沐浴のあれこれ 1 <日本編>

「新生児をお風呂に入れることを沐浴(もくよく)と言います」とこちらの記事で書きましたが、もともとはもっと広い意味があります。


Wikipediaの「沐浴」の説明を引用します。

沐浴とは一般的には体の一部またはすべてを清める行為、ただし表現としては宗教的な儀式を指すことが多く、また宗教によって呼び名も異なる。乳児の身体を洗うことも含まれる。

そんな「沐浴」から思い浮かべたとりとめもない話をあれこれと書いてみようと思います。


<お風呂の思い出>


日本人はお風呂好きというイメージがありますが、1960年代の庶民にとってお風呂はまだまだ贅沢なものでした。


自宅のお風呂(内風呂)がある家のほうが少なく、私も一時期親に連れられて銭湯に通っていた記憶が残っています。
ほどなく父親の転勤で入った官舎にはお風呂がついていて、母親が歓喜していたことを覚えています。
それでもまだガスではなく、オガライトという木くずを固めた特殊な燃料を使用していましたから温度調節が難しいものでした。


夕方になると官舎のあちこちの家から、煙が立ち上り始めます。
外で遊びまわっている子どもにとって、そろそろ家に帰らなくてはという時計替りでした。
そして自分の家の煙突から煙がでていないと、「今日はお風呂はないんだ」ということを悟っていました。
1960年代、毎日入浴することはまだまだ贅沢な時代でした。


関西で農業をしていた祖父の家には五右衛門風呂があって、夏休みで行くとおおはしゃぎで入っていました。
あれは本当に鍋で茹でられている気分でした。


1960年代後半になって官舎のお風呂も次々にガスに替わり、お風呂を沸かしたり温度調節をする手間が相当楽になったようです、大人には。
でも幼少時に近所の家がガス爆発で火災を起こしたのを目の当たりにした私にとっては、ガスで沸かすお風呂はこわくてしかたがなかったのです。


お風呂の準備をしている親がガス爆発にあって大変なことになるのではとか、種火をつけっぱなしにしていていつの間にかガス漏れしているのではないかとか、子ども心に不安のほうが大きくてお風呂の気持ちよさどころではありませんでした。


1970年代半ばには深夜電力を利用した給湯設備が出始めて、いつでも温かいお湯をふんだんに使えるとともに、お風呂場にガスの種火がなくなったことになにより安堵したのでした。


<給湯システム>


あの当時に比べると、電気でもガスでも現在の給湯システムは本当にハイテクでしかも安全ですね。


スイッチひとつで、いつでも適温のお湯が出ることが当たり前になりました。
住宅地でのガス漏れ事故も耳にしなくなりました。


あの東日本大震災の直後、ガス漏れ事故に恐怖心の強い私は、地震に続いてガス爆発が起きるのではないかという心配がまず頭に浮かびました。


自宅のガス管は地震直後に自動的に閉じられていました。感震しゃ断というようです。
説明書に添って復帰手順という操作をしてみました。
「使えます」という状態にはなったものの、ガス火をつけるその瞬間の恐怖は半端ではありませんでした。
「私がガスをつけたことで、このマンションが吹っ飛んだらどうしよう」と。


ポッと青白いガスの火がついた時の安堵感。


その後も強い余震が続き、原発事故が起き、先の見えない不安と非日常の緊張感の続く日々でしたが、ガスは静かに静かに平常通りの温かさを届けてくれました。


1千万人もの人が住む地域でガス漏れ事故のニュースがなかったことに、都市ガスのシステムが安全にそして途絶えることなく供給されて確実に稼働するために、どれだけの人たちがどのように働いていらっしゃるのだろうとただただ感謝と感動でした。



<沐浴のためにお湯を準備するということ>


1960年代半ばに住んだ官舎では台所にガス給湯器がありましたが、洗面所は水道水しかなく、冬は凍えながら洗面をしたものでした。
寒冷地手当が出る地域でしたから、それでも格別のはからいという感じでした。


温かいお湯を準備するには、やかんで沸かすしかない家もまだまだ多かった時代ではないかと思い返しています。


ところで、私のアルバムには生まれた直後の写真が1枚もありません。
2〜3カ月ごろにたらいで沐浴をしている写真から人生が始まっています。


二人目になると写真も少なくなるのか、と小さい頃はちょっと悲しい想いをしてすねていました。
写真が高価な時代でも、上の子はちゃんと病院で撮ってもらった写真があったのです。


でもその沐浴の写真をよく見ると、母の服装からまだちょっと寒い日だったようです。


あのたらいにたっぷりのお湯は、何度もやかんでお湯を沸かして準備したものだったのかもしれません。