医療介入とは 58 <旧産婆と近代産婆の登場>

前回までの記事で紹介したような「血のケガレ」による出産風俗というのはいつ頃までつづいていたのでしょうか?


「叢書いのちの民俗学1 出産」(板橋春夫著、社会評論社、2012年9月)では、青森県の史料をもとにした話が多く紹介されていますが、著者は以下のように書いています。

 現在、産育習俗としての夜詰の慣行は青森県内では聞かれないという。菅見では周辺の民族調査報告書にも見当たらない。二百年前の八戸では確かに存在した言葉であるが、僅か二百年で人々の記憶から消失するものなのだろうか。ごく一般的に言って、人びとにとって必要のないことや都合の悪いことは記憶しない、あるいは記憶されない。出産風俗は明治以降大きく変ってきた。明治政府発足時から産婆への取り締まりが厳しくなったことであり、衛生管理の厳しさは富国強兵政策とも関連しているが、特に近代医学の導入と共に古い習俗は、遅れた排除される対象であった。夜詰の慣行のように、七日間もじっと座っているという耐え難い苦しみを与えてきた習俗は、近代産婆から真っ先に批判されるものであった。(p.94)


<産婆から近代産婆の時代へ>


私たちの名称は、産婆、助産婦そして助産師へと変更されてきました。
昔の産婆さんとひとくくりに語られることが多いのですが、その中でも明治時代に教育制度の中で資格を与えられた近代産婆とそれ以前の産婆とは大きな違いがあります。


この本の中で、産婆と近代産婆の違いについて書かれた部分をあげてみます。

江戸時代には産婆のほか、穏婆(おんば)、洗婆(せんば)、子取り婆、腰抱きなどバラエティに富む呼称が使われていたが、明治元年(1868)の布達で初めて「産婆」の言葉が使われた。明治期の産婆制度は、旧来の産婆を取り締まることから始まった。(中略)当時、産婆が堕胎に深く関わり、堕胎のための売薬を業とするものもいたため、明治政府はこれを大きな問題としたのである。(p.104)

 この二つは、今まで家族などの意志を受けて堕胎や間引きを行っていた産婆を取り締まることで、出産管理権を国家へ移す始まりでもあった。(中略)堕胎は江戸時代から明治初年における出生調節の最も確実な手段の一つであると人びとに認識されていたのである。

 そして明治7年(1874)の医療に関する基本を定めた「医制」において、助産職が法令で規定されて産婆と産科医の業務範囲が明確になった。産婆の業務は正常分娩の介助に限られ、薬剤・産科器械の使用が禁じられた。

この時点ではすでに出産介助経験を持ち医学的知識を学んだ40歳以上の産婆という経過措置的なものであったのが、明治32年(1899)に産婆規則の制定とともに近代産婆(新産婆)が登場します。


明治以前の産婆は、間引きや堕胎を行っていた点だけでなく「呪術的機能」があったことを板橋氏はいくつか紹介しています。


前回までの記事で紹介した夜詰やヨトギも「赤子を獣や魔物から守る」ことも「子どもの『いのち』をこの世に安置してくれる呪術者としての産婆」(p.106)の機能であり、また祈祷者として立ち会っていたことも書かれています。


<出産とケガレ>


産屋(うぶや)の習俗と助産婦について研究をされている伏見裕子(ゆうこ)氏が「女性学年報 第32号 2011」(日本女性学研究会、女性学年報編集委員会)に書かれた論文の中に、明治政府が出した布告について言及されている部分があります。


「戦前期の漁村にみる産屋習俗の社会事業化ー香川県『伊吹産院』を中心にー」

1.妊産婦保健事業の普及と産屋への眼差し


 明治政府が成立して間もなく発せられた明治5年太政官布告第五六号「自今産穢不及憚候事」(内閣官報局【1889:64】)以降、ケガレを避ける場としての産屋を正当化することはできない時代になった。たとえば、愛知県北設楽群振草村神田(現在の北設楽群設楽町神田)およびその周辺地域には、出産や月経の際に籠る忌屋(いみや)が複数存在したが、明治維新後に「お上」から「そんなものはけがれていない」と言われ、日清・日露戦争の頃になると忌屋は目に見えて減少し、忌屋生活を守っている人の方が人目を避けるようになったという。(女性学年報第32号、p.141)

(もし伏見さんがお読みになっておられて、引用に問題がありましたらお知らせください)
伏見裕子氏の研究については、2012年3月25日の「助産師だけでお産を扱うということ1 <日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃>」で紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120325


明治時代に入り、出産に対する「ケガレ」という考え方をなくし、出産に医学的知識を持った産婆が関わることになるという大きな二つの変化があったということになります。


その変化はすぐに人びとの意識をも変えるわけではなく、古いものを捨て新しいものを取り入れる中にはさまざまな葛藤があり、時間を必要とするものであったことでしょう。


「白沢村では、近代産婆が登場してから、ふとんの上でお産をするようになった。すなわち仰向けに寝た姿勢の出産である」(「叢書いのちの民俗学 出産」p.110)のように、「仰向けのお産」は近代産婆、つまり医療が出産に介入することによって取り入れられたという批判に使われますが、それは長いこと女性を「血のケガレ」として縛り付けていたさまざまな因習から解放された時代でもあったことにもう少し目を向ける必要があるのかもしれません。


近代産婆による「仰向けのお産」、それについて次回は考えてみようと思います。