医療介入とは 45  <「産ませてもらう」と感じる時ー妊娠編>

医療者側にとっては、妊娠した女性が前向きに妊娠・出産そして育児までに必要な知識を得て準備してほしいという期待があります。


それが危険な状況を回避し、より順調に過ごすための最低限のことだと医療者側は考えます。
危機的な状況とは妊娠・分娩に伴う心身の異常という意味だけでなく、広い意味での家族関係の危機も防ぐことができるという期待です。


妊娠中には心身がこのように変化する、出産はこのように進む。
そういうことを知っていれば、妊娠・出産への対応能力や解決能力が備えられるだろう。


そういう期待から、妊娠中にさまざまな保健指導の機会を設けます。
あるいは、自主的に自分でそういう情報を集めて準備するだろうと期待をしています。


多くの医療従事者にとっては、たとえば疾患を理解する時に、解剖・生理の基礎的な知識の上に病態の理解をし、その上で予防方法や治療方法、そしてその疾患にかかった場合の経過や予後はどうなのかという見通しまでたてることを無意識のうちに行っていると思います。
それは医学的知識に基づく見通しの立て方です。


ところが、この「見通しをたてる」ところにいたるプロセスに、産む側と医療側に大きな方法の違いがあるのではないかと、しばしば感じることがあります。


それはたとえばどのようなことでしょうか?


<妊娠・出産のとらえ方の違い>


もし私が医療関係に進まずに他の職種についたとしたら、今頃、自分の体のことや病気のことをどのように理解しようとしていただろうか、とよく考えることがあります。


そんなことを考えるきっかけになったのが、20代半ばの頃、友人から受けた質問でした。
本当に頭の良く切れる才媛でいわゆる学歴の高い彼女から、「子宮と卵巣ってどこにあるの?」と聞かれたのです。


毎月、生理の体験もしているはずだし、中学・高校の保健体育では授業で習った記憶もあるのになぜだろう、人の自らの体に対する認識というのはおもしろいなと感じたことがきっかけでした。


でも実はその頃、ちょうど私も助産婦学校受験のために産婦人科の教科書を勉強しなおしていた時でした。
もともと母性看護が大の苦手で「看護学校でこんなこと習ったっけ?」というほどいろいろなことを忘れていていましたから、まぁ人のことは言えないなと妙に納得もしていました。


もうひとつのきっかけは、母親学級の担当をした時の体験です。


助産師になって以来、分娩の後には産婦さんに胎盤を見せて説明をするようにしているのですが、笑い話でなく「その臍の緒が私の臍についているのですか?」という質問が少なからずあるのです。


妊婦さんって子宮の中の胎児をどのようにイメージしているのだろうと、ずっと興味深く感じていました。


母親学級の担当になった時、参加した妊婦さんに真っ白い紙を渡して子宮の中の赤ちゃんの様子を書いてもらいました。


8割ぐらいの方が、丸の中にキューピーのような赤ちゃんを書いておしまいです。うーんとうなって「よくわからない」とおっしゃいます。


1割ぐらいの方はなんとか臍の緒を思いついて書いていますが、直接子宮の壁につながっていたり、途中で途切れて「どうやって私の臍につながっているのだろう」と考えています。本当です。


残り1割ぐらいの方が、子宮についた胎盤から臍の緒が伸びて胎児についた状況を書いています。1割といっても看護師さんや保育士さんをふくめているので、大半の方は漠然としたイメージで自分の体の中に胎児が育っていることを受け止めているのかもしれません。


ですから私たちが解剖・生理、そして病態の知識を基礎とした考え方で妊婦さんに説明をしても、わかってもらえていないほうが多いと認識しておいたほうがよいかもしれないと考えるようになりました。


もちろん基本的な知識で妊娠の解剖・生理学的な情報があってもよいと思います。


ただそういう医学的知識に基づく指導法というのは、往々にして「なぜそんなこともわからなかったの?」「なぜそんなことをしたの?」という批判的な気持ちを医療者側も持ちやすくなります。
そういう気持ちも、「産ませてもらうと思っている」という妊婦さんの主体性に置き換えた批判になりやすいのかもしれないと思います。


妊娠10ヶ月はめまぐるしく妊婦さんの心身が変化していきますから、理論的に正確な知識では追いついていかないことでしょう。


それでも無事に出産するというゴールのために、「見通しを立てた」わかりやすい説明を工夫していくことが医療側に求められる技術かもしれないと考えています。


もちろん、それを代替療法でごまかしてはいけないですけれどね。


では妊婦さんの主体性を批判したくなる場面とはどんなことがあるでしょうか。



<妊婦さんの主体性への批判を抱きやすい場面>


分娩を取り扱う施設では、夜間・休日関係なく24時間いつでも電話相談や受診を受け入れています。


そういう私たちをちょっと苛立たせるのが、「なぜ昼間から症状があったのに、こんな夜中になって電話をして受診するのか」ということです。


だいたいの方が、「休んでいればよくなると思った」と答えます。
たしかに「横になっていれば落ち着くかもしれない。受診しなくて済むかもしれない」という期待感は理解できます。
どうしようと悩んでいるうちに夜になってどんどん症状がひどくなったり、夜になって不安が強くなって来院されるのだろうと思います。


そういう点では、妊娠中の異常に対する「医学的知識の欠如」を補うという保健指導が有効なこともあるでしょう。
こういう場面も、「産ませてもらうと思っている」に通じる気持ちを医療者側は抱きやすいのではないかと思います。


ところがけっこう多くの方が、「夫がもう少しで帰宅するので、そうしたら受診します」とおっしゃられるのです。
ちょっとこのあたりに鍵があるのかもしれないのですが、その答えの前にもうひとつの場面を考えてみます。


