助産師と自然療法そして「お手当て」 36 <整体の歴史と出産の医療化 3>

前回の記事で参照した「我が国の分娩場所の推移」(pdf注意)を見ると、1950(昭和25)年代初頭にはほとんどが家庭分娩であり、1955(昭和30)年の時点でも助産所を含む医療機関での出産は20%以下に過ぎませんでした。


その後1960(昭和35)年頃には半数の出産が医療機関で行われ、1970(昭和45)年頃にはほとんどの出産が医療機関、つまり開業助産婦を含む分娩について専門教育を受けた人の介助によって行われるようになりました。


明治時代から近代医学に基づく出産介助を進めてきたものが、わずかその20年ほどで急激に達成された時期といえます。


この出産の医療化というのは、単に出産の介助が医療機関で行われるようになったという意味だけではないと考えます。


それまで、家庭の中で行われていた出産と育児が外に向かって開かれた時代ともいえるのではないでしょうか。


それまでのように身近な家族、あるいは狭い範囲の近隣社会の中で伝達された出産・育児の知識や技術で対応する時代から、専門家と呼ばれる人たちから学ぶものへと急速に変化したのではないかと推察します。


今回は「育児書」という視点から、出産と育児が外へ向かって開かれていった様子を考えてみたいと思います。



<江戸時代の育児書>


育児書というと、戦後に出版されたスポック博士や松田道雄氏の育児書がまず思い浮かぶのですが、実は江戸時代からあったようです。


「江戸時代の育児書から見た医学の近代化 −桑田立齋『愛育茶譚』の翻刻と考察ー」(pdf注意)という論文がネット上で公開されていました。


その論文によると、江戸中期には富裕な農民層の出現とともに印刷技術の発達によって、「心身両面の発達に特別な配慮をしながら子育てをしようとする動きが活発になり、多くの育児書が世に送り出された」とあります。


1688年には千村眞之の「小児養生録」、1703年には香月牛山の「小児必要養育草」が出され、それ以外にも数々の育児書が出版されたようです。


この論文で取り上げている桑田立齋の「愛育茶譚」は江戸末期の1853年に出されたもののようですが、上記の育児書が「医療系の育児書」の中でも漢方の流れをくむものであるの対し、こちらは蘭医方、いわゆる「西洋医学の育児書」であることしています。


上記ふたつも「医療系の育児書」ですが、儒教道徳の影響を受けたその内容には親孝行をできるような育て方といった「訓育」も多く含まれているようです。


それに対して「愛育茶譚」は西洋医学の病気の考え方に基づいた「純粋な医療系の育児書」としてとらえられています。


もうひとつ、「専門家と民衆の中間に位置」したものであることが特色であるとしています。


桑田立齋は種痘の接種を積極的に行っていたようですが、予防接種を初め西洋医学による病因と治療法の考え方は、当時の庶民にとってまったく異質のものではなかったかと思われます。
どうしたら、それをわかりやすく理解してもらえるのか。
そういう視点にたった育児書として「専門家と民衆の中間に位置」したものであると、この論文の著者は注目したようです。


新生児を別室に寝かせることで突然死が起こりやすいことの戒め、あるいは初乳が胎便の排泄を促すこと、母乳が足りないときの「代乳」についてなど、現代に通じる医学知識が書かれていて大変興味深いものです。


詳細については、また別の機会に是非考えてみたいと思いました。


<明治以降の育児書>


古く江戸時代から多くの育児書があったことは、出産・育児に対する知識や技術の情報伝達はもっと家族内や狭い地域内ぐらいのイメージがあったので意外でした。


ただ、当時は文字を読み理解できる人はごく一部で、やはり口承によるものが多かったことでしょうし、社会全体で出産や育児を考えるようになるのはやはり明治時代に入ってではないかと思います。


明治から戦後の1970年代までの育児書について、「日本近代・育児書目録」(pdf注意)という論文がネット上で公開されていました。


江戸末期頃には上記の「愛育茶譚」をはじめ、「出産時の注意から子どもの養育の仕方にいたるまでごく具体的な」育児書があったようです。


明治に入り、一般家庭向け、母親向けの育児書として翻訳物が多数出された後、徐々に国産の育児書が出版されたようです。
そのひとつとして、p.70に開業医、小松貞介氏が1909(明治42)年に書いた「小児保育法」が挙げられています。

出産時には新教育を受けた新産婆を選ぶことが肝要。子どもの「健・不健を知るに就いては・・・小児科専門の医師に健康診断を受けることが必要」であると断言する。育児の経験を(持つものを身近に)持たない母親と彼ら(の不安)を専門家制度につなげることによって、子ども自身を直接に制度の前に出現させようとする育児書の役割が見出せる。
またこの時期に成立する、二重の意味での生と身体の国家ポリティクスの一環である。

