医療介入とは 48 <再び、「主体的なお産」とは何か>

長々と主体的なお産という表現について考えてきたのですが、そもそも妊娠・出産に関することに「主体的」という表現を使うこと自体が矛盾を含んでしまうと思います。

主体的・・・自分の意思・判断に基づいて行動するさま
YAHOO!辞書より引用)


あくまでも主体がひとりの場合には、主体的に生きることも求めることができます。
また受動的な生き方よりは主体的な生き方のほうがよいという価値判断が必要なこともあるでしょう。


でも妊娠というのは、「胎児」という自分ではない存在を内包することです。


その場合の主体って何でしょうか?


もしかすると妊娠・出産に対する根源的な不安というのは、自分の中にいる他者の生命に対する不安が大きいのではないかと思うのです。


<出産の「痛み」に耐えるということ>


「産みの苦しみに耐えてこそ」という考え方がそれほど日本の中で本当に根強いのかどうかは私自身はちょっと疑っています。
それでも、「赤ちゃんも苦しい時だから、お母さんも頑張って」と励ます意味で陣痛の意義を産婦さんに納得させようとしたことはあります。
特に、「<『産ませてもらう』と感じる時ー出産編>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121111で書いたような、分娩時に声を出したり一見パニックになっているように見えた産婦さんに対してです。


だんだんと、そういう産婦さんもパニックになっているわけでもなく「体の内側からのエネルギーを発散させるようなお産」もあるのではないかと思えるようになりました。


さらに、分娩の途中で「もうだめだ」「やめてほしい」と思うほど危機感を感じる痛みになることがあるのではないかと思うのです。


ふだん自分のどこかに痛みがあっても不安になりますね。
基本的な疾患と看護の知識を持っている私でも、強い痛みがあると「何か悪いことが起きるのではないか」「死ぬのではないか」と不安になります。


陣痛は、傷や病気の痛みとは違うと頭では理解できてもクライマックスの頃の陣痛の強さは産婦さんにとって「生命の危機」を感じさせる不安になることもあるのではないかと思います。


痛みは「死」を連想させ不安になります。
自分ひとりのことでも死への不安は相当怖いものです。
妊娠・出産は「ふたりの死」への不安をかきたてられるのではないかと思います。
もちろん、ふだんはできるだけそれを考えないように心の奥に封印しているのでしょう。


我慢強さとか冷静さとかとは次元が違う感情なのではないかと思うのです。


感情は誰にも変えることはできないし説得してどうになるものでもないので、私たちにできるのはきちんと分娩進行の状況を見極めて、お母さん赤ちゃんも問題ないこと、あとどれくらいでどんな感じに変化していくことなどの見通しを伝えて見守ることではないのかなと思っています。


<お産が怖いと思う気持ち>


私の勤務先では、無痛分娩もしています。途中で希望があればいつでも無痛分娩に切り替えられるようにしています。


以前勤務した総合病院でも無痛分娩に対応しているところもありましたが、希望者に対してというよりは血圧が高めとか難産になりそうな方の限定で、基本は頑張って産むという方針でした。


今の勤務先に移ってからは、最初の頃は妊娠中から分娩経過とどう過ごすか産婦さんに情報を提供することで、お産について怖がらせないように気持ちを支えてあげれば無痛分娩をしなくても済むのではないか、それが助産師の仕事だという気持ちがけっこうありました。


しかも分娩進行中は基本的に助産師がずっと側に付き添っている体制ですから、お産を怖がらせないで頑張らせる条件は整っています。


でも今は、無痛分娩を希望して産む場所を選択してこられた方を「説得」することはやめました。


それは「お産が怖くてしかたがなかったのでこどもはつくらないと思っていました。でも無痛分娩のおかげで、こんな私でもこどもを産むことができて本当にうれしい」と赤ちゃんを抱いて大泣きしたお母さんに出会ったことがきっかけでした。


