こちらの記事で、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」の序文を紹介しました。
1973(昭和48)年に出版された、この整体の妊娠・出産に関する講義をまとめた本の序文の最後の部分には、明らかに助産や産科医療への批判が書かれています。
再掲します。
斯くの如く、出産前後の問題には間違ったまま信ぜられていることが多い。特に近時出産の手伝いとしての助産の技術がその範囲を越え、技術によって出産せしめるつもりになり、摘出や切開が盛んに行われているが、母体を傷つけ、将来の健全生活をかき乱す如き助産方法は本当ではない。
強調した部分の発言にはどのような時代背景があるのか、見てみようと思います。
<1970年代の日本の出産事情>
国立成育医療センターの久保隆彦先生の資料「わが国の妊娠・分娩の危険性は?」(pdf注意)の「我が国の分娩場所の推移」(p.4)をみると、1950年代には自宅分娩が90%以上であったのが、1960年には自宅と病院などの施設分娩が半々になり、1975年には助産所を含む施設分娩がほとんどになっています。
「妊産婦死亡」の統計(p.3)では、1950(昭和25)年の妊産婦死亡(出生10万対)が176人であったのに対し、ほとんどが施設分娩になった1975(昭和50)年には28.7人とおおよそ6分の1にまで減少しています。
そういう時代になぜあえて、野口晴哉氏は上記のような批判を書いたのでしょうか?
<無資格者による分娩介助の時代の終焉>
1950年までの「自宅出産」というのはこれまで何度か書いてきたように、現在のイメージの「自宅で助産師の介助のもとに家族に見守られて出産する」というものでは決してなく、経済的理由などから当時の産婆や助産婦のような専門職さえ呼ばれないお産が多かったわけです。
出産には、無資格のトリアゲババや呪術師のような人たちがそれぞれの経験で関わっていました。
実際に1960(昭和35)年頃まで、「子を産ませることは人助けだで」と無資格の助産を行っていた人の話はこちらの記事で紹介しました。
そのトリアゲババがが「昭和35年、資格関係の法律がやかましくなるまで百人以上をとりあげた」とあるのは、1961(昭和36)年の国民皆保険の制度に向けて、出産一時金の支払いが認められるのが医師と助産婦の分娩介助であることが背景にあるのではないかと推測しています。
全ての出産に訓練を受けた医療従事者が立ち会う時代になったといえるでしょう。
野口晴哉氏の著書を読むと、野口氏が妊娠・出産そして育児に関してたくさんの相談を受けていた様子がわかります。
おそらく地域の中で相談を受け、それなりに出産を見聞きした経験によってうまく対応できていた部分があり、それによって信頼もされていたのではないかと思います。
ところが出産や健康に関する部分も、時代は医学教育を受けた専門職の時代に入っていったということでしょう。
1948(昭和22)年にあん摩指圧マッサージ師・はり師・きゅう師法により医療と代替療法が整理され、自ら「治療師」の看板を下ろさざるをなかった野口晴哉氏にとって、当時はまだ「妊娠・出産・育児」の分野では活路があると考えていたかもしれません。
「妊娠・出産は病気ではない」というとらえ方の時代であったでしょうし、自宅で産むことが当たり前であった時代がわずか十数年で終わるとは思ってもいなかったのかもしれません。
ところが、社会は急速に医療機関での出産を選択するようになった。
それが産科医療への反発として表現され、序文の最後の一文「出産は出産の自然性を保つべきであると信ずるからに他ならない」となっていったのだと思わざるをえません。
こういう時代背景を考えて1973(昭和48)年に書かれた野口晴哉氏の本の序文を読めば、出産・育児の中での整体の終焉の時代の断末魔の叫びのようにも受け止められます。
まさか、野口晴哉氏本人もそのあと20年ほどで妊娠・出産界隈に整体がリバイバルするとは思っていなかったのではないかと。
しかも「技術によって出産せしめるつもり」と批判した助産の中から。