乳児用ミルクのあれこれ 11 <缶入りの練乳はどのように乳児に使われていたか>

私が幼児だった1960年代(昭和30年代後半から40年代)の頃には、冷蔵庫が一般家庭にも普及し始めた時代でした。
私には冷蔵庫がない記憶というものがないのですが、家庭電気文化会の「家電の昭和史 冷蔵庫編」には以下のように書いてあります。

昭和40年、冷蔵庫の普及率は50%を越えました。

全戸に1台の時代を迎えるのは、昭和50(1975)年になってからのことです。

私が幼児だった頃は冷蔵庫がある家庭がまだ半数しかなかったこと、高校生になる頃にようやく全家庭に冷蔵庫が普及したということです。
今更ながらに、まだそんな時代だったのかと感慨深いものがあります。



<練乳はどのように使われていたか>


小学生の頃は、缶入りのコンデンスミルク(加糖練乳)がちょっと贅沢品でした。
一度缶を開けると冷蔵庫に入れていましたが、缶は酸化しやすいから早く使い切るようにいつも親が注意していました。
よく考えると、「細菌で腐る」からではなく「缶が酸化する」ことが理由でした。


冷蔵庫さえあれば、缶入りの加糖・無糖練乳は保存性がよいことを私の親の世代は知っていたのでしょう。


冷蔵庫がない時代にはどのようにこの練乳を乳児に与え、あるいはこの練乳も手に入らない時代にはどのように乳児に栄養を与えていたのでしょうか?


参考になる話が、ダナ・ラファエル氏の「母親の英知 母乳哺育の医療人類学」(医学書院、1991年)の1970年代、西インド諸島のセント・キッツ島での調査に書かれていました。


セント・キッツ島では、男性がアメリカなどへ出稼ぎに出てしまっていました。残された女性は産後2週間もすると母乳から混合栄養にして、自らも働きに出始めます。


調製粉乳を買えるだけの経済的余裕がない75%の人たちが、濃縮ミルク、練乳を使っていたようです。

生まれるとやがて並行して、ミルクを哺乳瓶に入れての飲ませました。濃縮ミルクを沸騰したお湯で溶き魔法瓶に入れてとっておくのです

この一文を読んだ時、おもわずなるほどその手があったかと思いました。



<母乳かミルクしか選択がないわけでなかった>


常時離乳しているで紹介したように、ダナ・ラファエル氏たちはフィールドワークを通して、いろいろな地域の母親達が母乳の不足分を早いうちから混合食で補うことで育ててきたことを明らかにしました。


上記のセント・キッツ島で濃縮ミルクが購入できない場合には、薬草茶やさまざまな混合食が試されている様子が書かれています。

濃縮ミルクでも高いという人は薬草茶を飲ませます。特別な潅木や木の葉を摘んで乾燥させ、それを熱湯に浸してお茶を作ります。そのお茶にさしあたって必要なだけの量の濃縮ミルクを溶かして飲ませるわけです。たいがいは2ヶ月になるまで待つのですが、ジョイスは子どもたちが生後1ヶ月になるとすぐに軟らかい食べ物を食べさせ始めました。既製品のベビーシリアルかとうもろこしの粉をティースプーン1杯、濃縮ミルク、熱湯、砂糖少々を混ぜて作ったおかゆです。朝6オンスのおかゆを作り、魔法瓶に入れてとっておいて1日2度哺乳瓶に入れて飲ませます。ロッキーポイント村では子どもが1〜2歳になるまでとうもろこしのおかゆが主食になります。

母乳と粉ミルクしか思いつかない私たちには、これで赤ちゃんは育つのだろうかと不安になるような方法です。


これに対して調査報告の中では以下のように書かれています。

ロッキーポイントでは軽い栄養失調は珍しいことではありません。乳児はほぼ十分な栄養を摂っているのですが、1〜2歳になると問題がでてきます。
島全体の赤ちゃんの赤ちゃんの約半分が、年齢別標準体重を下まわっていることがジュディの調査でわかりました。しかし、そういう事実があってもまだ、赤ちゃんの段階では十分な補充食を食べさせてもらっているので、厳しい環境にも耐えていく力が備わっています。
実際、セント・キッツ島の乳児死亡率は他の開発途上国の半分という数字になっています。


ダナ・ラファエル氏が「母親の英知」とつけた意味がよくわかると思います。


そしてセント・キッツ島の乳児死亡率が半分であるのは、まさに「子どもの命を救う魔法はミルク哺乳にあるのではなく、子どもの健康を守るのにどれだけのお金を使えるかにかかっている」ということでしょう。


セント・キッツ島の女性が早いうちから混合食にしていく理由は、不定期に得られる仕事にすぐに対応できるように備えるためです。
現金収入があるからこそ、濃縮ミルクもそれ以外の食糧も買えるのです。




このセント・キッツ島の報告が書かれたのは、ちょうどネスレの粉ミルクの不買運動が広がり始めた時期です。
粉ミルクが乳児を殺す、あるいは「哺乳ビン病」など、途上国での「粉ミルク販売の問題」ととらえられていきました。
それが今日の母乳推進運動につながっていきます。


でもこうして世界中の親がなんとか乳児に栄養を与えようと母乳とミルク以外のさまざまな方法を編み出してきたことを知るにつけ、あのネスレ不買運動は途上国の問題を単純化しすぎたまま、乳児用ミルクへの忌避感を人の心に残してしまったのではないかと思うこの頃です。




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