「こんな私でも産めた」と思わせるほどに怖いと感じる方がいる。


それまでの私にしたら、背中に硬膜外チューブを入れたり麻酔を入れる医療処置の方が怖いと思いそうなのに・・・と思っていました。


中学・高校時代の性教育で出産ビデオを見てから怖くて仕方がなかったとおっしゃるかたもいます。
母親学級で出産ビデオを見て、気分が悪くなった方もいます。



無痛分娩を選択されたお母さん方のお話を伺うと、お産の怖さというのは「主体的に、頑張って乗り越えられる」ものだけではないものだとつくづく感じます。


<生命の危機を感じさせる痛みもある>


11月11日の<「産ませてもらうと感じる時」−出産編>で、私は叫んだり泣き言を言っても基本的に産婦さんの好きなようにしてもらっていることを書きました。
http://d.haetna.ne.jp/fish-b/20121111


ただし、あくまでも分娩経過全体から見て好きなようにしてもらって大丈夫と判断したうえです。


時には、「痛みの質が違う」とでもいうのでしょうか。
何か産婦さんが心身の危機を訴えている場合もあります。


微弱陣痛でお産が長引いている時の「切ってくれ!」「やめてほしい!」などはそのまま頑張らせて産まれないこともないのですが、終わってみてからもしかしたらこれが原因で進み方がゆっくりだったのかと思うことがあります。


たとえば、臍帯巻絡や臍の緒が短い臍帯過短など、お母さんの努力ではどうしようもない臍帯因子が影響していたのではないかと、あくまでも私個人の仮説にすぎませんが。


陣痛がそれほど強くなさそうなのに痛がり方が激しい時など、つい「我慢がたりない産婦さん」と思いがちです。
でもこういう順調とはいえない経過の時には別の因子があって、痛みの質も痛みの訴え方も違うのではないかと思うようになりました。
何か内側から生命の危機、しかもお母さん自身だけでなく赤ちゃんとふたりぶんの危機を伝えようとしている痛みもあるのかもしれません。


ですから「この痛みの訴え方は・・・」と感じた時は、さりげなく無痛分娩に切り替えられるようにお母さんの気持ちに働きかけるようにしています。
あるいは帝王切開になるかもしれないと感じた時にも、さりげなく帝王切開の可能性も話して受け止めていけるようにしています。


もう十分頑張っているので、それ以上頑張らせすぎる必要はないと思うのです。
あるいは頑張らせることはできても、もう二度と産みたくないと思うほどの恐怖心を残してしまうこともあります。


もちろん医療介入の方針を決定するのは産科医ですから、私が先にその可能性を伝えるのは順序が逆になってしまいます。
また伝え方次第では、逆に産婦さんを不安にさせてしまうので要注意です。


それでも、お産の途中で無痛分娩あるいは吸引分娩や帝王切開の可能性を説明されたら本当にパニックになってしまいそうですが、案外、産婦さんはどこかほっとした表情をされて受け止めてくださいます。
「助かった・・・」というような。


<主体性とは何か>


痛みというのは、身体の異常を感知させる防御的な必要性があります。
痛みを感じなければ、どこかに体をぶつけて怪我をしても気づかずに大変なことになります。


出産の痛みがなければ体内で起きていることに気づかず、それこそ歩いていても赤ちゃんが生まれてしまったりして大変ですね。
陣痛があるからこそ、分娩が始まるという変化や異常に備えることもできるのだと思います。


ところが痛みは、たとえ陣痛であっても異常や死を思い起こさせるものではないかと思います。


それに対して冷静ではいられない自分を認めなければいけない。


不安の根源はそこにあるのではないでしょうか。


そして自分だけでなく赤ちゃんのふたりの死に向き合う可能性があることへの怖さ。


自分のことだけではない状態だからこそ、主体的にはなりきれないのが妊娠・出産なのではないかと思います。


だから「主体的なお産」というのは、現実的にありそうで実はそういう矛盾から目をそらせてしまう、あまり意味のない表現だと思っています。




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