乳児用ミルクのあれこれ 12 <缶入り練乳から粉ミルクの時代へ>

乳牛や山羊が身近にいる地域でしか手に入らなかったミルクが、保存可能な缶入り練乳となって他の地域でも手に入ることができた時代には、どんなに喜びを持って迎えられたことでしょうか。


そしてほんの半世紀前までの日本のように一般家庭に冷蔵庫がない時代には、開封後にも長期保存ができる製品が求められたのは当然の流れだといえるでしょう。

日本乳業協会の「人工栄養の歴史」には以下のように書かれています。

初期の粉乳時代

大正4(1915)年頃から、乳児の栄養代謝についての研究が始められ、大正6年、我が国最初の育児用ミルク「キノミール」が和光堂より発売されました。


<日本で育児用ミルクが作られた頃>


北九州イノベーションギャラリーというサイトの産業技術年表に当時の様子が書かれています。

和光堂の初代社長、大賀彊二は、乳幼児の死亡率を低下させるために、赤ちゃんの栄養不足を解消したいと考えていた。ところが、一般家庭には冷蔵庫などない時代であり、牛乳を冷蔵保存することができず、特に夏場はすぐにいたみ、販売業者も牛乳に関する専門知識が乏しく、品質を落としがちであった。いたんだ牛乳を飲んだことが原因で、赤ちゃんが命を落とすケースも多々あった。そこで、牛乳を粉末にすることができれば、保存も簡単で、溶かせば純良な牛乳に戻り、多くの赤ちゃんの命を救うことができると考えた。当時の技術では、牛乳の粉末化は不可能であると考えられていたが、(以下、略)

一世紀前ではまだ、粉ミルクは夢の技術であったということです。


和光堂のHPには、創始者・弘田長(つかさ)博士と当時の乳児死亡率について書かれています。

この和光堂薬局を設立したのは、東京帝国大学(現在の東京大学)に初めて小児科を設けた弘田長(つかさ)博士です。

弘田博士が和光堂薬局を開局した当時の日本の乳幼児死亡率は、1000人あたり150人〜160人と非常に高いものでした。現在の乳幼児死亡率は、世界でもっとも低く、1000人あたり4人程度です。現在と比較すると、当時はいかに多くの小さな命が失われていたかがわかります。

ネスレ社の創始者アンリ・ネスレも薬剤師でした。
19世紀末から20世紀初めの頃、栄養失調で憔悴し、亡くなっていく赤ちゃんや子ども達を前にしてなす術もなかった医療従事者にとって、粉ミルクの製造が可能になることはどんなに待ち望まれたことだったでしょうか。



<粉ミルクが普及し始める時代>


牛乳の粉末化が可能になったのは、非常に画期的なことだったでしょう。
ただ、「当時は人工栄養の知識も乏しく、価格も高かったので、広く普及するにはいたりませんでした」(「人工栄養の歴史」)とあります。


安全に、そして普通に購入可能な価格でたくさんの乳児が粉ミルクの恩恵に預かるには、日本でも特殊調製粉乳が大量に生産可能になる昭和30年代です。

特殊調製粉乳時代


日本の経済が急速に回復する中で、正しい栄養摂取のあり方、母乳成分の研究、新しい技術の導入などで、育児用粉ミルクは、母乳に近いものになりました。
(中略)
昭和30年代の終わり頃には、各社の製品はすべて特殊調整粉乳になり、昭和50年以降は、砂糖の添加もなくなりました。


ちょうど同じ頃、出産が医療施設で行われるようになり、母子別室、新生児は新生児室に預かって規則授乳とミルクを補足するという方法が取り入れられていきました。



こうして粉ミルクの歴史を振り返ってみても、やはり栄養失調が乳幼児の健康を脅かす一番の理由だったということがわかります。
そして日本でも今の開発途上国と同じ問題を抱えていたのは、そう遠くない昔の話だったのです。




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