医療介入とは 44 <「産ませてもらう」と感じる時は?>

私の助産師生活も、できるだけ医療介入をしないことや正常なお産は助産師だけで介助できるということにこだわったり、代替療法的なものや考えもそれなりに取り入れたりしていたので、いやはや人のことは言えませんと思いつつこのブログを書いています。


ただ、この「産ませてもらうと思っている」妊産婦さんがいるというとらえ方だけは、なんだか心の底から抵抗がありました。


一緒に働いてきた人たちから直接この表現を聞くことはなかったとは思いますが、けっこう出産関係の本やネット上の情報などで産科医や助産師が使っているのを見るたびに、嫌な表現だなと感じていました。



なぜこういうとらえ方になるのか、全く根拠はない私個人の思いつきですがいくつか考えています。


パターナリズムからインフォームド・コンセントの時代へ>


30年前に看護婦として働き出した頃には、まだインフォームド・コンセント(説明と理解、合意)という言葉のない時代でした。


医師から患者さんへの説明はムンテラという言葉が使われていました。
ムントセラピーというドイツ語の「口」と英語の「治療」を合わせた造語の略語でした。
つまり説明も治療の一環で、医師から患者への一方通行的なニュアンスがありました。


医師だけでなく看護職をはじめ、医療職というのは患者さんに対して強い立場というか、療養に対して「親的」な存在だった時代のように思います。
ですから若い看護婦でも、年上の患者さんに対してはけっこう厳しい口調だったり、人生経験のある高齢の方に対してまで子どもに接するような口調になる、そんな雰囲気がありました。
いや、今でもそいう体質のような点は改善されていないと感じることがしばしばありますね。


90年代になるとインフォームド・コンセントという考え方が医療の中に取り入れられました。


それまではきちんと治療を受けようとしなかったり、あるいは生活習慣を変える努力をしない患者さんは、医療者側にとっては叱る対象でした。
本当に、30年ぐらいまえの看護婦にも怖い人がたくさんいました。


患者さんへの十分な説明と理解を含めた同意の上で医療行為が成り立つという考え方は、医療従事者側のパターナリズムになじんだ態度を大きく変えさせる機会になったと思います。


もし仮に「産ませてもらうと思っている産婦さん」がいるとすれば、それはあらたにそういう人たちが出現したのではなく、医療者側は一足先にこのインフォームド・コンセントと自己決定を受け入れているのに対し、受ける側は従来の医療のパターナリズムのイメージでとどまっている可能性もあるのではないでしょうか。


だとすれば、「産ませてもらう」とあたかも妊産婦さんが主体性がないかのように表現するのではなく、「医療も変りました。こうしてみたいと考えていることを伝えてみてください。わかりにくいことがあればわかりやすく説明する努力をします」ということかと思います。


<平均から逸脱した人が苦手>


30年ほど医療の現場でさまざまな患者さんや妊産婦さん、あるいはそのご家族と接していると、多少個性的といいましょうか変わった方といいましょうか、そういう人たちへの対応もそれほど難しく感じなくなってきます。
世の中、いろいろな考えや感じ方があるのだなと受け止められるようになってきました。


いや私自身が世間からはずれた感覚を多分に持って生きているので、何を「平均的」とか「常識的」というのかと問われるとそれも難しい感覚的なものですが、とりあえずは医療者側にとっては治療方針を理解して自己管理がある程度できる模範的な人というところでしょうか。


ところがこちら側が予想もしていないような言動をする方に出会うと、まず「困った人」「変った人」という目で見ることがあります。
よくよく話を聞いたり何度も関わっていくうちに、その方の行動パターンがわかってきて、決して変な人ではなかったのだと見方が変ることがあります。


つまりは、自分自身の「対象の理解」のバリエーションが狭かったにすぎないわけです。
こういう困惑する方との出会いが、逆に自分自身の対応能力を深めていける機会だと思います。


「『産ませてもらう』と思っている妊産婦さん」という人たちが存在するかのように考えてしまうと、目の前の妊産婦さんがひとりひとり何を不安に思い、何を考えているのか見えにくくなってしまうのではないかと思います。


そしてもうひとつ、分娩介助する側が理想的なお産をイメージしすぎることが、かえってこの「産ませてもらう」妊産婦さんがあたかもいるかのように感じてしまうのではないかと思います。
そのあたりを次回、書いてみようと思います。