自宅分娩を肯定的にとらえる文脈では、「昔は自宅に産婆さんが来て取り上げてくれた」ということが必ずと言ってよいほど書かれています。
この「産婆」さんとは誰なのか。
昔の自宅分娩における近代産婆の役割は何だったのか。
今回と次回は2つの資料から、そんなことを考えてみたいと思います。
<北海道の拓殖産婆について>
天使大学のサイトで公開されている資料です。
「北海道開拓と拓殖産婆」
(宮本涼子氏、前田尚美氏、須藤桃代氏、高橋弘子氏)
http://www.tenshi.ac.jp/lib/outcome/2011_Ryoko_MIYAMOTO.pdf
この中のp.10に明治42年(1909)から昭和22年(1947)までの産婆総数の表があります。
たとえば明治42年(1909)の全国の総産婆数は27,220人ですから、現在の助産師総数に近い人数です。
その年の出生数は1,693,850人で、現在の1.6倍の出生数です。
昭和22年(1947)では、出生数が2,678,792人に対して産婆は67,238人です。
「医療介入とは 58<旧産婆と近代産婆の登場」で書いたように、明治32年(1899)年に近代産婆が世の中に出始めました。
全てのお産にこの近代産婆が立ち会っていたわけではないのは、人数的にまだ不十分であることもひとつですが、新しい産科の知識や技術が浸透するまでにさまざまな困難があったことも大きいことがこの資料からも読み取れます。
たとえば「これまでの誤った習慣の改善」(p.18)では、以下のように書かれています。
■出産に関する俗信・迷信の存在
出産は「不浄・不潔」
横になって寝てはいけない
産後の食事はご飯と塩・味噌のみ。副食物は血にさわる
■座産⇒仰臥位産へ
座産の改善が最も苦労した
■衛生的な環境へ
畳を起こして筵を敷き藁灰を造って敷く環境から、家人を説得して布団の上でお産をさせた。
また、当時の経済状況から「貧しい人びとを対象とした活動」(p.16、p.17)であったことが書かれています。
■仮眠をする場所もないほどの貧困家屋での助産
■分娩料が払えない
助産料は分娩5円、往診料一里一円、診察料50銭の規定。その時代では大金で払える家は少なく、年の暮れに麦5升、豆3升などを届けてくれるのは良い方でした。
■物がない
着せるものも無く焚き火もない中で、臼を割ってお湯を沸かし生まれた子供を醤油樽で洗い、私の襦袢を脱ぎお腰を着せて帰りました。
夫や家人に内緒で米や味噌、衣類などを持ち出し、取り上げ料も貰わずに面倒をみてあげたことも一度や二度ではなかった。
「給料は支庁から30円、村役場から家賃補助15円」当時の教員40円、巡査40円
経済的に分娩料を支払うことが厳しい時代には、まだまだ無資格産婆を選ぶ人も多かったようです。「無登録産婆との確執」(p.19)
■拓殖産婆配置前は、産婆がいなかった(無資格産婆が活躍していた)
■分娩料の違い、分娩介助方式の違いから拓殖産婆の活動が浸透するまでに時間を要した。
「拓殖産婆の分娩費用は8円でしたが、無免許のお産婆さんたちは3〜5円だったようです」(上士幌町)
現代と違い、交通機関も通信網もない中で開拓産婆と呼ばれる人たちが「厳しい自然環境・広範囲での活動」(p.15)を行っていた様子が書かれています。
■上士幌町(昭和13年〜) 伊藤ツル
山奥の農家へ行くには山を越えていかねばならず、特に夜中うっそうと茂った林の中の細道を歩むのは寂しゅうございました。
■陸別町(昭和8年〜) 鎌上タマノ
馬に乗せてもらったら落ちて雪まみれさ。仕方ないから馬の後を歩いたけれど・・・太ももまでの雪こいで、なんぼ歩いても雪が吹雪ですぐ見えなくなるし。
■別海町 下川原スエ 町の約半分の地域を担当
想像を絶するような環境で働き続けたこの拓殖産婆さんたちですが、その貢献について考察で書かれています。(p.22)
正規の免許を持つ産婆(ドイツ産科学による教育を受けた産婆)による出産の介助
■衛生の概念を取り入れた出産介助
■産科学に基づく分娩介助
■誤った産育習俗の改善
前回の記事で紹介した伊吹島のように、戦後になってもまだこの正規の産婆の知識や技術が受け入れられることが困難だった時代が続きます。
昔の産婆さんによる温かいお産とは、いったいいつの時代の話だったのでしょうか。
次回はもうひとつ別の地域での近代産婆が受け入れられていく様子を紹介したいと思います。