医療介入とは 63 <近代産婆の資料2 信州の産婆>

ネット上で、1900年代前半の長野県で近代産婆による出産介助が広がっていく様子が書かれたものを見つけました。


「長野県における近代産婆の確立過程の研究」
湯本敦子氏 (信州大学大学院 人文科学研究科 地域文化専攻、平成11年)
http://www.arsvi.com/2000/000300ya.htm


前回の北海道の開拓産婆の資料でまとめられていた内容について、情景が目に浮かぶかのようにさまざまな資料から当時の状況が描かれています。


当時というのは、上記文献の40ページの「終章 本論文のまとめと残された課題」に書かれている時代です。

 長野県における近代産婆の養成の始まりは、1907年の信濃衛生会による。県下の産婆数が増加するのは、日露戦争中に設立されたこの信濃衛生会による産婆講習解説以降からで、その後は教育を受け、試験に合格し、資格を持つ産婆数が増加していく。

新産婆あるいは近代産婆の教育が整備されたのは明治34年(1899)ですから、長野では8年ほど遅れて始まったようです。

 新・旧資格別の産婆数を見ると、1912年には既に新旧の入れ替わりが起こっており、新産婆は旧産婆の2.7倍となっていた。1920年代にはほとんどが新産婆となっている。信濃衛生会の新産婆養成に果たした貢献は大きかった。
 しかし、産婆の数が増え、各町村に近代の産婆が存在するようになっても、地域の実態として、近代産婆の介助による近代の出産が県下に普及し、近代産婆の活動が確立するのは1935年頃である。

養成が始まってわずか5年ほどで新・旧資格の産婆数が逆転したのは驚く早さではないかと思います。


ところがその新産婆の活動が広がるまでに30年近くを要したことについて、行政側の問題、山間僻地という地理的条件、住民の経済的理由などとともに「地域の中に古い出産慣習が根強く残り、新産婆の出産介助が根付くのを阻害していた別の要因として、地域住民の新しいものへの強い抵抗感があった。」(p.41)と筆者は書いています。


とても興味深い内容の論文ですが、今回は新産婆が古い慣習を変えるために苦戦していた様子が描かれている部分を紹介していきたいと思います。


1920年代(大正10年頃)の出産>


29ページに、1924年(大正13)、『月刊 信濃衛生』に寄せられた匿名の産婆の投書が紹介されています。

 市は勿論一寸した町でも住まれる方は分娩に際しても衛生に注意しよく準備される様ですが、町を離れた僻地へ行きますと随分野蛮的な於産(おさん*)をして居る人があります。私の住む村は長野市を距る(へだてる*)事二十餘里近い町でも二里餘を隔る僻地ですが、近頃隣村へ行けば汽車電車があり、交通便利な為町の女学校へ行く人も多くなり、したがって幾分進んだ教育を受け新しい智識を持つ婦人もありますが、衛生については無頓着な人がたくさんあります。
 昔話に藁の上から取り上げたなどと聞きますが其の習慣がありまして、畳を上げ藁を敷き又は薄い敷物の下に灰を置きどうせ汚れるからと古い物の洗濯もせずに使ふ人が時々あります。之では産婆の消毒も何もなりませぬ。

(*ふり仮名は引用者による)


近代産婆にすれば「昔話」であった不衛生な出産が1930年代になってもまだまだ行われていたことが、他の産婆の話として紹介されています。(p.30)

「あのころの、農家のお産ときたら、ま、ブタの子のお産と、何も変りなくて」、「お産は汚いもの、と相場がきまってたもんで、清潔に扱おうなんて気はさらさら」ないお産だったのである。
1931年(昭和6)、長野市鶴賀に開業した小林ミツノは、資格のないトリアゲバアサンが取り上げていた分娩が難産になると、依頼されて闇路を自転車で転びながら駆け付けた。つくと、家の中で一番悪い部屋で畳を上げて汚いふとんの上に木灰とボロを敷き、その上で座ったままお産をさせていたのであった。家族を説得し、明るい部屋に清潔な布団を敷いてから助産したという。

 下伊那郡下条村に1937年(昭和12)開業した産婆も、初めてのお産にいってみると、畳を上げ、むしろを敷き、藁を置いて、その上にぼろを敷いて出産し、赤子の処理が大変だった。
 このような状況の中で、近代産婆たちの地道な出産改革が始まっていく。藁と灰とボロの産床から、産布団に変えた。綿や油紙を使い、あるいは新聞紙を使用したり、ボロでもいいから洗濯し日光消毒するように指導した。妊婦訪問では解剖生理や、お産について説明し、産後も訪問し、食事の指導や過ごし方を指導した。その土地に開業してから数年から10年の月日をかけて、出産を変えていったのである。

