お産に対する気持ちを考える 1  <まだ語られはじめたばかり>

さて「医療介入とは」のシリーズはまだまだ続く予定なのですが、一旦ひと休みして、「医療介入とは 47 <再び、『主体的なお産』とは何か>の記事とすみれさんのコメントで課題にしておいた硬膜外麻酔を使った分娩について書いてみようかなと思います。


ただし、「日本の助産師が自然なお産を尊重するから麻酔分娩が広がらない」あるいは「産みの痛みを耐えてこそ母になる」という点に対しても、そうなのだろうかという立場です。


「理想と現実のあいだで折り合いをつける」で書いたことを再掲します。

人類始まって以来、女性がここまで出産についていろいろな希望を口にし、自由にこんなお産をしたいといえた時代はなかったのではないでしょうか。
そういう意味で、多少行き過ぎた自然志向も含めて、この30年間は出産の安全性が確保された次の時代として出産の理想像を描く時代だったかもしれません。


ここ一世紀ほどの出産に関する資料や本を読んで、そういう思いを強く持ちました。


特に、私が生まれた頃、日本のどこかではまだ無資格のトリアゲバアサンにより「熊の手」で安産祈願をしながらの分娩介助が行われていたことには、軽いめまいがしそうでした。同級生にそういう方がいらっしゃるということになるわけですから。



出産の安全な環境、それは医師が必ず立ち会う場と言い換えても良いと思いますが、ようやくそういうものを手に入れてからわずか半世紀。


出産について思いを語ることができる時代にようやくなったばかりといえるのではないかと思います。
出産する人も、医療側も。



逆に言えば、産婦さんの思いはまだまだ語られていないことがたくさんあると思います。
あるいは10年、20年という時の変化だけでも変っていくものです。


ですから硬膜外麻酔による無痛分娩も、私自身はその必要性を高く認識しているのでいつでも選択できるような施設が増えるとよいとは思うのですが、それは果たして産婦さんにとって「自由な選択」といえるのか、何を自由というのかと考えていくと、まだ私自身もわからないとしか言えません。


「自然なお産」「主体的なお産」と同様に「お産の痛みをとるほうが良い」という考え方も、まだまだ産婦さん自身の本当の気持ちというのはよくわかっていない部分が大きいのではないかと思うので、結論は急がずにゆっくり考えたらよいのではないかと思うのです。


硬膜外麻酔による無痛分娩を含めて「お産に対する気持ちを考える」の中で考えていこうと思います。


この「お産に対する気持ちを考える」では、思いっきり「私個人の経験談」に基づく根拠の薄い話が多くなると思います。
またゆっくり考えたい部分もあるので、不定期になるかもしれません。


無痛分娩の経験のあるなしに、そしてもちろん出産の経験のあるなしにかかわらず、また女性・男性にかかわらず、いろいろなお産に対するお気持ちをコメントいただけたらと思っています。





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