助産師だけでお産を扱うということ 6 <「役割は終わった」>

助産婦だけで分娩を取り扱う助産部門があった母子健康センターは、農山漁村やへき地地域だけでなく、実は都内にもかつてありました。


1970年代終わり、看護学生の時に都内23区内にある母子健康センターを見学したことがあります。
分娩も扱っていました。
1980年代終わりに閉院となったようです。


今ではかなりおしゃれな町で、かつてここに低所得層の産婦さんを対象にした母子健康センターがあったとは想像できないことでしょう。


看護学生時代の見学から10年ほど過ぎて、助産師になって働き始めた病院で、偶然そのセンターで働いていた方が閉院に伴って入職され、一緒に働くことになりました。


お産はこわいと口ぐせのようにおっしゃっていました。


1980年代終わり頃はまだ、都内でさえも総合病院からさらに高次病院へ搬送するのは大変な時代でした。
医師が大学のつてなどを頼って搬送依頼をしていたので、受け入れまでとても時間がかかりました。なにより、高次病院への搬送自体が非常に限られていたように記憶しています。


まだまだ手の尽くしようがないことも仕方がないことが多かった時代でした。


<1950〜80年代の時代に生きた助産婦さんたち>


そういう時代に、当時60代から70代の助産師の大先輩方と一緒に働いたことは、私にとってはとても貴重な経験であったことが、今になってようやくわかるようになりました。


当時の最先端の周産期医療を学んで助産師になり、意気揚々と臨床に出た私にとっては、正直なところ「古い時代」の方々としか見えていませんでした。


ちょうどその1980年代終わりから1990年代にかけて、「自然なお産」の流れで昔の産婆さんや、開業助産婦さんが注目を集め始めていました。


当時、一緒に働いていたその60〜70代の助産婦さんたちは、注目されている「昔の産婆さん」や「開業助産婦さん」たちと同年代だということさえ気づかないほど、ひっそりと働いていらっしゃいました。


「ひっそり」というのは、分娩監視装置や血管確保などの医療介入にも「こんなことは不要」とも言わなかったし、正常に経過しているお産でも「助産婦だけで扱える」などとは言わずに医師を呼んでいましたし、会陰切開をさせないように頑張ることもありませんでした。


少し「自然なお産」や開業に気持ちが向いていた当時の私は、この先輩方のことを開業する気力もない方と見ていたのだろうと思います。


けれども雑誌などで注目され始めていた開業助産婦さんを目標にしつつ、どこかで私の気持ちにブレーキがかかっていたのは、この一緒に働いていた先輩助産婦さんの慎重さに信頼を感じていたからかもしれません。


そして最近では、こうして1950年代頃からの資料を読むことによって、この先輩方と同年代の助産婦は「役割が終わった」ことを認め、次の時代にバトンを渡す大事な使命があったのだと思えるようになりました。


<「役割が終わった」>


戦後から1980年代頃までの助産婦にとって、役割とは何だったのでしょうか。


誰もが医療にかかることができ、医師のいる施設での分娩を可能にすること。
さらに医療格差を少なくすること。
この2点ではなかったのかと思います。


母子健康センター助産部門の閉鎖の理由に「助産婦の高齢化」と「後継者不足」と書かれていますが、むしろ後継者を育てるのではなく、助産婦だけで分娩介助をする時代は終わったという幕引き役を担った方達のように思います。



こうした時代に自分の使命を理解し、ひっそりと時代に合わせて働き続けた助産婦のことがもっと敬意をもって伝えられてよいのではないかと思います。


「お産はこわいよ」と私達の時代にバトンを渡してくださったあの大先輩の方々こそ、明治以降の無資格者から産婆へ、産婆からさらに看護婦の資格を有した助産婦の分娩介助へ、そしてすべてのお産を医師とともに介助する社会へとつなげた最後の走者だったのだと思うのです。



助産師だけでお産を取り扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。