」の動きは、分娩監視装置なんて使わなくてもお産の介助をしてきたというプライドを強く引きつけた可能性があるのかもしれません。


この論文の著者もまた同世代であり、妊婦健診や分娩介助を行う「出産介助者」が助産婦から産科医に移ったとして、その要因に母子保健法や超音波診断装置の普及などがあるのではないかという視点でいくつかの論文を書かれているようです。
あらためていつか、その内容については書いてみたいと思いました。