産後ケアと出稼ぎ 2  <途上国からの海外出稼ぎ>

日本にもかつて農村の余剰人口の対応のために、積極的に出稼ぎとしてあるいは移民として海外に送り出す側であった時期がありました。



日本でも海外渡航が庶民の手の届く金額になり、海外との人の移動が格段に増えた1980年代に、日本は海外からの労働者を受け入れる側になりました。


以前のように、その国に移住するという決断まですることはなく、2年とか数年で祖国に戻る海外出稼ぎという言葉が定着したのもこの頃だったと記憶しています。


そして以前の労働者としての移民は主に男性でしたが、この頃から女性向けの仕事が増えました。


海外出稼ぎを国策として奨励しているフィリピンについて書かれた「フィリピン人の海外出稼ぎ(OFW)の現状と市民活動では、出稼ぎの「女性化」と送り出す側の国では「現代の英雄」とされている点がわかります。


「海外からの出稼ぎ収入対GDP比の各国比較(2010年)」という資料がネットにありましたが、それをみると、海外出稼ぎ労働がなければ国として立ち行かないのではないかと思うほどです。


<女性が海外に出稼ぎに行くということ>


出稼ぎの「女性化」。
その中心年代は、ちょうど女性が出産・育児をする時機に重なります。


1980年代後半の日本で、女性の海外出稼ぎといえば「エンターテイナー」として飲食店での接客業が主でした。


当時、私は日本へエンターテイナーとして女性を送り出す側の国に住んでいました。
容姿が整っていて、歌や踊りが上手な女性が選抜されるしくみになっていました。
そのための訓練校もありました。


日本大使館のビザ発行の窓口には、こうしたエンターテイナー用の特別の窓口がありました。
その国から日本へ行ってみたいと思ってもビザが取れることは容易なことではなかったのですが、エンターテイナーに限ってはブローカーが書類の束を窓口に提出するだけで済んでいたようです。


日本へエンターテイナーとして行くことは、女性の中でもとても幸運なことであり、選ばれた女性として誇りを持っていた女性たちだったのです。
日本で私達が受け取る印象とは違って。


当然、未婚の若い女性です。


1990年代前半、私が勤務していた病院では年に何人か、東南アジアの女性の飛び込み分娩がありました。
エンターテイナーとして日本に来た後、オーバースティで働き続けるうちに妊娠してしまったのです。


不法滞在であっても、人道上、安全に出産をすることが優先されますから、医療機関では入院助産制度を使って受け入れていました。


こうしたエンターテイナーとして海外からの出稼ぎが定着して何年かするうちに、リピーターとして来日する女性も増えました。
あるいはオーバーステイではなく、日本の男性と結婚して在留許可をとり、出産する女性も増えてきました。


そういう女性の中で時々見受けられるのが、祖国に乳幼児を置いてきていることです。
前のパートナーとの子供であったり、事情は複雑のようです。


<子供を置いて出稼ぎに行く>


容姿や歌に特別の才能がない女性は、主にメイドとして香港や中近東の富裕層の家庭に派遣されていました。


1年、2年と頑張れば、子どもを学校に行かせることもできるし、家族や親戚のためにお金を稼いでくることができます。


おそらく心身共にそうとうつらい労働だったと思うのに、一度出稼ぎに行った女性はもう一度行こうと機会を待っているようでした。


産後1ヶ月ぐらいで、赤ちゃんを実母や姉妹に託して出かける女性もいました。
出稼ぎの機会を逃さないことが何より優先されているようでした。
私が住んでいた地域では、そういう親戚に育てられているこどもをあちこちで見かけました。


出稼ぎに行く女性が必要な地域には、現金収入になる仕事を見つけて家族を養わなければならないたくさんの女性が背後にいます。
海外出稼ぎも夢でしかない、その地域でなんとか頑張るしかない女性です。


出産も関係なく働き続けなければならない女性について、こちらの記事で紹介したダナ・ラファエル氏の本から、次回紹介してみようと思います。