こちらの記事で、自分なりに考えた「達人」のレベルに近い働き方ができるようになってきたことを書きましたが、それは経験量が増えたこともありますが、比較的ローリスク対象のクリニックで10年ほど継続して働いてきたこともあると思います。
今、私が周産期センターに移動したら、一からとまでは言わなくても初心者なみに近い働きになる部分もあります。
周産期医療というひとつの分野でさえ、その領域はかなり広くて、施設によって助産師に求められる知識や技術も違うからです。
分娩の医療化、分娩の施設化が急速に進んだ1960年代以降、助産師はそれまでの建前上の「正常分娩を独立して取り扱う」ものから、病院で「異常分娩になっても関わる」ことへと変わりました。
「建前上」というのは、「出産の正常と異常について考えたこと 3 <『正常』の変遷>」で書いたように、「正常」というのは社会の情勢によってもその境界線は変化してきたことがあります。
あるいは「母子健康センター助産部門」のように、貧困や地域の文化背景から極めてハイリスクな出産を扱わざるを得なかった過渡期を経て、ようやく1980年代ごろからほとんどの助産師が病院で医師と共に働き、そして正常な経過だけでなく「全ての出産」に立ち会う仕事へと変化したのです。
これは大転換といってもよいことだと思います。
<「正常な分娩にだけ対応できる」助産師>
1980年代後半、「自然なお産」を求める動きの中で開業助産婦さんたちが、助産婦の鑑(かがみ)として話題にされる機会が増えました。
当時、その時代の渦中にいる時には、「正常な出産だけでなく、全ての出産を扱う」助産師への大転換の時期であったことは、私も全く見えていませんでした。
ですから、優しい微笑みを浮かべてどっしりと構えて写っている大先輩の姿と自信に満ちた話に、全能感のようなものさえ感じてしまっていました。
いつ頃からでしょうか。
開業というのは、「正常分娩にだけ対応できる助産師」だという当たり前のことが見えたのは。
限られた範囲内では達人かもしれないけれど、それ以外(異常の対応)では初心者であるといえるわけです。
<正常な経過に対応し、さらに救急対応ができる>
現代の助産師は名称も業務も1947(昭和22)年の保助看法の内容から変わっていないけれど、当時は想定されていなかったであろう「全ての分娩」に対応することが求められるようになったわけで、もう時計の針を「昔」に戻すことはできません。
「全ての分娩」に対応できるということは、出産は母子二人の救命救急でありいつでも対応できるということです。
その救命救急にあたる頻度という視点から各分娩施設の助産師の能力を大雑把に見ると、以下のようになります。
助産所あるいは自宅・・・正常な経過のみ。異常になると搬送あるいはオープンシステムで介助。異常に対応する機会は少ないかほとんどない。
クリニック・総合病院・・・ハイリスクは搬送するが、緊急帝王切開・吸引分娩が必要あるいは出血多量などの経過は日常的に介助。
周産期センター・・・ハイリスクが主。救命救急の対応は日常的。
月数件の分娩予定者(しかも経産婦が主)の場合、確かに満足度の高い分娩介助ができることでしょう。
でも救命救急の力量を維持することは難しいことでしょう。
人はオールマイティにはなれないので、何かを選択すれば何かを失うわけです。
「正常な分娩のみを介助する」ことを選択することもかまわないと思います。
ただ、その選択によって失う機会があることをきちんと認識できていればの話。
そういう簡単なことなのに、出産の介助者として救命救急の力量不足の助産師のほうがカリスマ視されてしまった時代だったといえるのかもしれません。
「簡単なことを難しくしているのではないか」まとめはこちら。