助産師と自然療法そして「お手当て」6 <子どもは「症状」を訴えられない>

マクロビなどの代替療法が子育てのお母さんたちをひき付けるとしたら、それは症状を観察するコツのようなものがまとめられているからかもしれません。


子どもが生まれたり家族が病気になったり介護が必要になると、「家庭看護」の責任がのしかかってきます。


看護の基本は、対象の観察から始まります。
それは家庭看護も、私たち専門職としての看護も同じでしょう。


子どもの不調や症状は観察できたとしても、「家庭の医学」のような本を読んでも疾患名を見ただけでどうしてよいかわからなくなる方も多いのではないかと思います。


そんな時に、症状の分類や対応方法をわかりやすく説明されているものがあれば、とても受け入れやすいことでしょう。
さらに「自分でその症状や病気を治すことができる」と言われれば、自分に何かすごい力を与えられたように思えるのでしょう。


<「観察する」は正しいけれど>


前回の記事で取り上げた「好転反応」にしても、相当、日々の体調の変化を気にして観察しようという気がなければそういう言葉も生まれてこないだろうと思います。


「良い子が育つ食べ方 子育てマクロビ教室」(中 美恵著、講談社、2009年)の中でも観察の大切さが書かれています。

子どもたちからサインが出たらお母さんが最初に考えて欲しいこと、それは「ここ2,3日いったい何を食べたのかしら?」です。もしくは「どんなふうに過ごしていたかしら?」です。

食べ物と環境の変化が子どものカラダに大きく関係しているのです。もちろん大人も同じなのですが、大人は成長している分そのことに対する抵抗力もありますし、自分で感情のコントロールをすることができるようになっています。
子どもはそのコントロールがまだできないのです。とくに7歳ぐらいまでの子どもにとって、ここが一番助けて欲しくて、お母さんに察知して欲しいところです。だからこそ、子どもの食べたものや成長過程を「見て、知っておく」ことはとても大事なことなのです。何も難しいことではなく、基本は「子どもをよく観てあげる」「よく観察してあげる」ということです。

それほど間違った内容ではないと思います。


食事は大事な基本的生活習慣のひとつです。
でも食事が全てではなく、そのうちのひとつです。
食事、排泄、睡眠、清潔、衣服の着脱という基本的習慣とともに、発達全般からとらえる観察が必要になります。


前回の記事で紹介した「小児看護」(桑原タイ子著、中央法規、2000年)では小児の観察について以下のように書かれています。

小児の成長発達は、横断的観察と縦断的観察によって明らかにされる。成長発達は、1回の観察・測定のみで評価できなく縦断的な観察が必要である。

つまり基本的な部分の日々の変化という横の視点と、年齢とともに成長発達する縦の視点ということです。


ところが、紹介したマクロビの本では、せっかく観察したことを、すべて食にだけ結びつけています。

子どもの体調・行動・学力は食で決まる。(p.52)

カラダが小さい子どもは、食べたものがすぐに体調・行動・学力に現れます。 (p.53)

そして個人的体験談が続きます。
「泣きわめく、攻撃的になる」2歳半の子どもに塩分を抜いた食事をするように母親にアドバイスしたら、泣きわめくことが少なくなった。
マクロビ食を始めたら集中力が変り、成績も優秀になった・・・。


せっかく子どもを観察することの大事さに気づいたのに、方法を誤ればそれはただの確証バイアスということです。

確証バイアスによって人は信念を獲得し、その信念を確証するものを探そうとする。一方、信念に反することがらを探すのではなく、黙殺したりあるいは低い価値しか与えなかったりする。


<子どもはうまく表現できないけれど>


子どもとひと口に言っても、新生児から中学生頃まで幅が広いものです。


乳幼児はもちろん十分に自分のことを表現できませんから、よく見守ることが大事です。


では子どもは何もわかっていないのかというと、そんなことはないと思います。
案外、身近な大人のことを見ているものだと自分自身を振り返りながら思います。


私自身が小学生の頃、ころんでできた傷跡が脚にあります。
母親が民間療法の軟膏で手当てしてくれたのですが、たいした傷でもなかったのになかなか治らず、たしか1ヶ月近くジクジクしていた記憶があります。


こども心に、不安でした。
バンドエイドも販売されていましたから、お友達の家では絆創膏を貼ってくれるのにこの方法で大丈夫なのかなと。
何かいつも、うちの家では違う方法なのは何故だろうと。
でも「別の方法でやってほしい」とは言えませんでした。


私自身が今、当時の母親の年齢をはるかに超えて、あの若さで子どもの健康を守ることに母親は必死だったのだろうと理解できるようになりました。


でもそれとともに、こども心に私の母親の「私は人とは違う」とか「子どものために頑張っている自分」のような虚勢をうすうす感じていたのもたしかです。
厳しい見方ですが。


子どもは症状をうまく表現できない、あるいは対応方法に不安があっても表現できない。
子どもに代替療法を使う際に、十分注意する必要があると思います。
そして、それは誰のために使っているのか。
親の満足感の犠牲にしてはならないと思います。




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