子どもが専門家の手にかかるようになった背景には、「マクロビの安産志向の背景にある思想」で書いたように、当時の高い乳児死亡率と富国強兵制度がありました。


そしてこの論文の著者横山浩司氏は、1930(昭和5)年代までを「いわば民間の育児オーガナイザーが出現してくる」時代だったと表現しています。


そして1937(昭和12)年の日中戦争開戦、翌1938(昭和13)年の国民優生法と戦時下の時代には、ますます強い子どもを産み育てることが重要視されていきます。


マクロビオティックや整体が出産・育児における「民間の育児オーガナイザー」の役割を求めたのも、またマクロビだけでなく整体にも優生思想が見られるのは、こういう時代背景であったのではないかと思います。


<戦後の育児書>


上記で紹介した横山浩司氏の論文によると、終戦GHQ占領下の終わる頃、1951(昭和26)年に米国政府児童局の「あなたのお子さん、育児教育本」が翻訳され、その前後に厚生省児童局から「小児保健指針」(1953年)、「子どもはこうして育てる」(1953年)が出されたようです。


横山氏は、「戦時と敗戦にまたがるこの時期を子どもの養育者が完全に国家制度化された時期」と書いています。


そして横山氏は、1950年代から70年代初め頃までを「『赤ちゃん百科』の時代」と名づけて以下のように書いています。

少産少死化傾向の中で子どもの養育は遺伝と胎児教育も視野に入れながら正確と知能の直接的・具体的形成に及ぶまでになる。

こうして江戸時代末期から蘭医方による医学的な視点での育児法が徐々に広がり、富国強兵政策の中で子どもの養育が国家の制度に組み込まれ、さらに終戦後は児童の権利という視点で出産・育児はより専門家が必要とされる分野になっていったといえるでしょう。


それでも1950年代までの家庭分娩が主流で無資格者の介助もまだ広く行われていた時代には、まだ出産・育児の知識や技術がまだまだ地域によっては伝達されていないところがあったことはこれまでの記事でも書いてきました。


そういう地域では、まだマクロビオティックや整体のような「民間の育児オーガナイザー」が必要とされていたのかもしれません。


<1970(昭和45)年代以降の育児書>


ところが1960年代を境に、出産の場は医療機関へと変化しました。
それに伴って、ほぼ全ての子どもが医療従事者という専門家から伝達される育児方法になっていきました。


この1970年代の育児書について、横山氏は以下のように書いています。

この時期の諸傾向の底流には、近代から一貫して追求してきた子どもの養育に対しての科学・技術の知による啓蒙的指導や制度・援助とは異なった方向を考えようとする性質の動きがあったことも見出せる。

70年代以降に、毛利子来や、幾人もの育児論の専門家や「素人」の女性たちが新たな視点と姿勢を持った議論を展開するのに力を貸すものであったことは認めなくてはならないだろう。

小児科医、毛利子来(たねき)氏の育児書は山口百恵さんも愛読していたといううわさがありました。
実は、私も助産師になったばかりの頃に購入して、参考にしていました。


なぜ毛利子来氏の育児書が多くの女性に受け入れられたかというと、非常にわかりやすい表現であったことがまずあげられると思います。
また、「家庭の中の赤ちゃん」「家族の中の赤ちゃん」としてどう対応するかという視点で貫かれていたとも言えると思います。


お母さん達には小児科の教科書のような全てを網羅する知識ではなく、漠然としつつも赤ちゃんを全身で理解できることへの援助が必要なのですが、医学知識を中心にした書き方や話し方ではうまく伝わらないことは日々経験することです。


毛利子来氏についてはその後の予防接種に対する考え方やホメオパシーを支持していたことには大いに失望したのですが、あの育児書は名著だと思っています。


<育児書の変遷からみた整体>


昭和初期から戦前、そして戦後に出産が医療機関で行われるようになるまでは、野口晴哉氏の整体も民間の育児オーガナイザーとして活躍の場があったのだと思います。


その後、医学的に不十分だったり間違った内容の民間療法的なものや育児方法が淘汰される時代に入って、出産・育児のよろず相談役としての整体も終わりになるはずだったのではないかと思います。


ところが、70年代に「新たな視点と姿勢を持った」育児論が出始めた中で、あの「誕生前後の生活」も生き残ってしまったといえるかもしれません。


野口晴哉氏の整体については、一旦ここまでにして、次回からは助産師の整体について考えてみようと思います。




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