乳児用ミルクのあれこれ 13 <栄養状態の悪い乳児と乳児用ミルク>

一世紀前、まだ牛乳そのものを乳児に与えるしか方法がない時代には、牛乳を介した結核の感染や乳児の消化能力にあわせていないための消化不良というリスクがありました。


缶入りの練乳の時代に入って開封前の長期保存が可能にはなりましたが、やはりまだ乳児の消化能力に合わせた製品ではなく、開封後の細菌感染というリスクがありました。


牛乳を粉末にするという夢の技術を手に入れ大量生産が可能になったあとは、1955(昭和30)年の森永ヒ素ミルクや最近では中国のメラミン混入など、製造過程での食品の安全性に関するリスクもあります。


それでもなお、乳児用ミルクがなぜ社会から求められているのでしょうか。


ラオスの母子保健プロジェクトの報告より>


聖マリア病院が関わってきた国際保健医療協力の団体、NPO法人ISAPH(International Support and Partnership for Health)のHPに「ラオスカムアン県での母子保健プロジェクト」として「粉ミルク支援」の報告があります。


その支援理由を抜粋して紹介します。

父親から、コンデンスミルクや牛乳を薄めたものを飲ませていたが、日に日に元気がなくなってきたとの報告を受けた。父親は粉ミルクで子どもを育てたいが資金を工面できない為ISAPHへ支援要請をするに至った。

産後、母乳が出ず母乳での育児ができなかったため、コンデンスミルクを薄めて与えていた。支援当初は生後7ヶ月であるが体重は5kgしかなく、標準体重を下回り低体重児となっている。(中略)貧困の為、月に1〜2箱の粉ミルクしか買えないなどの状況が確認されたため支援を決定した。

出産後、母親は祖母に子どもを預けタイへ逃げてしまった為、現在、子供はコンデンスミルクで育てられている。

産後からの母親の下痢が続いており栄養状態は良くなく、その母親の子どもの顔色も悪く、また非常にやせ細っていた。母親の具合が良くなるまでという約束で粉ミルクを支援した。

双子の為、母乳のみでは栄養不足と判断されたため、体重の少ない子どもへの粉ミルクを支援した。

先月、母親が死亡したため、10月のみ粉ミルク支援を決定した。

母親は厳しい食物タブーを行っており、もち米、しょうが、焼き魚を少量しか食べていない。母乳育児は行っておらず、コンデンスミルクを与えて育ててきた。これまで7回妊娠し5回出産、そのうち3人の子どもを亡くしている。母親から情報収集を行うと同時に食物タブーに関する健康教育を行ったが、タブーを破って悪いことが起こることを非常に怖れており、引き続き個別の健康教育を行うとともに粉ミルク支援を決定した。


「WHO・乳児死亡率・新生児死亡率、国別順位(2011)」によれば、ラオスの新生児死亡率は22(対出産1000人)、乳児死亡率は46(対出産1000人)です。
あくまでも国全体の平均ですから都市部と農山村では差があることでしょうし、どこまで正確に把握されているかという問題もありますが、日本も半世紀から一世紀前までは同じような状況だったことでしょう。


子どもにお金を使うことができない貧困や衛生状態の悪い状況で、あるいは母親や乳児の体調が悪いときなど、乳児用ミルクは本当はたくさんの子ども達を栄養不良から助けてきたことでしょう。


ただただ乳業会社の宣伝に踊らされていたわけでもなく、西欧文化への憧れから母乳哺育をやめたわけでもなく、もっと切迫した必要性があるからこそ、乳児用ミルクが求められ続けているのだと思います。




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