助産師だけでお産を扱うということ 4 <開業助産婦と嘱託医>

「助産師だけでお産を扱うということ 3 <産婆から助産婦へ、終戦後の離島での出産の医療化>」では、離島という特殊な状況の中で助産婦が出産中の異常をどのように医師につないでいったか、また島民が出産時に医療を受け入れるようになるまでの助産婦の苦労などについて伏見裕子(ゆうこ)氏の論文を紹介しました。


今回は同じ時代の都内の開業助産婦と医師との関係について、「お産ー女と男と  羞恥心の視点から」(大林道子著、勁草書房、1994年)の中に書かれた部分を紹介しながら考えてみようと思います。


この本自体は以前も書いたように男性助産士導入に反対することが主眼ですが、まえがきには以下のように書かれているように、医師と助産婦の関係を明治以降続いてきた「正常産=助産婦、異常産=医師」という境界線を明確にしようとする政治的な文脈あるいは「女と男」といったフェミニズム的な視点で書かれています。

 しかし、考えてみれば、出産は、女のみがなし、女にしか出来ないことなのである。その女自身の必要から生まれてきた助産婦という職業は、女自身が担ってきたものであった。それが、日本においては、戦後の数十年の間に、男性が九十パーセントを占める産婦人科医に、殆どすべての分娩介助が移行してしまった。
 この変化には、多くの要因が絡み合っていて、容易には説明しがたい。しかし、近代化の名の下、分娩の施設化=安全を建前としたスローガンが、この方向を促進してきたのは間違いない。そしてこのことは、政治・経済・知識・技術・情報等あらゆる領域において優位に立つ男性=医師と、そういった社会資源の恩恵から遠い女性=助産婦の闘いであったといってもよいだろう。


ところが、戦後の助産婦と嘱託医についての開業助産婦からの聞き語りの部分だけでなく、近代産婆からの「出産の医療化」への苦労の延長線上としてとらえると、このまえがきとは違ったものが見えてくるのではないかと思います。


<「医師と助産婦ー人格認め合い対等にー」>


大林氏はこの小見出しの章(p.74〜)で、昔は産科医が助産婦を大切にし、正常な出産には手を出さないで見守っていたということを強調したかったようです。


たとえば足立区の開業助産婦、永沢寿美氏と嘱託医I氏の回想として以下のようにあります。

「私がこれまで無事にお産を続けられてこられたのは、出血の処置が早いI先生のおかげです」と永沢寿美さんが話してくれた。
(中略)
 現在N産院勤務のIさんは、医師になりたての昭和25年から十年間、N産院に勤務の後、産婦人科医太田五郎氏が足立区に開業していた太田病院に移った。この病院にいた昭和35年から二十年間、太田五郎氏を嘱託医とする十数件の助産院に往診することになったが、永沢助産院もその中の一つであった。

当時のお産のあり方などを永沢さん、Iさんの話に聞きたい。
I「往診を頼まれ、深夜、永沢助産院の玄関に入る。静かだが家中ピーンと張りつめた空気。それでも永沢さんはニコニコと迎えてくださる。余裕がある。『よーし、やるぞ』という意気ごみになる。
開業助産婦は、お産に関しては医師よりずっと腕がいい。助産婦が医師の腕を試す。助産婦との真剣勝負なのです」
永沢「医師を呼ぶのは、骨盤に児頭がひっかかって1時間も動かないで疲労陣痛になったときとか、子宮収縮が悪く出血する予測がつくと早めに頼んでおく。
医師が見えると、経過を説明し、あとは完全におまかせする。『こうしたらよいのに』と思っても決して口も手も出さない。確かに医師を試している。というより医師を使い分けている。この人は鉗子(かんし)がうまい、この人は止血がうまい、このくらいならこの先生とか」

「開業助産婦は、お産に関しては医師よりずっと腕がいい」こういう言葉に助産師は自分たちのプライドをくすぐられやすいし、「正常産は助産師で」という政治的な動きを後押しされやすいのだと思います。


でも時代背景を考えれば、この永沢氏やI医師が出産にかかわり始めた頃の少し前までは「お産にゼニをかける必要はない」と、医師どころか産婆を呼ぶことさえためらった時代があったわけです。


また、産婆あるいは無介助の分娩が多かった時代には、産科医が正常分娩をみる機会も少なかったことでしょう。
産科医が正常産を実際に多く経験できるようになるのは、1960年代以降の出産の施設分娩化を待つ必要があったといえるのではないでしょうか。
そういう意味で、「開業助産婦はお産に関しては医師よりずっと腕がいい」時代だったことでしょう、当時は。


