助産師と自然療法そして「お手当て」 10  <マクロビの安産志向にあるもの>

お産の体験を語る時の女性の心理というのは、ちょっと表面上ではわからない気持ちがあるのではないかと思っています。


俗にいう「軽いお産」で済んだ方でも、自分は「安産だった」という時と人から「安産だったね」と言われる時には微妙に気持ちは揺らぐようです。


安産だったと誇れる気持ちと、人からは「楽だったね」と言われたくないアンビバレンツな感情でしょうか。


あるいは「鼻からスイカだった」「マジ、死ぬかと思った」と語る時にも、それだけ大変でもう二度と嫌だと強調したい部分と、それを乗り越えた自分を誇りたい気持ちが一緒になっていることもあると思います。



<マクロビのお産に対する思想>


ラマーズ法や「畳の上でのフリーズタイル分娩」あるいは硬膜外麻酔分娩にしても、ある特定の分娩方法を実践している施設では、必ずと言ってよいほど「この産み方のおかげで楽だった」という感想が紹介されています。


実際には、どの方法にしても期待したほどの効果がなかったり、逆に自分には合わなかったという人が一定数はいるわけです。
硬膜外麻酔分娩でも、やはり自分には合わなかったという方がいらっしゃいます。


ですから、マクロビを実践している方が「自分はマクロビで陣痛を痛く感じなかった」と表現するのも、自分が選択した代替療法による無痛分娩の効果の表現としてはなんら不自然なことではないと思います。


ただ、マクロビのお産に対する思想のようなものを知った上で、あえて「陣痛を感じなかった」と表現する時に、それはまったく意味が違うことになりそうです。


doramaoさんのこちらの記事に、マクロビの実践者がどうして「陣痛を痛くない」と感じることに意味をもたせているのかをうかがい知ることができる内容があるので孫引きで引用させてもらいます。


マクロビオティック創始者桜澤如一氏の「食養人生読本」で肉食の禁を破るとどうなるかということで書かれた内容だそうです。

(p.59より)
だいたいお産はごく生理的なことなのですから、苦しいものであるはずがありません。
お産が苦しいなどというのは、食養を破った罪人だけです。
難産の子供は、人生の第一歩から不幸で、おまけに一生不幸です。

(p.61-62)
『幸福製造工場』の理想的な第一回作品である赤ン坊は、赤くて小さいはずです。
大きくて白い、白ン坊はできそこないで、青ン坊はペケ作品です。あなた方の「幸福の鳥」は赤い鳥です。大きい「白ン坊」「青ン坊」は不幸をまきちらす凶兆です。正食をしないと、そんな子供しかできません。そんなペケ作品やできそこないが生まれたら、ソレコソ苦労をします。できてしまったら、しかたがありませんから、一日も早く「赤ン坊」に改造することです。それには母親が正食をすればよいのです。事は簡単です。乳のみ子のあいだに死ぬのが多い中で、ことに生まれてから一ヶ月以内に死ぬのが一番多いのは、たしかに妊娠中の悪食の報いが、いかに恐るべきものであるかを示します。


ここまでマクロビオティックの思想をさかのぼれば、「マクロビオティックを実践したら、陣痛は痛くない」ということが、単なる代替医療による無痛分娩とは言えないもっと恐ろしい思想から出てきていることがわかります。


助産師の中へのマクロビの広がり>


doramaoさんがご自身のエントリーを書かれる時に心から湧き上がる怒りを打ち消せなかった様子も書かれています。


私も同じです。
このような思想を無批判に広げてしまった助産の専門雑誌と助産師に対して。


助産院のごはん」シリーズのあと、助産所のHPでマクロビを掲げているところがあきらかに増えました。


でも、マクロビを勧める助産師の中でどれだけの方が、この根底にある思想を知っているのでしょうか。


「お産が苦しいなどというのは、食養を破った罪人だけです」
「難産の子供は、人生の第一歩から不幸で、おまけに一生不幸です」
実際にお産に関わっている助産師だからこそ、これがいかに馬鹿らしい思い込みにすぎないか反論できるはずだと思います。


「病院で生まれた子は・・・」「ミルクで育った子は・・・」のような、助産師の一部にある差別意識のようなものと通じるところがあるのかもしれません。


そしてその差別意識はどこからくるのか。
案外それは「他の助産師とは違う自分」ぐらいのちっぽけなもの、それに存在意義を求めているのではないかと思うのです。



一部の助産師が自然療法あるいは代替療法を積極的に取り入れる背景には、屈折した思いのようなものが強いのではないかと感じています。




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