医療介入とは 47 <「自分で産む」という表現>

妊娠・出産そして育児というのは、「努力や準備をしてもどうしようもないことがある」ことを痛感させられる機会ともいえるかもしれません。


それまでの自分1人の人生なら、がむしゃらに努力したり計画的に準備をすればそれなりに結果が出ることも多かったかもしれませんが、妊娠・出産はそういう自分の力ではどうしようもないことが起き得ることに立ち向かっていくことではないでしょうか。


漠然とした不安は、そこにあるのかもしれません。


<「自分で生む(*)お産を考えよう!」>

(*は「産む」ではなく「生む」が原文のまま)


小見出しのタイトルで、サブタイトルに「『産ませて』でなく『産む』意識で育児も変る」とある育児サイトの内容を紹介します。
「muki 子どもと私が育つ!楽しむ育児情報誌」
http://www.kosodate.co.jp/miku/vol20/27_01.html


出産を前にすると、さまざまなことを不安に感じるもの。でも不安につぶされそうな気持ちで医師や助産師さんに産ませてもらうのではなく、自分から赤ちゃんを生む意思を持ったお産を考えましょう。

という前置きの後、産科医の先生の話をまとめた内容が続きます。

でもいろいろな不安を強く持ったままお産に望むことは、受け身のお産になりやすいもの。陣痛の痛みに耐えかね、自然分娩できるのに「帝王切開して産ませて!」と叫んでしまう妊婦さんもいるほどです。

最近では、医師や看護師が妊婦さんの出産を管理して産ませるのではなく、「妊婦さんが自ら産むことを支援する」という考え方に変りつつあります。
産む姿勢や、呼吸、いきみも妊婦さん自身の好みやタイミングに任せる産院が増えてきている。
「産ませてもらう」のではなく「産む」ためにはリラックスして妊婦さんが主体的になることが大事。

不安を抱えたままでは主体的なお産が難しくなります。
また自分の産み方に対してモヤモヤした感情を抱えたままでは生まれてきた赤ちゃんに笑顔で向き合えないこともあります。

どんな優れた産科医であっても、出産を代わることはできません。
不安はきちんと解消し、自分で生み、育てるという意識を持ちましょう。

穿った読み方をすると、冒頭では「医師や助産師さん」で文中では「医師と看護師」にしているところをみると、もしかしたら「自然なお産を大事にしてくれる助産師」による出産を理想としている編集者の意図が強くでている文章ではないかという印象です。


まぁそれはおいておいて、妊娠・出産の不安というものは準備をすることで解消できるものなのでしょうか。


<「産ませてもらう」じゃだめだ>


医療者側が妊娠・出産のことをもっと妊婦さん自身で知って欲しいという思いから、上記のような記事が書かれることも理解できます。
でも「不安を抱えたままでは主体的なお産はできない」ひいては「赤ちゃんに笑顔で向き合えない」となると、ますます不安になってしまいそうです。


11月9日の「医療介入とは 39 <「産ませてもらう」と感じる時は?>」にhaccaさんがくださったコメントの中の疑問に、医療側はどういう答えがあるのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121109

産ませてもらうって「それじゃだめだ」という意味ですよね。
その医療者にお任せな態度が一般的であるなら、そうでない態度とはどういうものなのだろうとなりますね。
そこで「アクティブバース、助産院」・・・とつながってしまうんですね。
優等生でありたいと思う気持ちがそこへ向かわせてしまうのかも。
自分を振り返るとそうでした。
助産師はここへ来るのは教職者か指導者といった立場の人も多いと言っていました。

haccaさん、ありがとうございます。


<「どうすればよいか教えてほしい」>


冒頭の記事では、「自分の不安や疑問を紙に書き出すのは、とてもいいことです」とバースプランを書いたりバースレビューをすることを勧めています。


たしかに表現してくれれば、私たちも具体的な不安に対してなんらかの知識や情報を提供することができます。
有効な場合もあることは否定しません。


でもやってみないとわからないし、努力が結果を保証しないのがお産ともいえます。
イメージしていたり、想像していた状況とは全く違うと感じた方も多いことでしょう。


11月4日の「医療介入とは 39 <分娩台に対する感じ方のあれこれ>」に、renyankoさんがくださったコメントの中にそういうお気持ちが出ていると思います。
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121104

また、「どうしたいか」ですが、特に初産だった私にとっては「どうしたいか」といわれてもよくわかりません。「どうすればよいか教えて欲しい」というのが正直なところです。

renyankoさん。ありがとうございます。


本当にそうだろうと思います。
初産に限らずお産はそのつど違うので、何をどうしていいのかわからないし、どうしようもないと思うのは決してあきらめとか受身というわけでもないと思います。


たとえば夫立会いを予定していたけれど、実際には「1人のほうが集中できる」と場外通告される夫もいます。ご主人は一生懸命に汗を拭いてあげたり頑張っていたのですけれどね・・・。
これも実際にはやってみないとわからないものです。
大丈夫。廊下に出されても、家族の「絆」には影響しないのですから。


「産まれたら感動して涙の対面」になる予定だったのが、泣いている夫の横で呆然と赤ちゃんを見ておしまい。
抱っこをする気力もないこともあります。
それだけ全力を尽くしたのだと思います。イメージした出産直後の幸せな場面とは違っても、それは愛情の有り無しとは無関係ですから。


思うとおりにはならない。
そう受け止めているほうが、出産の不安には役立つように思うのです。


そして思うとおりにならなかったことこそ、前向きに受け止めていくことが「主体的」と言えるのかもしれません。


でもやっぱり、出産には「主体的」という表現は似つかわしくないと思います。
きっとあれこれ積極的に出産に準備していることで受身ではない自分という意味では安心感は得られるかもしれないのですが、妊娠・出産の不安とはもっと根源的な何かではないかと思うのです。
そのあたりを次回書いてみようと思います。