医療介入とは 31      <陣痛計と子宮収縮剤の開発 > 

陣痛促進剤と書くと、「危険」とか「不自然」という感情まで一気に呼び起こされてしまいそうな薬剤かもしれませんが、この薬剤によって生命の危機を乗り越えられた母子や無事に経膣分娩を終了できた母子はどれだけいることでしょうか。


今まで胎児心拍の測定方法をずっと考えてきましたが、胎児心拍測定の機械の開発の前に陣痛計と子宮収縮剤、いわゆる陣痛促進剤の開発が始まっていたことを初めて知り、驚きました。


胎児の安全性を正確に見る方法が確立されていなかった1960年代のことです。
胎児が安全に生まれることよりは母体を優先せざるを得なかった時代は、そう遠い昔のことではなかったことをこのことからも改めて感じました。


<陣痛促進のための子宮収縮剤の必要性>


現在、陣痛促進剤としての子宮収縮はおもに、オキシトシン(アトニン)とプロスタグランディン(プロスタルモンF2α、プロスタルモンE錠)が使われています。


たとえば予定日を大幅に過ぎても陣痛がまったく始まらない時、あるいは破水して時間がたっても陣痛が来ない時、何とかして陣痛(子宮収縮)を起こさなければ胎児は生まれることができずに、母子ともに感染の危険や生命の危機が高まります。


あるいは胎児が胎内で亡くなってしまったのに陣痛が来なければ、胎児が胎内で融解していき母親までも播種性血管内凝固症候群(DIC)を起こして危険な状況になる可能性があります。


陣痛促進剤がない時代には、乳頭の刺激、浣腸や下剤の効果のある薬草、あるいは子宮口に機械的な刺激を与える方法など、さまざまな方法が試されてきたのでしょう。


そのどれもが安定した効果というものが保証されていなくて、強すぎる陣痛(過強陣痛)は生きている胎児に死や障害の危険をもたすこともあったことでしょう。
でも、なんとか妊娠を強制的に終了させるための陣痛促進剤が必要な場合があるのです。今も、昔も。


<米国での陣痛計と子宮収縮剤の開発>


胎児心拍モニターの開発よりも陣痛促進のための子宮収縮剤と陣痛を測定する機械のほうが先に始まったことを、「鑑定からみた産科医療訴訟」(我妻 尭著、日本評論社、2002年)を読んで気づきました。


9月29日の「医療介入とは 22 <ドップラーとCTGのトリビア>」を書く時に久しぶりに本棚から取り出して読んだのですが、以前は気にもとめずに読んでいたのでしょう。
物事を突き詰めて調べてみるということは、本当にたくさんのあらたな発見があるものですね。


かなり長く引用します。

1 陣痛計のプロトタイプ
 著者は1963年から米国に留学し、ジョンズホプキンス大学付属病院で臨床研究に従事したが、主なテーマは子宮筋の収縮であった。手術で摘出された子宮から筋肉片を採取して実験室でカリウムイオンの動きを放射性同位元素を使用して測定する基礎実験が、主な仕事であった。しかし、そのほかに臨床研究でおこなう機会も持つことができた。実験を予定した日に陣痛室に行くと、事前に妊婦外来で選択された妊婦がベッドに横になっている。一応簡単な説明をしてから、手術前と同じような手指の消毒をしてガウン・マスクを着け産婦の腹部皮膚を簡単に消毒し、子宮内の胎児を避けた位置で皮膚に局所麻酔を施し、太い針を腹壁から子宮内に射し込む。羊水の流出することを確かめて針の内部に滅菌したナイロンの細いチューブを通し、針を抜去し、ナイロンチューブをテープで固定しチューブの他端を圧力計に繋げば準備完了である。あらかじめ静脈内に点滴用の針を留置してあるので、点滴容器の中にうすい子宮収縮剤(オキシトシン)溶液を入れて注入を開始する。しばらくすると陣痛が開始し、圧力計によって子宮内圧が明確に示されるので、それを連続的に記録する。現在の内圧式陣痛計と原理は同じで、実験用のプロトタイプというべき装置であった。陣痛が一定したところで、さまざまな薬剤を別な静脈から少量ずつ注入して子宮に与える影響を観察するのが臨床研究(いわば人体実験)の目的であった。当時の米国でも、現在のように臨床で簡単に使用できる微量注入器はなかったから実験用の微量注入ポンプを用いた。
(中略)