またケガレの習俗についても書かれています。

 お産を「けがれごと」とする習俗は根強く残っていた。とくに、産婦と赤ちゃんのために使う火は、「けがれがかかる」といって忌む家が多く、産湯は、かまどの火を使わずに、庭先でわざわざたき火をしてわかした。トリアゲバアサンも、手伝いの家族たちも、のびた爪を真っ黒にしたまま、手などを洗うこともなく、お産の世話をしていた。
 後産の娩出がすむと、産婦に産ぼろをあてがうだけで休ませ、三日目に、初めて「三日湯」と称して腰湯をつかわせた。   (p.29〜)

「出産の文化人類学」(松岡悦子著、海鳴社、1985)にも、1930年ごろの北海道での「腰湯」に関して書かれた部分があります。

だからもう産婦なんてね、もちろん消毒なんてしないでしょ。だから三週間で床を上げた時に、大根の干し葉、田舎だったら全部干しとくから、そういうのを大きな鍋で煮てね、その干し葉を煎じたものをたらいにね、入れてね、臍から下そこへつけてね、下半身だけ。だから今いわせると何と不衛生なことしたもんだろうと思うけど。大根の葉って、わりとあれ薬なんでしょ。で、体が暖まるとかね。いろいろな特典があるらしいですよ。三週間目にやってみたみたいです。それでもよくさ、裂傷がひどくてね、うちの母はなかったみたいだけど、なかなか治らないって人はね、ずっと続けてやってたみたいですよ。


こうした状況を思い描いてみたときに、当時の産婆が古い習慣をやめて衛生的なお産を人びとに受け入れさせることがどれほど大変なことだっただろうかと思います。


この論文の第三章「第1節 1900年代前半における母子保健状況」(p.27〜)の長野県の母子保健統計について、以下のように書かれています。

妊産婦死亡も1920年代より減少し、死亡原因のうち1910年全妊産婦死亡の半数以上を占めていた産褥熱は1935年には約5分の1に減少した。この産褥熱の割合は出産時の衛生状態を反映する。

これには産科医学を基礎として学んだ新産婆が衛生的な出産を広めたことが大きな力になったということでしょう。


<「近代産婆の地域に果たした役割」>


著者は「根強く残る出産への不浄観やそれに基づく古い習慣を取り除き、近代産婆による衛生的な出産への変革」(p.42)が地域にどのように貢献し、産婆はどのような役割があったのか、以下のようにまとめています。

彼女たちは、各家庭での出産介助において衛生用品を使い、消毒を施し、会陰保護を行い、仰臥位出産をさせ、食事や産後の手当てや療養のし方を指導し、衛生的で近代的スタイルの出産方法を普及させた。

そしてもうひとつ、大事な点を指摘しています。

近代産婆たちのもうひとつの役割は、出産介助を通して医療技術を人々の中に浸透させていく媒体となっていることである。近代産婆は診察や出産の介助を地域や家庭に出かけて行った。妊娠や産褥の異常時や難産の場合には医師を呼び、それによって鉗子(かんし)分娩や陣痛促進剤などの専門的な処置が、家庭の分娩の中でも行われるようになっていった。その様子は『妊産婦台帳』の中に見て取ることができる。産婆自身が、「産科専門医の鉗子分娩には目を見張り」「専門でやっていた先生は違うな」と実感した以上に、一般の人々の驚きはさらに大きかったであろう。彼女たちの活動は、近代医学の持つ技術を家庭の中にもたらし、その後の女性や周囲の人々の行動や意識に影響を及ぼしていく。


医療を用いないことが産婆や助産婦として大事であったのではなく、当時ほとんどの出産が家庭で行われていた中で「家庭分娩に医師と医療技術を引き入れる役」だったとも言えることが書かれています。


「昔の産婆さんによる温かいお産」というのは、いつの時代のどの話だったのでしょうか?


この論文の中にはそのほか巡回産婆や出産組合について興味深い内容が多く書かれています。
それまではけがれや不浄という考えだった出産に、「母子保健」というリベラルなとらえかたが出てきた時代でもあります。
このあたりもいつか別の機会に考えてみたいと思います。