産後ケアとは何か 10  <産屋(うぶや)と小屋場ー昭和30年代から40年代の変化>

前回までに紹介した資料を読むと、1960(昭和35)年代頃までの日本国内の生活習慣というのはかなり地域差があったことが伺えます。


特に出産に関してさまざまな古い慣習を見直すためには、「出産の医療化」が大きな転換を果たすことになったのではないかと思います。
産婦さんが助産所を含めた医療機関に入院という形で、一度、家族や地域から引き離されることで、医学的な理由による産後の休養の必要性を比較的短期間で社会に浸透させることができたのかもしれません。


「出産の医療化」とは、まず出産には医療的な対応が必要であるという認識を広げる段階と、できれば医療機関で出産することが大事であるという認識を広げる段階に分かれるのではないかと思います。


前者にはそれを伝える専門職が育つ期間が必要でしたし、後者には健康保険制度や医療施設の拡充といったインフラが整備されるまで待つ必要がありました。


ちょうどその中間点ともいえる、昭和30〜40年代の資料を紹介しながら当時の状況を思い浮かべてみたいと思います。



伊吹島の産屋が終わった時代>


「日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃」「産婆から助産婦へ、終戦後の離島での出産の医療化」で紹介した、研究者伏見裕子(ゆうこ)氏の論文「産屋と医療ー香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリー」(女性学年報第31号、2010年)では、それまで長いこと「産後1ヶ月滞在していた」産屋(うぶや)がなくなっていく過程が書かれています。


(女性学年報から引用できないので、私のほうでおおよその内容をまとめたものになります。またもし伏見さんがお読みになられていて不都合な点がありましたらどうぞご連絡ください)



伊吹島の産屋デービヤは、自宅の納戸で出産した後、翌日に産婦さんと赤ちゃんが坂道の多い島内の道を歩いて移動して、そのあと1ヶ月間休養をとる施設でした。
1970年まで使用されていたようです。


伊吹島助産婦として赴任したNさんは、分娩後に移動せずにデービヤで産んでデービヤで休養をとるように勧めましたが、なかなか昔からの慣習を変えるのは大変だったようです。
それでもすこしずつNさんの医学的な対応が信頼を得るようになったのか、「3人に1人ぐらい」はデービヤで産む人が出てきたためにNさんはデービヤに分娩室をつくったそうです。


ところが1960年代に入ると、伊吹島ではむしろ「自宅で産んで自宅でそのまま休養をとる」人が多くなり、デービヤ使う人が次第にいなくなっていったようです。
伏見氏はその理由を島民の聞き取りから、「嫁の地位の向上」にあると書かれています。


出産直後であっても姑に「下女のように」使えなければいけなかった嫁が、1960年代ごろになると、産後自宅にいてもゆっくり静養できるようになりデービヤの必要性がなくなったとしています。


産屋を産後の女性にとって理想的な共同体のように書いた物も時折ありますが、伏見氏の聞き取りによれば、共同生活よりも自宅で静養できるのであれば自宅を選択するという意見もあったようです。


この変化の背景には、産後の休養に対する認識が徐々に社会へ広がったこともあるのではないかと思います。


デービヤについては、また後日続きを書いてみたいと思っています。


山形県の小屋場>


伏見裕子氏が「女性学年報第33号、2012」(日本女性学研究会、女性学年報編集委員会)に載せた「山形県小国町大宮地区の産屋にみる安産信仰と穢れ観の変化 −出産の医療化および施設化との関連を中心にー」では、小屋場と呼ばれた産屋について書かれています。


数百年来、「小屋場の出産において『死んだ産婦もいなければ赤ん坊もない』」と信じられ、陣痛が始まると小屋場に移り、産後一週間まで滞在して休養をとる場所だったようです。


この論文の主旨は、この安産信仰に対してその地域の人たちが実際に医療に助けられるという出産の現実の中で変化した様子についてであり、1960年代終わり頃には使われなくなっていく経緯を書いています。


この論文の中で、当時の産後の休養についていくつか参考になる箇所がありました。


1970年代初めの頃に出産した人への聞き書きでは、自身が嫁姑の関係で苦労したため嫁に苦労を強いることはなかったという姑の話が書かれています。
商売をしているので大変忙しい家であったけれど、「産後21日までは実家で過ごし」「産後21日経つとすぐに帰ってくるように姑に言われた」とあります。
これはヒアキ(産の忌が明ける)21日は「褥婦は寝室に籠り、入浴もせず、食事も運んでもらう」「この間の褥婦の飲食物は、一度他の器に盛り替えてから飲食せねばならない」という風習が大事にされていようです。


この地域にも1950年代には町立病院と母子健康センターができ、異常のない妊婦は母子健康センターで産むこともできたが、「(母子健康センター)では食事を家から運ばなければならなかったため親に迷惑をかけるのはいや」と、病院で産むことを選択した人もいたようです。


1970年代になると出産の穢れとしてのヒアキを意識する人はいなくなり、病院で出産するようになると実家に里帰りする期間とみなされ、やがて病院の1ヶ月健診と同一視されるようになったとのことです。


ほとんどが自宅で出産するしか選択のなかった時代から、逆転して医療機関での出産が9割以上になった1970年代までのわずか二十年間に、産後の休養という認識もまた大きく変化したのだろうと思われます。
そして都市部と地方での風習に対する意識の差が、医療機関での出産により少なくなっていった時代でもあるかもしれません。


1950年代に児童福祉法で設置が進められた母子健康センターもまた、それに大きな役割を果たしたのではないかと思います。
次回はその母子健康センターに関する資料を紹介する予定です。




「産後ケアとは何か」まとめはこちら