助産とは 12 <助産と近代医学、そして看護>

中井久夫氏は中国医学、漢方、アユールヴェーダなどの非宗教的体系的・非近代医学は「看護の概念を発展させず、その面は一般に家庭看護に頼ってきたようである。したがって病院も発達しなかった」(「看護のための精神医学 第二版」中井久夫山口直彦著、医学書院、2008年)と書いていることを「歴史からみた医学・看護学」で紹介し、「病院という施設と看護」を中心に発達した近代医学とそれ以前の代替療法というとらえ方ができるのではないかと書きました。


代替療法と同じく、「助産」という言葉の始まりもまた、病院+看護=近代医学の方程式から外れたところにあるのではないかと思えてきました。


それはまた、近代医学の中でも他科と異なり、産科学には看護学が発展する機会を逸してきたともいえるのではないかと。



<看護教育の始まりにあるもの>


産婆養成が始まり「助産」という言葉が使われ始めた明治時代中期から後期にかけて、職業的な看護を担う女性の教育が始まっていました。


産婆と同じく、女性が経済力をつけ社会の中で活動することを可能にした仕事のひとつでした。


その当時の看護教育や派出看護婦について書かれた「慈恵病院派出看護婦考」を参考に、同じ近代医学でありながら助産と看護の違いや共通点などあれこれ考えてみようと思います。
(ネット上で偶然見つけた論文なので、書かれた時期や著者に関しては詳細は不明です)


日本の看護の始まりについて、上記論文では以下のように書かれています。

 わが国の近代看護は、明治21(1888)年2月、有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)を卒業した看護婦(Trained Nurse)が、派出看護婦の形をとって社会に第一歩を踏み出したのがその始まりである。

そしてその後、派出看護婦はその斡旋組織である看護婦会を中心に次第にその数を増し、大正末ごろまでは病院・診療所所属の看護婦よりはるかに多い数で看護婦会の主流をしめていたのである。

現在の訪問看護に近い、比較的独立した活動であったのかもしれません。
以下のように書かれています。

 派出看護婦は、病人の生活を丸ごと抱え込んだ身近な存在であったため、自ずと病人の立場に立つ一方で、主治医に対してはむしろ対面する立場にあった。これは、その後しだいに増加した、医師の診療介助を中心とする病院・診療所所属の看護婦とは、その立場を完全に異にするものであった。

産婆と看護、その教育が始まった時期も働き方も似ているようですが、なにが異なるのでしょうか?


<看護の定義>


日本の産婆教育はドイツの産婆教育を参考にし、シュルツェの産科学書を使いながらはじまりました。


それに対し明治時代の看護教育は、イギリスに留学中にセント・トーマス病院医学校の看護学校を見聞した高木兼寛が帰国後に自ら資金を集めて看護学校を設立したことに始まるようです。


冒頭で紹介した論文では、高木兼寛氏がどのような思いで看護学校を設立し、日本に看護婦を養成しようと考えていたか書かれています。

 高木兼寛が英国留学を終えて帰国したのは1880(明治13)年であった。それは英国医学の背景までも学んでの帰国であった。当時日本はまだ貧しく、一旦病気になったら医者にはかかれず死ぬしかない病人が溢れていた。彼らを救うのは、無料で治療をうけられる病院つまり施療病院をつくるしかなかった。高木は多くの有志とともに苦労の末、有志共立東京病院(施療病院)を設立した(1884年4月)。そして彼は同じ思想で看護学校や医学校を矢継ぎ早に造っていった。

 当時を回想して彼は次のように述べている。「英国に参って一番感じましたことは、この国の思想がすべてキリスト教を基礎としていることであります。これをみて私は成る程これでなければならぬという心持ちが盛んに起こってきました。そのまま日本に帰ってきて、どうしてもこれでなければならぬという心持ちが止みませんので、さっそく有志共立東京病院を建て、この思想によって貧乏な人民を救済せんとしました。・・・また医学をもって人の病気を治しこれを療するについては、一に看護二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから、看護婦の養成ということに着手しました(看護婦教育書ー筆者)。また一方に医学校(成医会講習所ー筆者)というものを作りまして、この三つ(病院、看護学校、医学校ー筆者)が揃えば、まずわが同胞の疾病を十分に救済することができると深く信じたのであります」と。

少し横道にそれますが、私が看護学生として学んでいた頃にすれば、1880年というのはちょうど一世紀前にあたります。


私が進学する頃には、当たり前のように病院と医学部そして看護学校があり、看護を学ぶ進路も教育制度もすでに確固としたものでした。
わずか100年で築きあけてきた制度に、どれだけの先人たちの苦労があったのだろうと思います。
100年というのは、本当に不思議な長さだとつくづく思うのです。


さて、セント・トーマス病院内に1860年看護学校が創立されています。科学的近代看護の時代を切り開くことになったナイチンゲールによるナイチンゲール看護学校です。


ナイチンゲールの看護の定義と基本精神が、論文の中に紹介されています。

 ナイチンゲールはまた、看護を「病気を予防し、治療し、回復させるために、病人を最良の状態におくケアーである」と定義し、治療されなければならないのは病人であって病気ではないことを強く主張した。そして彼女は「病気ではなく病人を看護せよ」という言葉を生涯のモットーにしたのであった。


日本の看護は、看護の定義とその精神をもってイギリスから取り入れたことが幸いだったのではないかと思います。


それに対して助産は未だに明確な定義がなく、明治以来、「分娩の正常と異常の境界線」に翻弄されてきたのではないかと思えてきます。


「病気ではなく病人を看護せよ」
それを助産に置き換えるのであれば、「正常なお産か異常なお産かではなく、すべての妊産婦さんと児の助産をせよ」ということになるのだと思います。


助産って何でしょうか。




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