<「お互いに一目おく」>


正常なお産には手を出さない医師ということで、何人かの産科医についての話がこの見出しに続いて書かれています。

 東大医学部産婆復習科指導係、賛育会大井分院婦長を経て、1945年初め、東京品川に開業した間宮うらさんは、東大・賛育会時代一緒だった産婦人科医竹中雪さんを嘱託医に頼む。野球評論家、竹中半平としての方が高名な竹中さんは、間宮助産院から歩いてニ、三分の所に戦後開業していた。
 間宮さんは、竹中さんに往診を頼むとき、呼ぶタイミングが大事だったという。早すぎるとご機嫌斜め、遅れて門の前で「オギャー」なんてことになると大変。「何年産婆やっている」と大目玉をくった。竹中氏には、分娩を観察し、分娩時刻を的確に判断するのは当然助産婦の職務だ、という認識があったからだ。このため児頭の下り具合、いきみ等、観察診断に一生懸命になり、勉強になったと間宮さんは言う。竹中さんは、ときに心音を聴いたり、いすに腰かけてだまってみているだけ。異常がないかぎり決して手を出さなかった。
 お産がいくつも重なったとき、間宮さんが手伝ってくださいと頼むと、「おれは産婆じゃないぞ」とどなられたこともある。
 「竹中先生は、厳しかったけど、助産婦をたててくれ、本質的には謙虚でした」。お互いに一目をおき、相手の領域に踏み込まないけじめのある助産を間宮さんはなつかしむ。

この話も、たしかに昔の産科医は助産婦の仕事に手を出さなかったという事実を表しているとは思いますが、時代背景を考えるとまた違う見方もできるのではないかと思います。


1945年に助産所を開業されたとありますが、「助産婦だけでお産を扱うこと 1」の<助産所の盛衰とその実践>で書いたように、日本で有床の助産所が開設されたのは1950年代ですから、間宮氏も少なくとも最初の数年間は家庭分娩のみであったことでしょう。


間宮氏の助産所から歩いて2,3分のところに開業されている産科医だとしても、家庭分娩を請け負っていた時代には医師の往診もまた遠方へと出かける必要があったことでしょう。


当時の通信事情、交通事情から考えても産科医をタイミングよく呼ぶというのは、私たちが同じ施設内の産科医を呼ぶのとは大違いの大変さであったことだと思います。
タイミングよくというのは、「分娩が間近であること」と、医師がかけつけた時点で正常産で産まれていることはあってはならず「必ず医師の処置が必要となる状況」であることが必須ということのようです。


それはただ単に、「お互いの領域に踏み込まない」ためだったのでしょうか?


たとえ都内であったとしても、医師を往診に呼ぶことは家族にとっても決断を要する事態であったエピソードが書かれています。
浜田助産婦学校校長で浜田病院院長小畑惟清氏に教わった、八王子の広瀬綾子氏の話です。

 小畑氏がなかなか産まれないからと、駿河台のある豪邸に往診を頼まれた時のこと。行くと、助産婦が一生懸命やっているから小畑氏は応接間のソファーに寝ころがって待った。明け方、無事産まれた。産家の人は小畑氏が何もしてくれなかったことに不満をもらした。それ以来、小畑氏は往診に行かなかったそうである。

「正常産」と「異常産」の境界というのは、医師と助産師の領域の問題だけでなく、処置に対しての支払いという経済性からもみる必要があります。


1960年に国民皆保険の制度になるまでは特に、往診料、医師のへの処置料を支払えるのは限られた階層の人だったことは「助産師だけでお産を扱うということ 2」で信州の話からもわかると思います。


一旦、往診を依頼してしまうと結果的に問題がなく産まれても医師に対する謝礼が発生するために、この時代の助産婦はあれこれと悩んだであろうことは想像に難くないことです。


<産科医が往診をしていた時代>


さて長々と開業助産婦と嘱託医の話を引用してきましたが、私は大事なことは「産科医が往診をしていた時代」があったということだと思います。


たしかにそれは開業助産婦=正常分娩、医師=異常分娩の棲み分けのようにとらえられがちでですが、そうだったのでしょうか?



家庭分娩あるいは助産所での分娩時に、出産への経済的負担に躊躇する家族を説得し、確実に医師の処置が必要であることを見極め、絶妙なタイミングで医師を呼んでいたのは、当時の助産婦がやはり医療を出産の場に引き入れようとする努力だったのではないかと思います。



1980年代終わり頃から少しずつ助産所が見直されたときに、「医療介入のない助産婦のお産」や「正常なお産は助産婦の手で」ということを強調しずぎずに、「自宅にも助産所にも産科医が往診に来ます」という方向で存続を図ったら良かったのではないでしょうか。


まぁ、激務の中で往診してくださるほどの産科医の先生方はいらしゃらないし、往診料の支払いは現代でも躊躇されることでしょうが。



こうして近代産婆の時代から1980年代に開業していた助産婦の話を振り返ってみると、医師の処置をすぐに受けられることが出産の場においてどれだけ重要であったか、すぐには手に入れられないその「理想的な出産の場」を思いながら粛々と分娩介助をしてきたのだろうと思います、私たちの先輩は。


ですから「正常分娩は助産師で」と出産の場から医師を排除しようとするのは、やはり方向が間違っていると私は思います。
医師のいる病院であえて「院内助産」システムを作ろうとすることもふくめて。




助産師だけでお産を扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。