 当時は、ドップラー胎児心拍検出装置も未だ開発されておらず、胎児心拍は昔ながらのトラウベ聴診器で聴診し、時々内診して子宮口が全開大すると分娩室に移送して娩出させた。すべて経産婦であったから陣痛が始まってから分娩まではせいぜい3〜4時間で、その間に薬剤の子宮収縮に対する影響を調べた。(p.31)

(強調は、引用者による)


子宮収縮剤は、陣痛計の開発よりも先に販売されていたことが書かれています。1950年代半ば(昭和30年代初頭)には、すでに市販されていたようです。

著者が医師になりたての昭和30年代初頭には、オキシトシンが販売されたばかりで強力な子宮収縮作用を持つために、努めて慎重に投与するように先輩から注意されていた。(中略)発売当初からかなりの間は、希釈した溶液を皮下に分割投与するアトニン分割という方法が分娩の誘発に用いられていた。


オキシトシン(アトニン)を現在使用する際には、必ず点滴液に希釈したものを輸液ポンプを使用して正確に少量から開始することは産婦人科ガイドラインの中にも書かれています。
それでも開始直後の数分以内に胎児心拍が急激に下がってヒヤッとしたことを、私自身何回か経験しました。おそらく希釈した点滴液にしてわずか1〜2mlが母体内に入ったかどうかぐらいです。
オキシトシンに対する反応はこのように個人差が大きいので、現在では輸液ポンプを使用しない施設はないことでしょう。


この輸液ポンプも市中病院の一般病棟で日常的に使えるだけ普及したのも、やはり1980年代終わり頃から1990年代にかけてだったと記憶しています。


<母体に陣痛を起こすことが優先課題だった時代>


陣痛促進剤といえば産科の医療事故の中でも代表的な原因とも言えます。
現在のレベルで考えると、分娩監視装置も輸液ポンプも使用しないで陣痛促進剤を使用するなんて、なんて危険なことだろうと感じるのが普通です。
私もそう思っていました。


でも今回こうして分娩監視装置の開発の歴史を振り返ってみると、「なんとか母体に陣痛が起きるような安全な薬品が必要」そしてその薬品を使う際に「陣痛を正確に計測できるようにしたい」という時代が、少なくとも1970年代までは続いていたのかもしれないと考えられます。
その時点では、まだ「児を安全に」という視点の方が弱かったのではないでしょうか。


1960年代(昭和36年代半ば)を境に、それまでの自宅分娩から病院・診療所への施設分娩化が一気にすすみました。
それでも産科医にとって、来ない陣痛を確実に起こさせるということはまだ夢の方法だったといえるでしょう。


そして1974年にはプロスタグランディン製剤のプロスタルモンF注射液、1978年に経口薬のプロスタルモンE錠が発売されました。
前期破水や予定日超過の場合にも、積極的に陣痛をつけることができる夢の方法が実現した時期です。


<陣痛促進剤の開発と「医療介入」の意識のずれ>


10月2日の「医療介入とは24 <「自然なお産」と分娩監視装置>」で、1979年に出された「出産白書」を紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121002


その「出産白書」を取り上げた本の著者が「当時のお産の実態について、医療が著しく介入していること」と批判的に見ていたのがこの陣痛誘発についてです。
その部分を再掲します。

第二次調査では、1.87.6%が望んでいない陣痛誘発剤を受けていること、
2.4人に1人は陣痛誘発について説明を受けていないこと、
3.陣痛誘発の説明の40%は単に予定日を越えたという理由、しかもなんと、
4.7割が陣痛がない状態で誘発をされていること、
5.4人に1人は陣痛誘発に不満を持っていること、逆にいえば4人に3人は不満を感じていないという事実(87パーセントは誘発を受ける意志がなかったのに・・・)などが特に注意をひく。

産科医側が陣痛が来ない状況を危険として研究を進めている一方、産む側にはその危険性がうまく伝わらないままに、ちょうど陣痛促進剤が市販され急速に使用される時代に入った時にこの「出産白書」が書かれたようです。


産科医側はようやく母体を助けるための陣痛促進剤を手にいれたけれどもまだ胎児の安全性を判断する手段を持たない時代に、ちょうどこの「自然なお産」に向けた動きが重なったというところかもしれません。


当時の産婦さんにすればわずか10年ほど前は「陣痛は待つしかない」ものであったでしょうから、薬で陣痛を起こすのは著しい医療介入という気持ちになるのも仕方がなかったのかもしれません。



陣痛計と子宮収縮剤について、もう少し続きます。