境界線のあれこれ  1    <土地は誰のものか>

胎児は羊水の中で爪や皮膚の柔らかさは同じで、生まれた瞬間から「それまで一体だった皮膚と爪、あるいは指と顔の境界線が明確になる」のではないかと思っていることを書きました。


新生児の動きを見ていると、おそらく自分の体の細かい部分は認識されていなくてアメーバのような感じなのかなと思うことがよくあります。


手、体幹部、足など、大人であれば当たり前のように認識しているその境界がなくて、それこそ手当たり次第に動いてぶつかって・・・を繰り返していくうちにそれぞれの部分を認識しているかのように見えます。


先日来、東南アジアでの日々があれこれ思い出されている中で、私が新生児の動きに「境界線」という言葉を用いながら観察していた理由があるような気がしてきました。


あるいは、「分娩の正常と異常の境界線」も同じかもしれません。


「境界線」
何かそれを意識してきたのには、いろいろな体験があったと思い出されてきたのでした。


<土地の境界線>


私が一時期住んでいた東南アジアのある地域は、イスラム教、キリスト教そしてアニミズム少数民族の人たちが混在している地域でした。


さらにイスラム教でも多数の民族に分かれていましたし、キリスト教でもカトリックプロテスタント、そのプロテスタントもまたいくつも宗派がありました。


慣れてくると、容貌や服装などで違いがだいたいわかるようになりました。


都市部の市場の店なども微妙に棲み分けられていましたが、集落になるとはっきりと分かれていました。

車で通過するだけでも、そこはイスラム教の人たちの村かそれともキリスト教の人たちの村なのかがすぐにわかるようになりました。


キリスト教徒の村は、竹の垣根や庭木などできっちりと隣の家との境を区切り、それぞれの個人の家の敷地が明確になっていました。


それに対して、イスラム教の地域には垣根というものがないのです。
木や草が茂った中に、ぽつんと家が建っています。


塀や垣根をつくる文化圏から訪れると、最初はなんとも心もとなく感じました。


そのうちにイスラム教の人と関わりができて行き来するうちに、その理由を知りました。


「土地は神のもの。私たちはそれを借りているに過ぎない」
「私たちの社会では土地の『所有権』はないし、地主もいない。所有しているのではなく、神から借りているにすぎない」
「たとえば『あの木まで』とか『あの石のところまで』といったもので、おおよその目安にしている」


山の奥地に住む少数民族の村を訪ねた時にも、同じような話を聞きました。
遠い森を指して、「あのあたりまでが、○○族の土地だ」と。


境界線って何だろう。
今も心のどこかで強く意識しているのは、そんなことがきっかけだったように思います。





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