妊娠中に切迫早産で入院になることも、「自分がそうなるなんて考えてもいなかった」とほとんどの妊婦さんは想定もしていないことのひとつです。


一旦入院になると最低でも1ヶ月、長いと2ヶ月以上も入院することになります。
いつ治るかわからない病気とは違って「出産がゴール」という明確な目標があっても、お腹の張りが落ち着かなかったり、赤ちゃんの状況ではいつ早産で出産になるかわからない不安も大きいものです。


希望に満ちた妊婦生活の夢が全部崩されて、ベッド上での長期安静に耐えなければならない状況です。


本当に不安だろうと思います。
点滴の副作用に耐え、お腹も大きくなっていく中で心身の苦痛に耐え、本当によく頑張っていらっしゃると思います。
時にストレスが溜まって泣いたり、家族とけんかしたり、感情的に波があってもそれは当然のことだと、私たちもそっと見守っています。


ところが、時に「もういやだ!帰る!」と点滴を自分で抜いて帰りそうな方がいらっしゃるのです。
医師やスタッフが何時間も何日もその方のベッドサイドで話を聞いて、気持ちをなんとか治療に向けようとするのですが、「赤ちゃんのためだってわかっているの!でも嫌なの!」と。


現在の状況、あと何日頑張れば赤ちゃんは胎外生活でも大丈夫になるからと、医学的根拠に基いた見通しを説明しても、こういう時には耳に入らないものです。


こちら側の説明を理解し治療にも協力的な妊産婦さん、あるいは自分の状況がよくわかっていて「前向き」な姿勢の人には、「産ませてもらうと思っている」という感じ方はでてこないことでしょう。


でも妊婦さんの主体性とは、医学的知識に基いた「出産を無事に終わらせる」ことに対するものだけなのでしょうか。


<家族の構築、経済的主体性>



妊娠というのは、母体の心身の変化という点でももちろん人生の中でも相当な変化があります。


さらに妊婦さん自身のそれまでのひとりの女性としての人生や生活、人間関係を大きく変化します。


そういうことも含めて妊娠に向けて準備できれば理想的ですが、予期せぬ妊娠もあります。
また準備して妊娠しても、予想外の状況が次々に起きます。
「まさか自分が切迫早産で入院するとは思わなかった」「まさか自分が帝王切開になるとは思わなかった」と、ほとんどの方がおっしゃいます。


赤ちゃんを迎えるというのは、それまでその女性がそれなりに築いてきた自分の生活パターンや価値観、人間関係などを時に切り崩し、妥協し、異質なものを受け入れ、新たな生活パターンを生み出していくとも言い換えられるかもしれません。


その中で特に家族関係や経済的な面での変化が、妊婦さんの「主体性を感じられない言動」と医療側が感じやすい部分に実は大きな影響を与えているのかもしれません。


医学的知識では頭では理解はしても、実際の生活には見通しを立てることにはほとんど役にたたないわけです。


いつも夫が妊婦健診の際に車で付き添ってくれている妊婦さんにとって、夫が不在時に緊急で受診するにはタクシー代が必要になるという現実問題の方が大事になってしまうかもしれません。
収入源のなくなった女性にとっては、大きな数千円です。


長期入院で、夫が面会になかなか来てくれなくなれば不安も大きくなります。
家族にとっても、誰かが入院するというのは平穏な日常生活が一変します。身の回りの世話のために面会に通うことも疲れることです。
家族もまた疲労感と不満から、つい妊婦さんに感情的になることもあるでしょう。
妊婦さんも自分で身の回りのことさえできなくなる無力感に加えて、今までは大人として対等な関係であった両親や夫の両親に、頭を下げてお願いすることが出たり、反対にいろいろ尽くされることへの負担感も大きいことがあるでしょう。


また切迫早産の長期入院というのは、本当に予定外の大出費でもあります。


頭の中では大事な生命を守ることがわかっていても、現実の生活の中での見通しが立たないことが、直面している問題ともいえるでしょう。


<妊婦さんの主体性のために必要なこと>


母親学級などでは、どうしても医学的知識中心の内容が多くなります。
「何週では赤ちゃんは何グラムで、こんな成長をしています」とか。
もちろんそういう知識も生命の素晴らしさを実感する上では、楽しいかもしれません。


でももしかすると、医学的知識に基づいた説明よりももっと大事なのは妊娠・出産の予期せぬ状況にあっても対応していくための社会的な知識のほうかもしれないと思うこの頃です。


ましてや「自分らしいお産」とか「からだづくり」といった漠然としたイメージだけの情報は、本当の問題に直面した時には何の役にもたたないことでしょう。


こういう処置が必要になることがあり、いざという時にはこれぐらいの出費がかかることがありますよ。
あるいは、これぐらいの入院や家族のサポートが必要になることがありますよ。
だからそれに向けて、経済的にも家族関係でも日ごろから考えておいてくださいね・・・ということでしょうか。


そういう現実的な生活に対する知識から、逆に妊婦さんはそうならないようにするための知識を得ようという主体性が生まれてくるのかもしれません。


次回は、「産ませてもらう」と感じる時の出産編を考えてみます。


<おまけ>


切迫早産の長期入院について、経済的あるいは家族の負担というものはなかなか話題にならないのですが、これは医療側が問題視しないのも問題があると思っています。


でも入院費だけでも月に数万から10数万になりますし、そのうえ家族の面会にかかる交通費なども馬鹿になりません。


切迫早産を初め妊娠中の入院が無料になったら、どれだけ経済的な負担からくる家族間の問題も少なくなることでしょうか。