乳児用ミルクのあれこれ 22 <「なぜ世界の半分が飢えるのか」>

1977年にはじまったネスレ・ボイコット、それは多国籍アグリビジネスの粉ミルクを買わない、買わせない運動といってもよいかもしれません。


前回の記事で紹介した「世界の母乳育児推進と人工乳の販売促進(マーケティング)を規制する運動の歴史」年表からも、1970年代に人工乳のマーケティングに規制を求める動きが高まっていったことがわかります。


その時代背景を知るひとつ、というよりも大きく社会を動かした人としてスーザン・ジョージ氏が挙げられることでしょう。


彼女の著書、「なぜ世界の半分が飢えるのか 食糧危機の構造」(
朝日選書257、朝日新聞出版社)が日本で出版されたのは1984年でした。


当時20代半ばで途上国で働いていた私は、すぐに購入しました。

アジア、アフリカ、中南米に集中している食糧危機や飢餓は、決して異常気象、人口過剰、農業技術の遅れなどに起因するものではない。元凶は先進大国、農業関連多国籍企業の食糧戦略と不公正な社会制度にあることを明快に実証する。

政治経済は度素人でしたが背伸びをしながらこの本を読み、自分が関わっている途上国の状況はまさにこの通りだと納得したのでした、当時は。


そして多国籍企業やその商業活動を途上国で推進するために各国のODA(政府開発援助)が使われていること、そのためにさらに貧富の差が拡大していることなどが許せないと、私の正義心に火をつけたのでした。


現在読み直してみると、スーザン・ジョージ氏の主張も確かに一理あるけれど、事はそんなに単純ではないとようやく冷静にこの本を手にとれるようになりました。
あるいは、この本に書かれているのは1970年代のことであった、と私の中では過去形で読み返せるようになりました。


1984年当時、この本の「選書版のために」の中で訳者がこう書いています。

いまから4年前、この訳書が出版されたころ、いわゆる世界の食糧危機について、これを先進国側、特に多国籍企業の問題としてとらえた本書のような著書は、日本では皆無に近いといってもよかった。
だが、その後わずか数年の間に、同様な視点から食糧問題をとりあげた海外の文献が多く紹介され、またわが国の研究者の手になる著書もいくつか出版されて、かつてのように第三世界の食糧難と過剰人口とを単純に結びつけるような議論は、ほぼ聞かれなくなったようだ。

あの頃の日本社会の途上国に対する視線とは、「日本も敗戦後、一から立て直した。同じように途上国も努力をすれば先進国入りできる」あるいは「人口が多すぎるから飢餓がおきる」というものでした。


そうした先進国側に一石を投じたのが、1977年に出されたこの本だったのです。


<スーザン・ジョージのネスレ批判>


さて、この本の中でスーザン・ジョージが激しくネスレ社を批判した箇所があります。

 世界でもっとも悪質なアグリビジネスを選ぶとしたら、その候補になり得る企業は数多い。ユナイテッド・ブランズ、ラルストン・ビュリナ、ユニリーバなど、すべて有力候補である。
だが、私は、熟慮の末、広告戦略によってアフリカで乳幼児の栄養失調を増やすことに貢献したネッスル社に第一位の栄冠を贈りたいと思う。ネッスルはまた、労働争議、相手国に不利な契約を押し付けるといった分野でも批判を受ける資格がある。(p.219)

原著の出版が1976年ですから、ネスレ・ボイコットが始まる前年に書かれたものです。


ちょうどダナ・ラファエル氏らが、乳児栄養の現代的方法(人工栄養ー母乳の喪失ー乳児の死亡)という図式を成立させてしまった方向性への疑問を持った年でした。


スーザン・ジョージ氏の同書の中でも上記に引用したこの一文は、他の部分に比べて異例に感じるほど怒りがこもった文章だと感じます。
ネスレ(当時はネッスル)社がアフリカの乳幼児の栄養失調を増やすことに貢献した」
その根拠は何か、別の要因はないかといった冷静な見方もできないほど、突き動かされてしまったのかもしれません。
多国籍企業アグリビジネスを糾弾する目的のために。


「なぜ世界の半分が飢えるのか」
途上国の問題や経済に関心のある人なら、必ずと言ってよいほど手にする本ではないかと思います、現在でも。


たとえば、京都大学経済学部の「2010年度後期 国際農政論(9) 多国籍アグリビジネスの事業展開と『企業の社会的責任』」という講義資料の中でも、上記のスーザン・ジョージの書いた内容が使われています。(p.14〜15)


同講義資料では「粉ミルク販売をめぐる問題」の中に、次のように書かれています。

1977年 非倫理的販売方法に講義し、米国で同社製品に対する不買運動開始。

1979年 (略)「粉ミルクの宣伝広告、無料試飲の提供、販売手段として保健所・病院等を利用することなどの禁止を求める勧告」を採択

医療機関内での企業の経済活動をどこまで認めるかという経済ルールを議論することは必要だと思いますが、上記勧告に挙げられたことが「非倫理的」とされるほどの根拠は何なのでしょうか。


この講義資料の中でも、「1930年代〜 粉ミルク育児と乳児死亡率との関連性の指摘」しか挙げられていません。
そう、粉ミルクではなく加糖練乳であり、その後はネスレ社の「非倫理的販売方法」批判の根拠となる医学的研究はひとつも挙げられていないのです。


1976年から1977年。
多国籍企業アグリビジネスへの批判運動の高まりの中で、乳児を殺すネスレ社あるいは粉ミルクのイメージは人々の心に残されてしまったのかもしれません。


「なぜ世界の半分が飢えるのか」という問いに、世界中で本当は簡単な答えがほしかっただけなのかもしれません。
「かつてのように第三世界の食糧問題と過剰人口とを単純に結びつけるような理論」があったように。
そして、豊かさを享受している側に生きている罪悪感を打ち消すために。





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